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【第二幕後半:託されたもの】

 悲鳴が、来た。



 高い声だった。若い——女の——子供のような。



 洞窟の石壁に弾かれて、剛三の耳の奥まで転がり込んでくる声だった。




 ◇◇◇




 意識が、引き戻された。



 霧の端を何かが掴んで、そのまま乱暴に引き剥がす——そういう感触だった。走馬燈の底にあった温かさが散り散りになって、代わりに冷たい石畳の感触が皮膚を戻ってくる。肋骨の痛みが戻ってくる。血の匂いが戻ってくる。口の中の鉄の味が、現在という場所の目印のように、舌の上にはっきりと残っていた。



 頬に石畳の冷たさがある。



 剛三の目が、開いた。



 暗い通路の視界。石壁と花弁の赤。低い天井から差し込む淡い光が、床に歪んだ格子を描いている。それだけが見えた——それだけが、今の剛三には世界の全部だった。



 声がした。



 近かった。




 ◇◇◇




 剛三は、転がっていた方向を見た。



 細い影が走っていた。小さかった。通路の向こうから、こちらへ向かって——いや、違う。剛三のいる方ではなく、ただ「前へ」向かって、がむしゃらに走っていた。足がもつれていた。装備が軽すぎた。腰に小さなポーチひとつ、手には短剣——剛三の目には、それだけが断片的に引っかかった。



 若い。



 泣いている。



 その後ろに——重い音がした。



 石を踏み砕く音。巨体が床を押しつぶす音。角を曲がってくる前から、その圧が通路の空気を揺らしていた。剛三にはわかった。聞かなくても、見なくても——ストーンゴーレムだ。この層の主だ。



 少女が転んだ。



 膝が石畳を打った。手をついて起き上がろうとして、また崩れた。足首をかばっていた——捻ったか、あるいは何かに当たったか。立てないでいた。ゴーレムの足音が、近づいてくる。




 ◇◇◇




 「……関係ねえ」



 剛三の頭の中で、言葉が来た。



 声には出なかった。でも確かにあった感触だった。本音として、正直に、そこにあった。



 俺は……死ぬ。

 もう、終わりだ。

 あのガキのために……動く体力なんか……



 その通りだった。



 全部、正しかった。




 ◇◇◇




 間があった。



 音だけがあった。少女の浅い息。足首をかばって這いずろうとする衣擦れ。石畳を削るゴーレムの重い一歩。



 剛三は動いていなかった。



 動いていなかった——はずだった。




 ◇◇◇




 気がついた時には——腕が、震えていた。



 剛三は自分の腕を見た。石畳を押している。肘が地面に食い込もうとしている。体を持ち上げようとしている——自分の体が、勝手にそうしようとしていた。決めていなかった。考えていなかった。誰かに言われたわけでもなかった。ただ腕が動いていて、剛三はそれを見ていた。



 (何やってんだ俺は)



 本気で思った。



 それでも腕は止まらなかった。肘を石畳に立てて、体を持ち上げようとした。折れた肋骨が肺の内側をこじった。



 息が、出なかった。



 白い閃光が視界を走った。痛みというより、遮断だった。体が「それ以上はいけない」と言おうとしている——それを剛三の腕が無視して、なおも押した。



 ぐ、と声が出た。自分でも気づかなかった声だった。



 膝が石畳を滑った。体がまた落ちた。また腕をついた。



 もう一度、押した。



 折れた場所が軋んだ。肺が潰れそうになった。息を吸おうとして吸えなくて、代わりに口から血の泡が来た。



 それでも——体が、起き上がろうとしていた。



 なぜそうしているのかは、剛三にも分からなかった。




 ◇◇◇




 その瞬間——声が来た。



 『パパー!』



 一瞬だった。



 それだけだった。走馬燈のような長さじゃなかった。一つの音が、記憶の底から飛び出して、すぐに消えた——それだけだった。でも剛三の耳に、その声は確かに触れた。



 少女の顔は、見えていなかった。



 泣いているということしか分からなかった。若いということしか分からなかった。足が動かなくなっていること——それだけが剛三には見えた。



 「……クソッタレが」



 誰に向けて言ったのかは、剛三にも分からなかった。



 それでも——体が、立っていた。




 ◇◇◇




 足が震えていた。



 両足が石畳の上にあった。膝が今にも折れそうだった。右腕は体の重さを支えきれなくて、壁にもたれかかった——壁がなければ立てていなかった。



 でも、立っていた。



 少女がこちらを見ていた。



 泥だらけの顔で、目を開いていた。それ以上のことは分からなかった。剛三の視界には、その子の輪郭だけが朦朧と映っていた。



 「おい。ガキ」



 声が、掠れた。



 少女が固まっていた。



 「逃げろ」



 短く言った。それだけ言うのに、また肋骨が軋んだ。



 「早く。走れ」



 少女の足が動いた。立ち上がった——足首が痛いらしく、一瞬よろけた。でも走り始めた。通路の向こうへ。剛三のいない方向へ。



 剛三はゴーレムに向き直った。




 ◇◇◇




 近かった。



 思っていたより近かった。距離は十歩もなかった。



 灰色の巨体が通路を塞いでいた。岩で作った腕が、ゆっくりと持ち上がった。



 「来やがれ」



 剛三は言った。



 「このクソ岩野郎」



 声が小さかった。怒鳴ろうとしたのに、怒鳴れなかった。肺に空気が入らないからだった。でも言葉は出た。それだけで十分だった。




 ◇◇◇




 拳が来た。



 速くはなかった。



 剛三には見えていた。でも避ける力がなかった。腕を上げて受け止めようとして——腕が弾かれた。衝撃が肩から入って、肋骨を通り抜けた。



 飛んだ。



 石壁に背中が叩きつけられた。内側で何かがずれた。それが何かを考える時間はなかった。床が来た。膝が来た。石畳に両手がついた——その手に、力が残っていなかった。



 体が横になった。




 ◇◇◇




 遠くなっていく音がした。



 足音だった。



 軽い足音だった。石畳の上を走る、小さな足音。一歩ごとに少しずつ、少しずつ小さくなっていく。通路の角を曲がった——それで聞こえなくなった。



 静かになった。




 ◇◇◇




 剛三は天井を見ていた。



 低い天井だった。石の亀裂から、彼岸花の細い根が一本、垂れ下がっていた。赤くなかった。ただの白い根だった。



 そういうこともあるんだ、と思った。



 意味もなく思った。




 ◇◇◇




 「……チッ」



 舌を打った。



 自分でも理由がよく分からなかった。



 しばらく、天井を見ていた。



 「……一回だけかよ」



 声が出た。



 独り言だった。でも静かすぎる洞窟の中では、やけにはっきり聞こえた気がした。



 「……俺の人生。一回だけか」



 間があった。



 剛三の口元が——動いた。



 笑いではなかった。でも、完全に笑いでないとも言い切れなかった。乾いた何かだった。



 「……そりゃ、そうだよな」



 天井に言った。



 「一回もやってねえやつが、最後の最後だけ一回やったって……そりゃ一回だよな……」



 笑い声とは言えなかった。でもそれに近い何かが、剛三の喉の奥を通り過ぎた。



 「春子……真帆……」



 名前を呼んだ。



 呼んで——それきり。



 「……全部……遅すぎたな」



 確認するような声だった。



 誰かに告げているのではなかった。自分で確かめていた——それだけの声だった。遅すぎた。その事実に、今更驚いてもいなかった。最初から分かっていたことを、最後にもう一度、口の外に出してみただけだった。



 石畳の冷たさが、背中に染み込んでいた。



 目が、閉じかけた。




 ◇◇◇




 洞窟の空気が、動いた。


 音もなかった。気配だけが来た。


 一瞬前まで鳴っていた——ゴーレムが立てていたはずの重い音が、いつから消えていたのかを、剛三は気づかなかった。ただ、次に意識が戻った時、その音はなかった。


 代わりに——人の気配があった。




 ◇◇◇




 「……あんた」



 剛三は薄目を開けた。



 人が立っていた。



 見上げると、菅笠の縁が天井の光を受けていた。道中合羽の裾が、石畳の近くにある。しゃがんでいた——剛三のそばに、静かにしゃがんでいた。



 胸のあたりに何かが見えた。



 銀色の、小さなペンダント。半円を描く細い金属——聴診器の形をしていた。



 「……医者か」


 「応急処置はできますが——」


 「いい」



 剛三は言った。



 「もう……間に合わねえ」



 男は何も言わなかった。



 否定しなかった。慰めなかった。ただ——そこにいた。



 しゃがんだまま、膝の上に両手を置いて、石畳に転がっている剛三の横に、静かにいた。距離を取っていなかった。かといって触れようともしていなかった。ただそこに収まっていた——ちょうど、その場所に在るべき者のように。



 剛三はその横顔を、しばらく見ていた。




 ◇◇◇




 「……あんた」


 「はい」


 「噂には……聞いていました、藤崎剛三」



 男の声は静かだった。



 「ああ……悪い噂ばっかりだろうな……へへ」



 剛三は笑おうとした。



 うまく笑えなかった。でも笑おうとした。それで十分だった。



 男は黙っていた。



 否定も肯定もしなかった。ただ——そうでございますね、という静けさで、剛三の言葉を受け取った。




 ◇◇◇




 「なあ……先生」


 「……はい」


 「俺……極悪人だったんだ」



 石畳を見て言った。男の顔を見る力が、もう残っていなかった。



 「妻を……死なせた。娘を……捨てた。何度も何度も……人を踏み台にした。金のためなら……何でもやった」


 「……」


 「今更……何もできねえ……けど」




 ◇◇◇




 右手が動いた。



 腰のポーチに触れた。力が入らなかった。指先だけで引き開けた。中を掴もうとして——震えた。



 男の手が、そっと来た。



 剛三の手に触れたのではなかった。ポーチの口を、わずかに開いた——それだけだった。



 剛三の指が、古びたバッグを掴んだ。



 引き出した。




 ◇◇◇




 重くなかった。



 布地が毛羽立っていた。ストラップが切れかけていた。でも中に何かがあった。現金。一枚の古い紙。



 剛三はバッグを男のほうへ、押し出した。



 「これ……娘に……渡してくれ」



 男は受け取った。



 静かに、両手で。



 「……承りました」




 ◇◇◇




 静かな声だった。



 約束するでもなく、感情を込めるでもなく——ただ受け取った、という事実だけを、その一言に置いた。



 剛三はそれを聞いた。



 何かが、少しだけ、緩んだ気がした。




 ◇◇◇




 「……『ごめん』なんて……」



 天井に向けて、言葉が出てきた。



 「言う資格ねえ……俺には……」



 間があった。



 「一回も言わなかった……言えなかった……言う前に消えてた……ずっとそうだった……」



 声が、乾いていた。



 悔いているとは、少し違った。ただ——事実を、正確に並べていた。それだけの声だった。




 ◇◇◇




 「でも……」



 剛三の唇が、一度、固く結ばれた。



 「……最期に……ちょっとだけ……」



 間があった。



 長い間だった。何秒かを数える気力もなかった。ただ呼吸が続いていた。それだけが続いていた。



 「……父親らしいことが……できた気が……する」



 「する」だった。



 断言ではなかった。確信でもなかった。何かに問いかけているわけでもなかった。ただ——そんな気がする、と。その不確かさのまま、言葉を置いた。



 男は何も言わなかった。



 否定しなかった。肯定しなかった。美化しなかった。



 ただ——いた。




 ◇◇◇




 「……真帆」



 剛三の声が、小さくなった。



 「……パパは……ダメな父親だったな」



 天井に向けて言った。



 誰も答えない場所に向けて言った。



 それで——十分だった。




 ◇◇◇




 目が、閉じた。




 ◇◇◇




 男は動かなかった。



 しばらく、そこにいた。



 それから——懐に手が入った。



 何かを取り出した。小さかった。

 男はそれを、剛三の胸の上に——ゆっくりと、静かに、置いた。

 それだけだった。




 ◇◇◇




 沈黙が来た。


 石畳の冷たさが、空気の底に沈んでいた。


 彼岸花の匂いが、薄く、薄く、漂っていた。




 ◇◇◇




 ◇◇◇




「……」



 男の声が、来た。長い、間の後だった。



「……遅すぎた、な」



 声が——出た。



 穏やかではなかった。静かではあった。でも、ここまでの言葉とは、質が違った。股旅の語り口ではなかった。もっと剥き出しの、別の場所から来た声だった。



「……失礼いたしました」



 すぐに続いた。間を置かず、静かに、確かめるように。

 三度笠の縁が、わずかに深く傾いた。それだけだった。




 ◇◇◇




 ◇◇◇




 雨音が、した。



 ——土間の、雨音だった。



 湿った空気の匂い。古い木材の匂い。それと——蛍光灯の青白い光が、廊下の床に冷たく伸びていた。洞窟の石壁ではなく、薄いベニヤの壁があった。石畳ではなく、敷石があった。今いるのはここだ、と体が少しずつ、確かめるように戻ってくる。

 屋根を叩く雨音が、細く、均一に、続いていた。廊下の蛍光灯が、一度だけ点滅した。



 つく——消える。



 そしてまた、点いた。



 男の声が——戻ってきた。




 ◇◇◇




 「……それが」



 声の質が、変わっていた。



 洞窟の底にあった声ではなかった。古びた土間の空気を、静かに渡る声だった。今この場所の声だった。



 「お父上の……最期でござんす」



 三度笠を胸の前に持ったまま、男は真帆の足元へ向けて、ゆっくりと頭を下げた。



 廊下の蛍光灯が、また一度、点滅した。



 隣の部屋で——赤ん坊が、泣いていた。

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