プロローグ 後
「マルク・セーデルさんですよね」
現れた男性はひょいと帽子を上げて、下ろす。
相手を見上げたハイダは、あ、と思った。
そこにいたのは先ほどハイダの前で食料を買い占めていった人物である。
(追手だったんだ!)
すぐ逃げ出せるよう急いで本をしまう。
しかし、ふと目をやれば、その男性の背後には同じような身なりの人物たちが車両の通路全てを埋め尽くすようにしていつのまにか立ち並んでいた。塞がれてしまった逃げ道に絶望する。
「少し時間をもらってもいいかね?」
問われたマルクはフン、と鼻を鳴らして顔を背け、許可とも拒絶とも取れない態度を示した。
男は口元だけ笑うと、ハイダの隣に勝手に腰を下ろす。
「さてと。次の駅に着くまでにとっとと済ませよう。まず最初に自己紹介だ。我々はあんたの国の人間じゃない」
「あーそう」
「権利も大儀もないって意味だよ。その代わりに交渉の用意はある」
そう言って買占め男は自分の上着の内側に手を入れた。
その途端、マルクが何かしたのだろう。買占め男を含めたその場の者たちが一瞬、一斉にぐらりと体を揺らす。
顔を顰めた買占め男が空いた手で敵意のないことを示したまま、服の中から黒く細長い小箱を取り出した。
「我が国の人間が、いつか何かに使えるんじゃないかと考えて手元に置いていた物だ。何もないが疑うならそっちの防壁で覆ってくれてかまわない」
ハイダにはわからないが、マルクは言われた通りにしたのだろう。何かを確認した買占め男は満足そうな顔をしてから、静かに小箱の蓋を開けてみせた。
横から覗いたハイダには、男の手が邪魔して中身は見えない。
これは何かとマルクに確認を取ろうとしたところでハイダは息を飲んだ。
マルクが固まっていた。
先ほどまでの余裕の様子が一瞬で消え失せている。顔色を失くし、瞬きを止め、口は何かを言いかけては止まる。
(マルクさん……?)
「我々にはもはや意味のない代物だが、あんたにはそうではないんだろう? これらの交換の後にはあんた自身を受け入れる態勢も整ってる。無論、そっちが望めばの話だが」
マルクは言葉を失ったままだ。
息を詰め、こぼれそうに見開いた目で買占め男の手の中の小箱を凝視ししている。
その間、様子を見ている男たちも、マルクの指示を待つハイダも動かない。
どれほどかして。
マルクは思い出したかのように呼吸をすると、大きく息を吐きながらぐったりと座席にもたれかかった。
「……譲渡の方法と器はちゃんとあるんだろうな」
「もちろんだ。なんならあんたが手を貸してくれれば確実なんだがな」
「そいつは無理だね。これから俺は忙しくなる」
「そうか。ならそこまで望むのは諦めよう」
ハイダの前で二人の会話が交わされていく。
状況の見えないハイダは必死にマルクに説明を求める視線を送り続け、ようやくそれに気付いたマルクがこちらに顔を向ける。
くしゃりと、泣きそうな笑顔を見せられた。
「……悪いなハイダ。寝覚めがどうこうの理由じゃ越えられない事情がやって来た。お前の身柄はこいつらに渡すわ」
「ええと、それは……」
ハイダは首を傾げる。少しだけ考え、最悪の答えに辿り着いた。
「……私はこの人たちに殺されるということですか?」
ハイダが言い切る前に、その腕は買占め男に捕まれる。
「枷を渡してもらってもいいか」
「へえ。見えてたか。だが受け渡しは出来ない。特殊な形だからな。俺のは消すからそっちで掛け直せ」
「……ちなみにどんな効果か聞いても?」
「俺の許可なく一定時間と距離を離れたら屋敷一つを吹き飛ばすだけの爆発が起きる」
「物騒過ぎるな。こちらの馬鹿どもが動かなくてよかった」
買占め男は通路にいた男たちに目をやった。
その間にマルクはハイダの額に手を伸ばし、指で軽くぽんと叩く。
「消したぞ。交渉成立だな。……そいつを寄越せ」
「こちらの枷も消すよ。やれやれ。荒っぽい仕事にならんで助かったよ」
差し出された小箱に手を伸ばしたマルクは、自分の指が震えているのに気付いてもう片方の手で支えながらそれを受け取る。この上なく大切な、愛おしい物を抱きしめるような仕草で小箱を胸に抱えた。
その目はもはやハイダを見ない。
「立て」
ハイダは立ち上がった買占め男に腕を引かれた。
「……嫌です」
精一杯の抵抗をしてみせた。
買占め男はすぐに背後の男たちを振り返る。
「眠らせて運ぶぞ。誰か袋かなんか持ってるか」
「そのままあんたが担いでけばいいんじゃないですかね」
「俺かよ。ともかく騒ぎにしたくないんだよ」
「では私が背負います」
「ああ、よしそれでいこう」
話し合いがついたらしい買占め男が再びこちらに向き直ろうとしたタイミングで、せめてとハイダは男の手を振り払った。そのまま向かいのマルクの隣に移動する。
「マルクさん!」
呼びかけてもマルクはハイダを見ない。
確かに。ハイダの命はマルク自身の信条だけにかかっていた。この世界の決め事においても逃亡によってマルクが差し出す対価を考えても、ハイダが殺されて力を返すのが順当と言えば順当だった。
(だからって)
一度は希望を与えておいて。
これから先、何年も共にいるのだと約束のようなものが交わされた今になってから。
こんなにもあっさりと手を離され、こんなにもあっけなく終わってしまうのかと思うとハイダは目の前が真っ暗になった。
(異世界ひどすぎる)
ハイダは溢れそうになった涙をぐっと堪える。
(……ううん。でも、そうだ。マルクさんにはマルクさんの都合があるんだから仕方ない)
そこでハイダは窓に飛びつく。開け方がわからないそれをどうにかこじ開けようと頑張る。
この列車のスピードで窓から転がり落ちて無事に済むかはわからない。それでもここで連れていかれるよりは生き延びる可能性があるかと思われた。
しかしすぐに背後から襟首をつかまれ床に引き倒される。
「あーもう、俺こういうの嫌なんだよ。おとなしくこっち見ろ、すぐ終わるから」
見ろ、と言われて見る筈がない。
顎を持ち上げられたハイダはぎゅっと瞼を閉じた。
「わかったじゃあ手荒に行くぞ、いいかお前が悪いんだからな」
買占め男の手がハイダの頭をがしりと掴む。ぴり、と走った痛みが徐々に強くなる。痛みによるショックで気を失わせようとしているのかもしれない。気付いてハイダはぞっとした。
無理とはわかっても初めてじたばたと暴れてみせた。
「やめて下さい! 離して! 離して下さい! ……嫌だって、言ってるじゃないですか‼」
そう、ハイダが叫んだ瞬間だった。
「⁉」
激しく空気が動く気配がして、掴まれていた手の感触が消える。
(なに……)
恐る恐る目を開くと。
目の前には、青白い炎に包まれて呆然と立ち尽くす買占め男がいた。
彼の後ろにいた筈の仲間たちは何故か一人残らずその場から消え失せている。
「おー。反撃の隙を与えないようしてみたがちゃんと出来てたな」
驚きのままのハイダは、のんきに口を開いたマルクをゆっくり見上げる。
「これは……何が……」
「そうだな。強いて言うなら枷を見えなくしただけだな」
「はい……?」
マルクは平然と説明する。
「こういうことがないようお前にはあらかじめ連れ去り防止の魔法をかけてある。枷って言われてるやつだ。だがさっきこいつらにした話は嘘でね。消したってのもそうだし、内容も違う。自分を攫おうとした奴にお前が本気で拒絶を示したら、お前が敵だと認識した相手を一斉に燃やし尽くすように作ってある。まあここまで一瞬で灰にまでなるとは予想外だったけどな」
「灰……」
「……そりゃあないんじゃないの」
買占め男が言った。
ハイダが敵と認識した中で、彼だけはまだ灰になっていなかった。
買占め男と彼を包む炎の間には薄い膜のような物があるらしい。仲間たちを灰にしたあの瞬間にこの男は身を守る魔法を展開したようだ。
マルクの美貌ですっかり感覚が鈍っていたけれど、よくよく見れば彼もなかなかに美形であったと、ハイダは初めて気が付いた。
「むしろなんで俺が両方取らないと思ったんだよ」
しれっと言ったマルクに思わずハイダが突っ込んでしまう。
「え……それはだって……人として……」
「ハイダちゃん。それは善き人の考え方だよ」
(マルクさんは……善い人ではないのか)
なんだかもやもやした。
マルクを睨みつけていた買占め男は、そこでふと思いついたように視線をハイダに移す。
「つまり……お前が拒絶をやめたらこいつは消えるんだな」
「え、何言ってるんです、やめる訳ないじゃないですか」
「あのなお嬢さん。お前さんが手にしたその力は一刻も早く多くの人間の為に使われなきゃならないもんなんだよ。お前が宝の持ち腐れをしてる何十年か、その力があれば助けられる命がたくさんある。それでも、その大勢の命より自分一人が助かりたいか」
「こうしましょう。私が力を使いこなせるようになった暁にはものすごくたくさんの人を救う活動をします。失われた時間で亡くなった人の倍、助けられるよう頑張りますから。それでチャラってことにして下さい」
買占め男は黙り込む。
ハイダは本気で言っていた。相手が人の命の数でくるならこちらも数で返すしかないと思った。
ハイダに自分の言葉が響かないと知った買占め男は大きく肩を落とす。そして被っていた帽子をぐしゃりと握りつぶした。
「……お嬢さん。俺にはな。家族がいるんだ。大事な女房と娘二人が俺の帰りと稼ぎを待ってる。お前さんそういう相手がいないなら悪いがここは身を引いてくれないかね? そうだ、お前来訪者だったな。死んだら元来た世界に帰れるかもしれないぞ? そっちで待ってる人がいたりしないか?」
最初の言葉に少し怯み、最後の言葉でハイダは怒りで心を閉ざした。
ひどい男だ、と思う。こちらにとって万に一つの希望にも縋り付きたくなるような切実な願いを、確かな保証もなくこんな場面で利用しようとするなんて。だが幸い、その卑怯さにハイダは腹をを立てたので、万に一つの一つもないだろうと男の提案を切り捨てることが出来た。
そしてそれとは別に、改めて自分の胸の内を確かめてみる。
(私は……どうしたいんだろう)
炎越しに男と目が合う。
今まさに命の瀬戸際に立つ相手と向き合い、ぞわりと全身に鳥肌が立つ。
自分でも考えがまとまらない内に、勝手に口から言葉が出ていた。
「私は……本が好きなんです」
「……ああ?」
「この、新しい世界も私にとっては未読の書物と同じです。なのにまだ表紙を開いたばかりのこんな所でそれを取り上げられるのはちょっとひどいなって思います。前の世界は途中で放棄させられてしまいましたので、今度こそ、もういいやと思うくらいにこの世界と言う本を読み尽くしたいのです」
「いやお嬢さん、」
「私は、この世界をもっと知りたい。その願いを成し遂げる為にはどうしてもこの命は手放せません、譲れないんです、ごめんなさい!」
ハイダはぺこりと頭を下げた。
最後に男が何と言ったかはわからない。
ハイダが顔を上げない内に、買占め男の魔法は自身を覆う炎に負け、体はすぐに灰になって崩れた。
床に広がるさらさらとした砂のような何かを目にしたハイダは、口を押えた。
(吐きそう……)
込み上げるものをぐっと堪える。
自分の感覚としては、直接相手を手にかけた訳ではない。
それでもハイダは自分の答えが相手の命を奪うことを知っていた。ハイダが、あの男を殺したのだ。
こちらへ来てわずか二週間で初めて人を死なせた。そしてこれからも同じことがあるのだろう。
(異世界サバイバル過ぎる……)
「なんだこりゃ、偽物じゃん」
ぐしゃぐしゃになった気持ちをどうにか整えようとしていると、突然、マルクの声が上がった。
目を向けると、こちらのやりとりなど全く気にしていなかったかのように、彼は先ほどの小箱を取り出して検分しているところだった。
「マルクさん……?」
「思い出したよ、そう言や昔、あいつが面白がってこういうの作ってばら撒いてたっけ」
言いながらマルクは箱に入っていた物をつまみ上げた。
そこで初めてハイダは中身を知る。
それは鮮やかな深紅色をした、短い髪の束だった。
あいつとは誰か、その髪は誰のものかと聞こうとして、何故だか躊躇われて質問を変えた。
「ええと。偽物を掴まされたということは……あの人達はマルクさんを騙そうとしていたんですか……?」
「いや。この出来じゃ、連中は本物だと信じてたんだろう。とにかく、それでもまあ……こうしてあいつの残した物に触るのは随分と久しぶりだ」
顔の前まで持ち上げたそれを、マルクはこの上なく優しい顔で眺める。
そして、箱ごと一瞬で消し去った。
(あれ……?)
ここでハイダは一連のマルクの言葉と動作に何かが引っかかる。
(なんだかこう……とても大事な物の偽物を掴まされたわりには怒りやがっかり感が薄いような……?)
抱いた違和感を噛み砕き、考えて、一つの答えに辿り着いた。
それをぶつけてみる。
「もしかしてマルクさん……最初からそれが偽物だって気付いてました?」
お、と言う顔でマルクが振り返る。
その表情を見て確信した。
これはわざとだったのだと。
「……もしかして、私を試したんですか?」
「まあ、そりゃあね。俺だって、相手を殺してでも生き延びるつもりがない人間を無理矢理に生かしたって虚しいだけだからね」
驚きに息を飲む。
騙されていたのは自分だった。
しかし、不思議と怒りは湧いてこない。その代わりにハイダは呆れると同時に納得してしまう。
(そうか。この人は、私がちゃんと反撃できるか知りたかったのか……)
今後再び追手が現れたとして、マルクだけに手を汚させるのはおかしいだろうとハイダ自身も思う。
現在のこの状況はマルクの贖罪によって成り立っているものかと思っていたけれど、考えてみれば、ハイダ本人が死んでもかまわないと思うなら誰もが争わず全てが丸く収まっていたのだ。
ハイダは息をつく。
(……そうだ。私は生きて、この目でこの世界を知りたいんだ)
この異世界にやってきて、自分が何をどうしたいのか今はっきりと自覚出来た。
これまでは、ここで死ぬのはあんまりだという思いだけで動いていた。
でもこれからは、自分の願いを破壊する者に立ち向かおうという意志を持てた。
(私には私の命と願いを守る権利がある。つまり、こちらに手を出す相手を倒すのは正当防衛! 悼んでも悔やむ必要なし!)
ハイダは久しぶりにすっきりした気分になった。
失っていた自分と言う船の舵をようやく取り戻せたような思いである。
「ありがとうございます、マルクさん。おかげで私の中の覚悟が決まったように思います」
「あーそう」
「ですがこんなぎりぎりのやり方でなくて、最初に口頭で確認してもらえばよかった話じゃないでしょうか?」
「実際の岐路に立たなきゃわかんないこともあるでしょ」
「そういうものでしょうか……」
ハイダにはよくわからなかった。
怖い思いや痛い思いは回避可能なら回避して欲しかった、とも思う。
とりあえず、ハイダは身なりの汚れや乱れを整えてから座席に座り直した。
いつの間にかこの車両にはハイダとマルク以外の人間はいなくなっていた。
車両内の全てが敵側だったのかもしれないし、揉め事を察知して脱出した後だったのかもしれない。
誰かのおしゃべりも新聞をめくる音もなく、静かな走行音だけがこの場に響いている。
(色々と疑ってしまったりしたけど。それでも、マルクさんは、私にとっては命の恩人で、いい人、なのだと思う。多分。……ただ、たまたま今回は偽物だったけど……マルクさんの中には絶対にそれを最優先で選んでしまう何かがあって、私とそれのどちらかを選ばなければならないなら、私の方を捨てるのだ、と思う。これから先、もしもまたそんな状況になったら、私はマルクさんを困らせない為にも自分の身は自分で守れるようにしておかなきゃならないのかもしれない)
鞄に仕舞った魔法指導書を思った。
一刻も早く、自分で魔法が使えるようにならなければ。
(それと……)
万が一また同じようなことが来た時の為に知っておいた方がいいのかもしれない。
また恐ろし気な空気で線を引かれたらどうしよう、と心は委縮してしまうが、それでも勇気を振り絞ってハイダは口にした。
「マルクさん。……マルクさんの言うあいつと、さっきの髪……の本物の方の持ち主は同じ人なんですか?」
マルクはただにこりと笑った。
ハイダはそれを肯定だと捉えた。
「あのう……その人は……マルクさんとは一体どういう……」
ガタゴトと列車が揺れる。
マルクは車窓から差し込んでくる日差しに眩しそうに目を細めた。
「……そうだな。あいつは俺の……最愛だよ」




