【エピローグ】
数ヶ月後。
巾着田ダンジョンの入口は、朝の光の中で相変わらず暗かった。石の隙間から覗く洞穴は深く、黒く、季節が変わってもそこだけは変わらなかった。周囲には彼岸花が咲き揃っていた。赤が、朝の光の中で燃えるように広がっていた。
桜井芽衣は、その前に立っていた。
胸のポーチに、Eランクの識別証がある。昇格してまだ二週間だった。それでも今朝も来ていた。来ると決めたわけではなかった。気がつけば電車に乗っていた——それだけのことだった。
入口の石のそばに、人影があった。
若かった。装備が軽すぎた。腰にポーチ一つ。手に短剣。その人物が、入口の前で蹲っていた。足首をかばっていた。前に進めなくなったのか、転んだのか——どちらかを考えるより先に。
見覚えのある姿勢だった。
芽衣は走っていた。
砂利を踏む音が自分の足から出ていて、走り出したことをそこで知った。しゃがんだ。右の足首が赤くなっていた。
芽衣の手が、動いた。
◇◇◇
壁に額が一つ、増えていた。
安いフレームだった。近所の百円ショップにあるやつだった。透明なアクリル板の向こうに、色あせた画用紙がある。赤い屋根。太陽。三本のぐにゃりとした形。
真帆はそれを、見ていなかった。
朝の光の中を通り過ぎた。食卓の椅子を引いた。腰を下ろした。テーブルの上の書類を引き寄せた。ペンを持った。指が動いた。
それだけだった。
隣の部屋で、赤ん坊が泣いていた。
今日も誰かの世界が、ここで続いている。
◇◇◇
懐が、軽かった。
まあいい——と思った。お嬢さんには父親が用意したと思っていてほしかった。
雨上がりだった。石畳がまだ濡れていて、低い朝日を鈍く返している。水たまりが一つ、入口の手前にできていた。その中に空が映っていた。
朝日が、石畳に長い影を作っていた。
自分の影だった。
ハヤテはそれをしばらく、ただ見ていた。
影は確かに、そこにあった。
「……人間でありたいと思うんでござんすよ」
誰にともなく、呟いた。
三度笠の縁を直して——ダンジョンへ足を踏み入れた。
外伝2 「巾着田ダンジョン前夜」 ——完——




