第六章 残酷な神託 ③
アンナは重い荷物を背負ったようにふらふらとしながら、気づけば地下牢の入口に立っていた。
そこは行政棟ではなく王宮の地下牢であり、王族や貴族が収監されている。有罪を受けた者は辺境の牢獄へ飛ばされるため、ここにいるのはまだ判決の出ていない者か、比較的軽微ですぐに出所できる者だ。
なぜここへ来たのかは、自分でもわからない。ただ、この世界の人間ではない彼ならば、何かこの状況を抜け出す方法を知っているかもしれないとは思っていた。
刑務官に声をかけ、扉を開けてもらう。すべての施設にアクセスできるのは、こういう時に便利である。
薄暗い階段はグレンのいた場所よりも良い環境だった。暗いだけで嫌な湿気はない。南側に位置する王宮では、陽あたりも良く、明るさもそれなりにある。壁も床も整えられ、並ぶものが鉄格子でなければ、貯蔵庫の一つとでも思っただろう。閉塞感と陰鬱さは変わらないが、それでも人としての扱いを受けられるはずだ。
最奥の牢の前で立ち止まると、刑務官が中の人物に声をかけた。いくらか厚い布団で天井を見上げていた彼は、怯えるようにびくりと肩を跳ねさせ起き上がる。
視線が合うと、ホッとしたように肩を落とした。それだけで、ミカドがどのような扱いを受けているかよくわかった。
罪人として扱われ、転生者の役目を果たすためだけに呼び出され、それが終わればまたこの牢に閉じ込められる。それはきっと、酷く辛いことだろう。
だが彼が神を理解できないならば、これも仕方ないことだ。神を信じる必要はないが、それでも理解はしてもらわなければならない。
ミカドは明るい表情で近づいてきた。しかしアンナの表情を見て、怪訝そうに伺う。
「おい、どうしたんだよ」
「……お知恵を、貸していただけますか」
アンナの言葉に、彼は理解できないとばかりに顔をしかめる。だがそれを無視して、アンナは刑務官の了承を得てから牢に入り、人払いをした。
ミカドが椅子を勧めたので、木製の椅子に座る。座面には柔らかいクッションが敷いてある。
この牢は声が響くから、近くの囚人には聞こえるだろう。あるいは、刑務官も聞くかもしれない。だから、あまり決定的なことは言えない。
どう話したものかと悩んでいると、ミカドが何か思い至ったらしく、静かな声で切り出した。
「グレンが捕まったんだって?」
「知っていたのですか?」
「うん、まあな。アルバートが珍しく渋い顔をしてたから聞いたんだよ。決定的な証拠はないが、完全に疑いも晴れないから解放できないってさ」
「アルバート様が……」
アルバートがグレンのことで悩むのは、少し意外だった。アンナはアルバートと行事以外でほとんど面識がなく、グレンもそのはずだからだ。
王宮は、疑わしいグレンを一刻も早く処刑したいのだと思っていた。さすがに冤罪で処刑したとなれば事だから、何か決定的なものが出るのを待っているのだと。
だが彼の口ぶりからすると、アルバートはむしろグレンを助けたいと思っているように感じる。
アンナの疑問を察してか、ミカドは肩を竦める。
「まあ、あいつにもいろいろあるんだよ」
「アルバート様と仲直りされたのですね」
「ないない。あんな人を人とも思ってないような奴、こっちから願い下げだ。あいつが勝手に話すから聞いてるだけ」
「そんなことも無いのでは? 噂では、頻繁にここに来ているとか」
「まあ、確かにほとんど毎日来てるけど……おおかた、俺が脱走しないように見張ってんだよ」
頑なに聞き入れない彼に、はたしてそうだろうかと思う。宮殿の獄はどれも堅牢で、脱出は不可能だ。よしんばできたとしても、誰にも知られずこの宮殿を出ることはできないだろう。
それに、アルバートは暇ではない。それどころか、かなりの激務なはず。それでもほぼ毎日通うのは、アルバートなりにミカドのことを知ろうとしているからではないか。
そう思いつつも、アンナはそれを口にはしなかった。それは彼らの問題であり、自分が何かすべきものではない。
もし彼らがこの先、ミカドの言うところの『愛とか恋とかじゃない深いつながり』を持つとしても、それはアンナにとって関係のない話だった。
「それで、グレンのことで何かあったのか? 何もしてないなら、すぐに解放されるんじゃないの?」
ミカドが、アンナに尋ねる。そこには気遣いの色が見える。
ミカドはグレンが罪を犯しているとは欠片も疑っていないらしい。それが、アンナにはたまらなく嬉しかった。
だがどれだけ彼の潔白を知っていても、神託は変わらない。神は彼が罪を犯していないと知ったうえで、罰せよと言ったのだから。
アンナは乾いた唇をなんとか動かして、神託のことを告げた。
「主は、彼を処刑せよと仰いました。そうでなければ、より多くの命が失われると」
「えっ……」
ミカドが言葉を失う。その瞳には戸惑いが揺れていた。神託を信じられないのだろう。
アンナは、訴えるようにミカドを見た。
「ミカド様、私はどうしたらよいのでしょうか。私は主の信徒です。神託を告げないなど、許されない。それでも、私は……」
「もしこれを無視したら、アンナ様はどうにかなるの? たとえば神罰が下るとか」
「いいえ、それはありません。主は私たちに助言を下さいますが、選択は常に私たちに委ねられています」
「それなら、無視してもいいんじゃない?」
「でもそれでは、より多くの犠牲が出ます」
「そうとは限らないんじゃ……」
「いいえ、そのようになるのです」
ミカドの言葉を、アンナは強い断言で跳ねのけた。ミカドが驚いて口をつぐむ。
アンナは、ほとんど勢い任せに続ける。
「主がそうなると仰るならば、そうなるのです。だから私は、私は……」
「アンナ様……」
俯くアンナに、ミカドはそれ以上何も言わなかった。何を言えば良いかを考えあぐねていたのかもしれない。
こうして葛藤するのは、自分の信仰心が薄れているからではないか。その気持ちが、アンナをさらに苛んでくる。
今まで、神託でこのように悩んだことなどなかった。神から授かった言葉を王に伝えるのは聖女の責務であり、当然のことだったからだ。さらに言えば、そうすることこそ、正しい行いだと思っていた。
だが今はどうだろう。自分の感情に任せて悩んでる。これは、神の僕として許される行いではない。
神は慈悲深く、忍耐強い。人が過ちを犯すことを責めたりはしない。道を外れたならば、報いを受けるだけだ。報いは神の御心を離れたことによる、必然の結果である。
アンナがその道を外れるというならば、その報いは多くの民の命を伴って返ってくる。アンナにはその覚悟もないし、それを望んでもいない。
それでも、こうしてぐるぐると同じことを考えて続けてしまう。
「グレンの意見はどうなの?」
「……え?」
「本人の意見だよ。あいつなら、アンナ様を苦しませるくらいならって言いそうだけど」
ミカドの言葉に、アンナは昨日のことを思い出す。
ほとんど真っ暗な牢の中で、彼はかしずいた。そして言ったのだ。
「必要ならば、私のことは見捨ててください。それがアンナ様のためになるというのなら、私は命さえ捧げます、と」
「……それが、あいつの望みなんじゃないの」
ミカドが静かに言った。彼はベッドの上で壁に寄りかかり、足を抱える。何かから守るようなその仕草は、どこか幼い印象を与える。
アンナはミカドの言葉の意味を尋ねるように、彼をじっと見た。
いや、本当はわかっている。ただ、それを認めたくないだけだった。
ミカドはそのアンナの様子に、言葉を選ぶようにしながら穏やかな声で言った。
「つまりさ、グレンは、アンナ様が苦しむのが何よりも嫌だってことだよ。たとえそれで死ぬとしても」
「グレンが死ねば、私は苦しみます」
「でもそうしないと、もっと多くの命が失われるんだろ? そしたら、アンナ様はもっと苦しむだろ。自分のことすら信用できなくなるんじゃない?」
その通りかもしれないと、アンナは思った。
もしグレンを助けても、きっと自分は苦しみ続ける。何かの理由でもっと多くの命が失われるというのならば、その度に傷つくのだ。聖女としての役割より自分の感情を優先してしまったことを、きっと後悔する。グレンが生きていれば良いと思えるほど割り切れない。
ミカドは続ける。
「もしグレンを助けても、アンナ様が苦しむ様子を見続けることになるだけなんじゃないの。それって、ちょっと、残酷だよな」
そう言われて、アンナはハッとした。
グレンは、自分を見捨てて欲しいと、命さえ捧げると言ったのだ。それはきっとアンナを思ってのこと。高い忠誠心が、グレンにその決断をさせたのだ。
その彼が、自分のせいで傷ついている主人を見てどう思うだろうか。あの時死んでいればと後悔するかもしれない。
「俺はさ、グレンのことよく知らないけど、それでも、自分だけ助かって喜ぶ奴じゃないと思う」
アンナは、これまで過ごしてきたグレンとの日々を思い出した。グレンは誰よりも実直で、アンナだけでなく周囲も気遣うような人だった。
そういえば以前、なぜ教会護衛騎士を目指したのかと尋ねたことがある。彼はノクスト教の信徒ではないから、他の護衛でも良かったはずだ。
だが彼はその時言っていた。教会は多くの人を救っており、自分もその務めを果たす人を助けたいのだと。炊き出しも無料診療も教会が行っていて、それにより救われる子供たちの笑顔を何度も見たからと。
グレンは、そういう人だった。
「……ミカド様は、神託など馬鹿げていると一蹴すると思っていました」
ミカドは神を信じていない。信仰を妄信と言って切り捨てていた。だから、神託で悩む自分のことも馬鹿に見えているのかもしれないと。
ミカドは何も応えず、ベッドに仰向けに寝転がった。腕を頭の後ろで交差させ、枕を作っている。行儀が悪いと嗜める気は起きない。
ミカドはそのまま少し考えて、口を開いた。
「まあ、俺にはわからないよ。神託ですべてが決まるなんて馬鹿げてると思う。……でもさ」
ミカドはそこで一度言葉を区切った。どうやら言葉のをまとめているようだ。
だがまとめることを諦めたようで、そのまま続けた。
「みんな、真剣に神を信じてる。社会がそれで回ってるなら、それがこの世界にとって正しいなら、それもまたアリなんだろうなって思ったんだよな」
アンナは、ミカドが言っていることが何となくわかる気がした。
正しさとは、一つではないのかもしれない。この国にとっての正しさ、ミカドにとっての正しさ、そして、グレンにとっての正しさ。ぶつかり合うことはあるけれど、それでも、そう信じて生きる人を蔑ろにして良いということではないのだ。
この国でノクスト教以外の信徒が生活しているように、あるいは国ごとに正しさが違う中で手を取り合っているように。
それでは自分にとっての正しさとは何だろうか。アンナは、少し広めの切れ込みから見える青空を眺める。
ミカドがゆっくりと起き上がり、ベッドに座って足を下ろした。落ち着きが無いのは、彼もまた何かを抱えているからだろうか。
「これは俺の勝手だけど、俺はグレンに味方するよ。自分の命で大切な人が守れるなら、きっと本望だと思うよ」
ミカドの言葉に嘘偽りはない。彼は本心からそう思っているのだ。
アンナは、なぜミカドが転生者に選ばれたのかわかった気がした。
彼はきっと、使命に命を燃やせる人なのだ。そして他人のために何かすることも厭わない。それは、献身を求められる転生者に必要な性質だった。
選ぶときなのだ。グレンか、国民の命か。
本当は、迷う必要などなかったのだ。グレンはきっとこういうことを見越して、あの言葉をくれていたのだから。
彼の本心がどこにあるかは、彼にしかわからない。それでも、ともに過ごしてきたこの十六年が見せる彼の姿を信じたい。
「……王のところへ、行ってまいります」
「うん、いってらっしゃい」
ミカドが、優しい微笑みで送り出してくれる。
だがそれも束の間、何かを思い出したようにハッとした表情になる。
「あ、そういえば。敬語やめない? 俺たち、もう親友だろ」
冗談めかしてウインクをする彼に、アンナはふっと微笑む。
少しでも気を紛らわせようとしてくれているのだろう。彼の優しさに感謝しながら、アンナは頷く。
「ええ、そうね。ありがとう、ミカド様」
「俺は何もしてないけど、もし感謝してくれるなら、アルバートにさっさと出せって言っておいて」
「……言うだけ言っておくわね」
アンナの返事に、ミカドはただ肩を竦めた。




