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【第三幕:遺品の夜明け】

 男の声が、落ちた。



 消えた。



 雨音だけが残った。屋根を叩く水の音が、均一に、遠い場所のように続いている。



 段差の上に、バッグがあった。



 真帆は動かなかった。



 しばらく——そのまま、見ていた。



 何かが、ゆっくりと動いた。



 足だった。決めていなかった。壁から離れた体が、半歩だけ前に出ていた。気づいた時には、指先が布地に触れていた。薄かった。毛羽立っていた。何百回も、何千回も持ち歩かれてきたものの感触がした。



 引き寄せた。



 膝の上に置いた。



 軽かった。軽いのに——重かった。膝の感触として重いのではなく、受け取ってしまったという事実が、体の内側に静かに下りてきていた。



 ファスナーに手をかけた。



 引いた。



 金属の音が、静かな土間に短く響いた。



 口が開いた。




 ◇◇◇




 最初に目に入ったのは——紙の端だった。



 色あせていた。



 画用紙の角が、バッグの口から少しだけ顔を出していた。白ではなかった。黄ばんでいた。何年もかけてゆっくりと変色した——時間の色だった。



 真帆の指が、止まった。



 なぜ止まったのかは、分からなかった。封筒も見えていた。でも目が——そこから動かなかった。その角だけに、吸いついていた。



 ゆっくりと、引き出した。



 四つ折りだった。折り目が深かった。何度も開かれ、閉じられてきたことが、紙の厚みとして伝わってきた。



 広げた。




 ◇◇◇




 赤い屋根があった。



 太陽があった。



 三本の人間の形——ぐにゃりと歪んで、でも一生懸命に描かれた三つの形が、クレヨンで画用紙の中央にあった。



 真帆は、見た。



 見続けた。



 喉の奥で、何かが鳴った。



 吐く息が、続かなくなった。続けようとすると、詰まった。顎が微かに動いた。下顎が——ほんの少し、震えた。



 気づかないうちに——両手が、絵を持ち直していた。端が折れないように。紙が傷まないように。そうしていることに気づかないまま、指が絵の縁をゆっくりと、丁寧に、支えていた。



 「……バカじゃないの」



 声が出た。



 細かった。掠れていた。怒りでも悲しみでもなかった——全部が入っていた。それがぜんぶ「バカじゃないの」という七文字に、落ちていた。



 涙が一粒、絵の上に落ちた。




 ◇◇◇




 しばらく——そのままだった。



 それから、視線がバッグに戻った。



 奥に、白い封筒があった。



 指を入れた。取り出した。折り込まれているだけで、糊付けはされていなかった。引き出した。厚みがあった。帯のついた束が、掌に現れた。



 一束。



 二束——手が震え始めた。それでも動かした。全部を封筒から出して、膝の上に並べた。



 指が止まった。



 ——合羽の内ポケットから、白い封筒が滑り込んでいく、あの手が浮かんだ。



 一瞬だけ、浮かんだ。



 真帆は、視線を膝の上に戻した。



 ただ、震えが、止まらなかった。




 ◇◇◇




 真帆は、長い間、膝の上のものを見ていた。



 クレヨンの絵が片手にあった。もう片方の手には、束が並んでいた。



 何も言わなかった。



 男は動いていなかった。三度笠を胸の前に持って、土間に立ったまま——ただそこにいた。何かを言う気配がなかった。



 「お父上は——」



 男が、口を開いた。



 低い声だった。静かな声だった。




 「——極悪人でございました」




 それだけだった。



 もう何も来なかった。



 バッグを、段差の上にそっと置いた。真帆の膝のそばへ。押しつけない。受け取れとも言わない。ただ置いた——それだけの動作だった。




 ◇◇◇



 廊下の蛍光灯が、点滅した。



 つく、消える。



 窓枠の中に、光の四角形ができていた。雨の止んだ外の夜が、静かにそこに切り取られていた。どこかの外灯が、濡れたアスファルトに反射して白く光っていた。



 真帆は絵を持ったまま——膝の上に、ゆっくりと置いた。



 手を、離さなかった。




 ◇◇◇




 いつの間にか、雨が止んでいた。



 屋根を叩く音が消えていた。いつ消えたのか、分からなかった。気づいた時にはもう、静かだった。



 男が三度笠をかぶり直した。



 合羽の前を合わせた。内側には何もなかった。合わせ目を一度だけ押さえた——さっきまでそこにあったものの、形だけを確かめるように。



「……帰るんですか」



 声が出た。



 引き止めようとしたわけではなかった。ただ——出てしまった、という類の言葉だった。



「はい」



 男は頷いた。



 もう一度、深く頭を下げた。三度笠の縁が、少し深く傾いた。



 真帆は動かなかった。



 絵が膝の上にあった。両手が絵の縁に触れていた。



「……どこかへ、行くんですか」


「ええ」



 少し、間があった。



「巾着田ダンジョンへ」


「……なぜ」


「少し、確かめたいことがあるだけでござんす」



 それだけだった。これ以上は来ない——そういう言い方だった。真帆には、もうそれが分かっていた。



「……そうですか」



 それ以上、聞かなかった。




 ◇◇◇




 男が踵を返した。



 扉へ足を向けた——その背中へ、声が出た。



「……名前は」



 男が止まった。



 振り返った。三度笠の縁から、廊下の光が落ちていた。目が合った——と思ったが、蛍光灯がその瞬間また点滅して、男の表情が一瞬だけ闇に溶けた。



「あっしは——ハヤテ」



 短かった。



 少し、間があった。



「取るに足らない男でござんす」



 真帆は何も言わなかった。



 返事をしなかった。でも——聞いた。その名前を、確かに、聞いた。



「……では」



 男はもう一度、深く頭を下げた。



 それから土間を出た。




 ◇◇◇




 ハヤテが廊下に出た。



 扉の隙間から、夜気が細く流れ込んできた。



 真帆は扉を閉めなかった。



 半開きのまま——廊下を見ていた。男の後ろ姿が、蛍光灯の明滅に重なって、伸びては縮み、伸びては縮んだ。つく、消える。つく、消える。その明滅の中で、道中合羽の背中がゆっくりと遠ざかっていく。



 廊下の隅に、子供用の自転車があった。



 誰も乗らなくなって久しい。空気の抜けたタイヤ。錆びたフレーム。ハンドルに結ばれた赤いリボンだけが、まだ色を保っていた。男はその横を通り過ぎた。振り返らなかった。



 錆びた鉄階段が、軋んだ。



 一段。二段——



 声が、出た。



 廊下の先に消えかけた背中へ向けて——小さすぎて、届いたかどうか、分からなかった。



「……ありがとう」



 三段、四段——足音は続いた。



 男は振り返らなかった。足音の間隔は、変わらなかった。



 止んだ。




 ◇◇◇




 廊下には誰もいなかった。



 蛍光灯だけが、変わらず点滅を繰り返していた。つく、消える。つく、消える。



 真帆は扉の縁に手をついたまま、その先を見ていた。



 敷石の上に——足跡が残っていた。



 合羽の水が落ちてできた小さな染みが、土間から廊下の先まで、一歩ずつ続いていた。蛍光灯が明滅するたびに、浮かんでは消えた。消えては浮かんだ。



 もう少しすれば、乾く。



 乾けば——見えなくなる。ここに誰かが来たことも、何かが置かれたことも。



 真帆はその足跡を、見ていた。



 絵が、まだ手の中にあった。




 ◇◇◇




 隣の部屋で、赤ん坊が泣いていた。



 誰かがあやし始めた気配があった。でも泣き声は続いていた。



 真帆は扉の縁に手をついたまま、廊下の先を見ていた。足跡は、まだそこにあった。



 夜は、明けていなかった。

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