【第二幕前半:運命の日】
この国にダンジョンと呼ばれるものが現れ始めて、もう十年以上が経っていた。観光地や史跡の地下に突如として口を開けるそれは、内部に魔物が棲み、踏み込む者を選ばなかった。探索者——国が認定したランク制度のある免許職として、彼らが報酬と引き換えにその深部へ潜っていく。藤崎剛三もその一人だった。
「今朝のことでござんす」
男の声が、土間の底に静かに沈んだ。
一拍——それから。
「お父上から、最期に直接伺った話でござんす」
その一言だけを、前に置いた。それだけで十分だった。語りの色が、変わった。
◇◇◇
薄暗い洞窟の空気が、脳裏に戻ってくる——。
第5層は、彼岸花の花弁が赤く積もる通路だった。
◇◇◇
天井から差し込む淡い光が、石壁に血のような色を滲ませている。足元の石畳に、赤い花弁が散り積もっていた。どこかで何かが動く気配がした——あるいは、動かないままそこにある何かが、気配だけを漂わせている。
藤崎剛三(42歳、Dランク)は、三人の後ろを歩いていた。
先月から組んでいるパーティー。リーダーの名前は知っていた——藤川、とそれだけ。一度も呼んだことがなかった。呼ばれたこともなかった。それで十分だったし、十分でないとも思っていなかった。剛三にとっては何度目かの顔替えで、互いの役割だけを確認して潜る、それだけの関係だった。
前を行くリーダーの背中を見ながら、剛三はポケットの中で煙幕弾の位置をそっと確かめた。長年の癖だった。呼吸と変わらない動作になっていた。
「おい、藤崎」
リーダーが立ち止まった。振り向かなかった。
「お前が囮になれ」
剛三は足を止めた。
口が開きかけた。怒鳴り返そうとした。
でも——来たか、と思った。
ほんの一瞬だった。怒りの底のさらに下に、小さな虚無が静かに口を開けていた。自分がこれまでやってきたことが、今度は自分に向いている。それだけのことだ。それだけの話だ——という感触が、言葉より先に来た。
「お前、前回の報酬誤魔化しただろ。俺たち、知ってんだよ」
「……チッ」
否定しなかった。
代わりに——指先が、煙幕弾をしっかりと握り込んだ。
次の瞬間、背中を強く押された。
石畳に彼岸花の匂いが広がるより先に、剛三は走っていた。
◇◇◇
煙幕弾を放ったのは、反射だった。
灰色の煙が通路を塞ぐ。背後でモンスターの咆哮が上がった。振り返らなかった。あいつらのことも確かめなかった。ただ走った。折れた視界の中、彼岸花の赤が両脇を流れる通路を、ひたすら走った。
走りながら——言葉が、頭の中を静かに通り過ぎた。
(因果応報か……クソッタレが……)
声には出なかった。ただ頭の中だけで、浮き上がって、すぐに消えた。怒鳴れなかった。罵倒する気も起きなかった。怒りはあった。でも薄かった。なぜ薄いのかは、走りながら考えなかった。
足が——宙を踏んだ。
無音だった。
一瞬だけ。音も重さも消えた、奇妙な浮遊感。時間が止まったわけではない。ただ体が、自分の重さを忘れた——そういう、短い間があった。
それが終わった。
衝撃が来た。
石壁が背中を打った。次に肩が。次に腰が。落下していた。落とし穴の壁に体を弾き返されながら、暗闇の底へ、底へ——。
地面が来た。
鈍い音がした。自分の体から出た音だと、すぐに分かった。
折れた、と分かった。
肋骨だ、と分かった。音ではなかった。感覚として——内側から何かが軋んで、動いてはいけない場所が動いた感触として、それは来た。神経が遅れて叫ぶより先に、事実として届いた。
動こうとした。動けなかった。
石畳に手をつけて、起き上がろうとした。腕が震えた。視界が白くなった。口の中に鉄の味が広がっていた。舌の上に、血の温度があった。
剛三は這いずった。
立てない。それでも這いずった。指先で石の隙間を掴み、腕の力だけで体を引きずった。肋骨が動くたびに息が詰まった。吐く息に赤いものが混じっているのを、頬のそばの石畳に見た。どこまで行けるのかも、なぜ動いているのかも、分からなかった。ただ動いた。
腕の力が、尽きた。
石畳に頬をつけたまま、荒い息だけが続いた。
洞窟の底は、狭く、暗く、重かった。
天井が低い。光が届かない。彼岸花の匂いだけが、薄く、湿った空気の中に漂っていた。
(……死ぬのか)
言葉にもならなかった。事実として、淡く頭を通り過ぎた。それだけだった。
◇◇◇
「洞窟の底で……お父上がひとりで呟いておられたことは、最期にご自身から伺いました」
男の声が、真帆の足元に静かに落ちた。
それだけを言って、語りは続いた。
◇◇◇
意識が、薄れていった。
薄れるというより——ほどけていく感覚だった。自分という輪郭が少しずつ霧になっていく。石畳の冷たさが、どこか遠い場所のことのようになっていく。
暗闇の底で——
何かが、見えた。
◇◇◇
クレヨンで描かれた絵だった。
赤い屋根。太陽。ぐにゃりと歪んだ、三本の人間の形。幼い手が一生懸命に描いたのだと、それだけは分かった。
『パパー! 見て見て!』
声だけが来た。
どこに向けて走ってくる足音か。顔はどんなだったか。もう、ぼんやりとしている。声だけがはっきりと——耳の奥の一番深い場所に、残っていた。
◇◇◇
小さなアパートの食卓。
湯気が立っていた。
背中が見えた。鍋をかき混ぜている背中。
湯気が揺れた拍子に——その背中が、少しだけ動いた。
振り向こうとしていた。
振り向いてくれそうだった。
剛三は待った。石畳の上で、意識の残り滓で、待った。あと少し。あと少しだけ——
霧が来た。
静かに、音もなく、その輪郭を包んだ。どこにあったのかも、もう分からなくなった。でも声だけは聞こえた。
『あなた、今日はお鍋よ』
別の声が続いた。高い声が。
『やったー! お肉いっぱい!』
湯気が揺れた。
それだけだった。
◇◇◇
小さなベッド。
布団が、一枚。
剛三はそっと——布団をかけ直した。
その子の顔は、暗がりの中に沈んでいる。気配だけがあった。温かい呼吸の音。小さな体の重さが、布団を通してかすかに伝わってくる。
口が、動いた。
声にはならなかった。
「……すまねえな」
◇◇◇
剛三の唇が、ほんの少し動いた。
石畳の上で、どこにも向けず。
「ああ……」
間があった。
「……俺には……こんな時もあったのか……」
疑問形だった。
驚いているような——それだけの声だった。
「春子……真帆……すまねえ……」
声は石畳に吸われた。
誰にも届かない。返事も来ない。暗い洞窟の底で、その言葉はただ消えた。
静かだった。
彼岸花の匂いが、少しずつ薄れていく気がした。
石畳の冷たさが、遠のいていく気がした。
意識の縁が、やわらかく溶けていく。怖さはなかった。ただ体から力が抜けていくような、重さが消えていくような——やわらかい感覚だけが、残っていた。
目が——閉じかけた。
その瞬間だった。
◇◇◇
悲鳴が来た。
高い声だった。
若い——女の——子供のような。
洞窟の石壁に弾かれて、剛三の耳の奥まで転がり込んでくる声だった。




