表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/7

【第二幕前半:運命の日】

 この国にダンジョンと呼ばれるものが現れ始めて、もう十年以上が経っていた。観光地や史跡の地下に突如として口を開けるそれは、内部に魔物が棲み、踏み込む者を選ばなかった。探索者——国が認定したランク制度のある免許職として、彼らが報酬と引き換えにその深部へ潜っていく。藤崎剛三もその一人だった。



 「今朝のことでござんす」



 男の声が、土間の底に静かに沈んだ。



 一拍——それから。



 「お父上から、最期に直接伺った話でござんす」



 その一言だけを、前に置いた。それだけで十分だった。語りの色が、変わった。




 ◇◇◇




 薄暗い洞窟の空気が、脳裏に戻ってくる——。



 第5層は、彼岸花の花弁が赤く積もる通路だった。




 ◇◇◇




 天井から差し込む淡い光が、石壁に血のような色を滲ませている。足元の石畳に、赤い花弁が散り積もっていた。どこかで何かが動く気配がした——あるいは、動かないままそこにある何かが、気配だけを漂わせている。



 藤崎剛三(42歳、Dランク)は、三人の後ろを歩いていた。



 先月から組んでいるパーティー。リーダーの名前は知っていた——藤川、とそれだけ。一度も呼んだことがなかった。呼ばれたこともなかった。それで十分だったし、十分でないとも思っていなかった。剛三にとっては何度目かの顔替えで、互いの役割だけを確認して潜る、それだけの関係だった。


 前を行くリーダーの背中を見ながら、剛三はポケットの中で煙幕弾の位置をそっと確かめた。長年の癖だった。呼吸と変わらない動作になっていた。



 「おい、藤崎」



 リーダーが立ち止まった。振り向かなかった。



 「お前が囮になれ」



 剛三は足を止めた。



 口が開きかけた。怒鳴り返そうとした。



 でも——来たか、と思った。



 ほんの一瞬だった。怒りの底のさらに下に、小さな虚無が静かに口を開けていた。自分がこれまでやってきたことが、今度は自分に向いている。それだけのことだ。それだけの話だ——という感触が、言葉より先に来た。



 「お前、前回の報酬誤魔化しただろ。俺たち、知ってんだよ」


 「……チッ」



 否定しなかった。



 代わりに——指先が、煙幕弾をしっかりと握り込んだ。



 次の瞬間、背中を強く押された。



 石畳に彼岸花の匂いが広がるより先に、剛三は走っていた。




 ◇◇◇




 煙幕弾を放ったのは、反射だった。



 灰色の煙が通路を塞ぐ。背後でモンスターの咆哮が上がった。振り返らなかった。あいつらのことも確かめなかった。ただ走った。折れた視界の中、彼岸花の赤が両脇を流れる通路を、ひたすら走った。



 走りながら——言葉が、頭の中を静かに通り過ぎた。


 (因果応報か……クソッタレが……)



 声には出なかった。ただ頭の中だけで、浮き上がって、すぐに消えた。怒鳴れなかった。罵倒する気も起きなかった。怒りはあった。でも薄かった。なぜ薄いのかは、走りながら考えなかった。




 足が——宙を踏んだ。


 無音だった。




 一瞬だけ。音も重さも消えた、奇妙な浮遊感。時間が止まったわけではない。ただ体が、自分の重さを忘れた——そういう、短い間があった。




 それが終わった。


 衝撃が来た。




 石壁が背中を打った。次に肩が。次に腰が。落下していた。落とし穴の壁に体を弾き返されながら、暗闇の底へ、底へ——。




 地面が来た。


 鈍い音がした。自分の体から出た音だと、すぐに分かった。




 折れた、と分かった。



 肋骨だ、と分かった。音ではなかった。感覚として——内側から何かが軋んで、動いてはいけない場所が動いた感触として、それは来た。神経が遅れて叫ぶより先に、事実として届いた。




 動こうとした。動けなかった。




 石畳に手をつけて、起き上がろうとした。腕が震えた。視界が白くなった。口の中に鉄の味が広がっていた。舌の上に、血の温度があった。




 剛三は這いずった。




 立てない。それでも這いずった。指先で石の隙間を掴み、腕の力だけで体を引きずった。肋骨が動くたびに息が詰まった。吐く息に赤いものが混じっているのを、頬のそばの石畳に見た。どこまで行けるのかも、なぜ動いているのかも、分からなかった。ただ動いた。




 腕の力が、尽きた。


 石畳に頬をつけたまま、荒い息だけが続いた。




 洞窟の底は、狭く、暗く、重かった。


 天井が低い。光が届かない。彼岸花の匂いだけが、薄く、湿った空気の中に漂っていた。




 (……死ぬのか)


 言葉にもならなかった。事実として、淡く頭を通り過ぎた。それだけだった。




 ◇◇◇




 「洞窟の底で……お父上がひとりで呟いておられたことは、最期にご自身から伺いました」



 男の声が、真帆の足元に静かに落ちた。



 それだけを言って、語りは続いた。




 ◇◇◇




 意識が、薄れていった。



 薄れるというより——ほどけていく感覚だった。自分という輪郭が少しずつ霧になっていく。石畳の冷たさが、どこか遠い場所のことのようになっていく。



 暗闇の底で——



 何かが、見えた。




 ◇◇◇




 クレヨンで描かれた絵だった。



 赤い屋根。太陽。ぐにゃりと歪んだ、三本の人間の形。幼い手が一生懸命に描いたのだと、それだけは分かった。



 『パパー! 見て見て!』



 声だけが来た。



 どこに向けて走ってくる足音か。顔はどんなだったか。もう、ぼんやりとしている。声だけがはっきりと——耳の奥の一番深い場所に、残っていた。




 ◇◇◇




 小さなアパートの食卓。



 湯気が立っていた。



 背中が見えた。鍋をかき混ぜている背中。

 湯気が揺れた拍子に——その背中が、少しだけ動いた。

 振り向こうとしていた。

 振り向いてくれそうだった。

 剛三は待った。石畳の上で、意識の残り滓で、待った。あと少し。あと少しだけ——

 霧が来た。

 静かに、音もなく、その輪郭を包んだ。どこにあったのかも、もう分からなくなった。でも声だけは聞こえた。



 『あなた、今日はお鍋よ』



 別の声が続いた。高い声が。



 『やったー! お肉いっぱい!』



 湯気が揺れた。



 それだけだった。




 ◇◇◇




 小さなベッド。



 布団が、一枚。



 剛三はそっと——布団をかけ直した。



 その子の顔は、暗がりの中に沈んでいる。気配だけがあった。温かい呼吸の音。小さな体の重さが、布団を通してかすかに伝わってくる。



 口が、動いた。



 声にはならなかった。



 「……すまねえな」




 ◇◇◇




 剛三の唇が、ほんの少し動いた。



 石畳の上で、どこにも向けず。



 「ああ……」



 間があった。



 「……俺には……こんな時もあったのか……」



 疑問形だった。



 驚いているような——それだけの声だった。



 「春子……真帆……すまねえ……」



 声は石畳に吸われた。



 誰にも届かない。返事も来ない。暗い洞窟の底で、その言葉はただ消えた。



 静かだった。



 彼岸花の匂いが、少しずつ薄れていく気がした。



 石畳の冷たさが、遠のいていく気がした。



 意識の縁が、やわらかく溶けていく。怖さはなかった。ただ体から力が抜けていくような、重さが消えていくような——やわらかい感覚だけが、残っていた。



 目が——閉じかけた。



 その瞬間だった。




 ◇◇◇




 悲鳴が来た。



 高い声だった。



 若い——女の——子供のような。



 洞窟の石壁に弾かれて、剛三の耳の奥まで転がり込んでくる声だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ