サクラ・スイーツの事件(後編)
十分钟後、状況はおおむね落ち着いていた。
通りからは民間人も怪物もいなくなり、ミコはバイクにまたがって、さらに街の奥へ逃げ込んだ残りの怪物たちを追いかけていた。
それにしても、ひどい物的被害だ。
窓ガラスは吹き飛び、歩道にはひびが入っている。
怪物たちが引き起こした被害なんて、全体からすれば大したことはなかった。確かに人々を恐怖に陥れはしたが、ミコ一人で通り一本をほとんど破壊しかけたのだから。
やっぱり、彼女のファイルを途中で読むのをやめず、最後まで目を通しておくべきだったかもしれない。
そうしていれば、こんな事態になると予測できたかもしれないし、そもそも避けられたかもしれない。
「待てよ……アキにも、俺が心配しなきゃならないような変な癖とかないよな? 任務に支障をきたしたり、足手まといになったりするような何かが……」
俺とアキは、数ブロック先に最近オープンしたばかりの競合店、シュガー・サボターズへ向かっていた。
今回の事件に関する証拠は、すべてあの店を指し示していた。
桜スイーツの店長が目を覚ましたあと、つまり、もう誰かに操られていない状態になったあと、俺たちは店長と従業員たちから事情を聞いた。
そこで判明したのは、シュガー・サボターズがその日の朝、彼らに高品質の製菓用小麦粉を何袋も贈っていたということだった。
従業員たちによると、袋を届けに来た女性は、それを和平の証だと説明したらしい。
店同士、もうわだかまりはないという意思を示すための、パン屋からパン屋への贈り物だったそうだ。
当然ながら、その日の午後、従業員たちが自分たちの菓子を作るために使ったのは、まさにその小麦粉だった。
そして、その菓子が命を持ち、彼らを襲い始めた。
さらに、小麦粉に闇の魔法の痕跡がないか調べたところ、検査結果は陽性だった。
俺のさっきの質問に対し、アキは不安そうな笑みを浮かべ、何度も首を横に振った。
だが、それで安心できるはずもなかった。
やっぱり、彼女たちのファイルも、連れてくる前に最後まで読んでおくべきだった。
一分後、俺たちはパン屋に到着し、中へ入った。
「わお……!」
アキが驚きの声を上げた。
俺も同感だった。
シュガー・サボターズは、桜スイーツよりもずっと高級感のある店だった。
床には大理石のタイルが敷き詰められ、内装も見事なものだった。店のオーナーは、装飾に関しては一切費用を惜しまなかったらしい。
あえて欠点を挙げるとすれば、店内が少し暗いことくらいだろうか。
それと、店には誰もいなかった。
客の姿はまったく見当たらない。
「ん? 妙だな」
「どうしたのですか、隊長?」
「いや。これだけ豪華な店なら、客の一人くらいはいてもよさそうだと思ってな」
「なるほど、隊長。確かに不思議ですね」
「そうだろ」
「もしかすると、先ほどの襲撃の噂を聞いて、皆さん避難したのかもしれません」
「それもあり得る。だが、こんなに豪華な店なのに、普段から客があまり入っていないんじゃないかって気もするんだよな」
俺とアキは、カウンターに向かって店の奥へと進んでいった。
計画は単純だ。
オーナーか従業員を見つけて、いくつか質問をする。その後、捜査を進める。
ところが、奥へ進めば進むほど、店内はますます人気がなくなっていくように感じられた。
そもそも、本当に誰かいるのだろうか?
「こんにちはー!」
俺は控えめに声をかけた。
「どなたかいらっしゃいませんかー!?」
アキも続けて呼びかける。
俺たちは、天井から這い降りてきて、ずっと後ろをつけていた何者かの存在にまったく気づいていなかった。
カウンターに到着したところで、俺たちは足を止める。
その瞬間、背後にいた何者かが二人の肩の間から頭を差し入れ、声をかけてきた。
「お二人さん、何かお手伝いできることはあるかい?」
「さっきは驚かせちまって、すまなかったねぇ。あたしの名前はヴォランティナ・B・ウィドウ。この店の経営者であり、唯一の女主人さ。よろしく頼むよ」
「た、た、田中大介! M-SERT、渋谷分署所属です!」
俺は少し震える手で警察バッジを掲げた。
心臓はまだ激しく脈打っていた。
背後から声が聞こえた瞬間、俺とアキは驚いて、それぞれ反対方向へ飛び退いていた。
店内には誰もいないと思っていたのだから、当然だ。
それだけではない。
振り返った俺たちは、目の前にいた巨大な半人半蜘蛛の怪物と、いきなり顔を突き合わせることになった。
そいつは俺たちを見つめ、ニヤリと笑っていた。
ヴォランティナ・B・ウィドウ。
彼女は、いわゆる女郎蜘蛛と呼ばれる魔法生物だった。
人間と蜘蛛の特徴を併せ持つ存在だ。
日本では、ほかの多くの魔法生物ほど一般的ではない。そのため、一般市民が彼女を目にすれば、かなり驚くことになる。
「隊長さん、改めて本当にすまなかったねぇ。ところで、今日は何のご用だい? 飲み物かい? シュークリーム? それともシュガーバンズかい?」
彼女はそう言って、愛想よく尋ねてきた。
俺は一度咳払いをしてから口を開いた。
「実はですね、ヴォランティナ夫人……」
その瞬間、彼女のたくさんある手のうちの一本が、素早く俺の唇に押し当てられた。
それ以上しゃべるのを止められたのだ。
「ミス・ヴォランティナ、だよ。隊長さん」
彼女は訂正した。
「ミス、さ。ミセスじゃないよ」
そう言って、ニッコリと笑う。
俺は頷き、彼女はようやく指を俺の唇から離した。
「分かりました。では、ミス・ヴォランティナ。実は、捜査のためにこちらへ伺いました」
俺はアキに先を任せるよう合図した。
彼女はボンバージャケットの中からMSD、魔法スキャナー装置を取り出すと、闇の魔法の痕跡を探すため、店の奥へと進んでいった。
「おやおや、あんたたち、ちゃんと捜索令状は持ってるんだろうねぇ?」
「はい、もちろんです」
俺は一枚の書類を取り出し、俺たちの間にあるテーブルの上に置いた。
「ですが、もしかすると、あなたに協力していただければ、話はもっと簡単に済むかもしれません。今日の午後、桜スイーツで起きた事件の黒幕について、何か心当たりはありませんか?」
ヴォランティナは一瞬、驚いたような顔をした。
その表情を完成させるためなのか、片手を口元に当ててさえいる。
だが、驚いたふりをしているにしては、あまり説得力がなかった。
「あらまあ、そんなことがあったのかい? かわいそうにねぇ。誰も怪我してなきゃいいんだけど」
「いいえ、全員無事です。少し動揺はしているでしょうが、怪我人は一人も出ていません」
「そりゃあよかったねぇ!」
彼女は安堵したような反応を見せた。
もちろん、それも演技だった。
「ええ。それで、俺たちはここに来たわけです。桜スイーツの従業員たちによると、今日の午後、菓子を作る際に呪われた小麦粉を使ったそうです。その小麦粉は、あなたの店から届けられたものだった」
「おやおや、隊長さん。何が言いたいんだい? まさか、あたしが今回の事件を引き起こしたとでも? あたしが黒幕だって言うのかい?」
「いえ、ミス・ヴォランティナ。俺はそこまで直接的には言っていません。ただ、動機は十分にそろっていると言わざるを得ませんね。あなたの店は新しくオープンしたばかり。そのすぐ隣には、桜スイーツという強力な競合店がある。影響がなかったとは思えません。客足が伸びない、利益が減る。そういった状況が続けば、今の状況を自分に有利な方向へ変えるために、何かを企てたとしても不思議ではありません」
「まあ、隊長さんったら。ずいぶんはっきりとあたしを犯人扱いするじゃないか」
彼女はニッコリと笑った。
「でも、文句は言えないねぇ。あたし、こうして気を抜けない男ってのは嫌いじゃないんだよ」
「隊長!」
アキの声が聞こえ、俺はヴォランティナを見つめていた視線をそちらへ向けた。
「失礼します」
彼女に断りを入れて席を立ち、厨房へ向かう。
「どうした?」
到着すると、床に置かれた何袋もの小麦粉の横で、アキがしゃがみ込んでいた。
「こちらの鍵のかかった戸棚の中に、小麦粉の袋がありました。鍵は焼き切って開けました」
「何か見つかったか?」
「はい」
アキは俺に見せるようにスキャナーを掲げた。
検査結果は陽性。
小麦粉には闇の魔法の痕跡が含まれていた。
それだけではない。
袋には、桜スイーツに届けられたものと同じロゴが印刷されていた。
「なるほど。これで事件解決だな」
俺はそう言った。
「よくやった、アキ。さあ、逮捕に取りかかろう……」
「おやおや、そうはいかないよ、かわい子ちゃん」
背後から声がした。
だが、俺たちが振り返って確認するよりも早く、鈍くて大きな何かが二人の頭の側面を強打した。
俺たちはそのまま、意識を失った。




