泥棒追跡
それから十分後、ようやく車が動き出す時間がやってきた。
やっとだ。
ドラゴンの姿はもうなく、道路はすっかり空いていた。M-SERTの隊員たちが現場に駆けつけ、対処してくれたらしい。おそらくドラゴンを起こして、どこかへ追い払ったのだろう。
こうした事態が発生した際の対処手順は、M-SERT隊員ハンドブックのD-E項に定められている。
とはいえ、あの魔法生物を追い払うために、どんな方法を使ったのかなんて正直どうでもよかった。
俺はただ、一刻も早く本部に着きたかった。
運転手が再びタクシーのエンジンをかけ、出発の準備を整えた。
だが、そのときだった。
誰かの助けを求める叫び声が耳に飛び込んできた。
「泥棒! 泥棒です! 誰か助けてください! あの男が私のハンドバッグを盗んだんです!」
ちょうどその瞬間、犯人と思われる人物がタクシーの前を走り抜けていくのが見えた。
赤いマントを身につけ、盗んだバッグを手に持っている。
その瞬間、三年間の養成学校での訓練が身体に染みついた動きを呼び起こした。
考える暇などなかった。
ただ、身体が動いた。
俺はドアを勢いよく開け、犯人を追って走り出した。
背後からタクシーの運転手が叫ぶ声が聞こえる。
「おい! 待ってください! 遅刻してるんじゃないんですか!? どこか行くところがあるんでしょう!?」
無視して、そのまま前を走る人物を追いかけた。
いや、男だと思っただけで、マントに顔が隠れていて、実際のところはわからない。
人混みの中を駆け抜けながら、ぶつかってしまった通行人たちに謝る。
スーツケースを持った男性。
スマホに夢中で、顔を上げようともしない女性。
「すみません! ごめんなさい! 本当にすみません!」
くそっ、速い。
しかも、まったく速度を落とす気配がない。このままでは逃げられてしまう。
何か手を考えなければ。
「おい! そこのお前!」
俺は声を張り上げた。
「止まれ!」
だが、相手は無視して走り続ける。
警告射撃をしてやることもできた。相手の逃走を思いとどまらせるための、威力を抑えた雷魔法だ。
しかし、周囲には人が大勢いる。注意を怠れば、通行人の誰かに誤って命中させてしまうかもしれない。
それに、正式なM-SERTの警察バッジをまだ持っていない俺が、許可なく攻撃魔法を使えば、問題になる可能性もある。
M-SERT隊員ハンドブックの第12条には、こう明記されていた。
『法執行官を含むいかなる個人も、明確な政府の許可なく魔力による攻撃を行ってはならない。ただし、正当防衛、または公共の安全に対する差し迫った脅威が存在する場合を除く』
俺の知る限り、目の前の相手は、ただお婆さんのハンドバッグを盗んだだけだ。
誰かを脅かしているわけではない。
少なくとも、今のところは。
「おい!」
俺はもう一度叫んだ。
「止まれって言ってるだろ!」
それでも犯人は無視し、近くの路地へと一直線に駆け込んでいった。
俺もその後を追う。
行き止まりになっていれば、飛びかかって地面に押さえつけられるはずだ。
だが、角を曲がった瞬間……。
「ファイアブラスト!」
相手は立ち止まって振り返り、俺に向けて火炎魔法を放ってきた。
反応できる時間は、ほんの数ナノ秒しかなかった。
「バブルシールド!」
間一髪で叫び、両腕を前方へ突き出す。
すると、透明な青い円形の障壁が展開し、顔面めがけて飛んできた巨大な火球を受け止めた。
衝撃で身体が数センチほど後方へ吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
だが、その勢いをすぐさま後方宙返りへと変え、跳ね起きると、次の攻撃に備えて身を低く構えた。
危なかった。
本当に、危なかった。
計画が思いどおりにいかなかったことに気づき、こちらが予想以上に早く体勢を立て直したことにも驚いたのだろう。
火属性の魔法使いと思われるフード姿の人物は、反対方向へと走り出し、さらに路地の奥へ逃げていった。
こちらに明確な敵意を示した以上、もう遠慮する必要はない。
俺の命だけでなく、巻き添えになりかねない周囲の人々の命まで危険にさらしたのだから。
今度はこちらから攻撃しても、法的に問題はなかった。
俺は立ち上がり、再び追跡を開始した。
「ライトニングストライク!」
指先から威力を抑えた雷魔法を放つ。
一発目は外れた。
二発目も外れた。
だが、三発目は外さなかった。
命中!
雷撃が相手の背中にまともに直撃し、その身体は地面へと叩きつけられた。
致命傷になるような威力ではない。痛みとしては、スタンガンを食らった程度のものだ。
俺はすぐさま駆け寄り、倒れた相手のそばに落ちていたハンドバッグを拾い上げた。
まだ警察バッジも手錠も持っていない俺には、正式に逮捕したり、取り調べのために連行したりすることはできない。
そこで、まずは自分の使った攻撃魔法によって相手が危険な状態に陥っていないことを確認した。
ただ気絶しているだけだとわかると、警察に電話をかけた。
そして、道路脇に縛り上げた荷物を置いて待っている、と伝えたあと、盗まれたバッグを持ち主に返すため、その場を離れた。
「ありがとうねえ、お兄さん。本当にありがとう。泥棒を捕まえて、バッグまで取り返してくれるなんて」
そう言ってくれたお婆さんは、俺の頬を引きちぎるんじゃないかという勢いでつねっていた。
「いえいえ、どういたしまして、お嬢さん」
俺は甲高い声で返事をした。
顔をつねられ続けているせいで、目から涙がこぼれそうだった。
その後、ようやくタクシーに戻り、M-SERT本部まで送ってもらった。
建物に入るなり、案の定、現場指揮官からこっぴどく説教を食らった。
それでも、無事に警察バッジを受け取り、その後、渋谷区南部へ向かうよう指示された。
どうやら、チームのメンバーはすでに現地で待機しているらしい。
話によると、同期の中で最後に到着した俺には、現場隊員を選ぶ権利がなかった。
選抜の最後まで残っていたメンバーを、そのまま割り当てられたのだ。
つまり、他のみんなが選ばなかった連中を押しつけられた、ということになる。
正直、少し不安だった。
だが、遅刻してきた俺が悪いのは事実だ。文句を言うつもりはなかった。
ただ命令に従うことにした。
まあ、思っていたほど悪いチームではないかもしれないしな。
本部を出ようとしたところで、危うく誰かとぶつかりそうになった。
葛城カオリさん。
俺の夢にまで出てくる天使だ。
どうやら、ちょうど初任務から戻ってきたところらしい。
おそらく、道路で昼寝していたドラゴンに対処したのは、彼女のチームだったのだろう。
彼女は俺の存在にすら気づかなかった。
青い隊長服に身を包み、選び抜いた現場隊員たちを引き連れて、俺の横を通り過ぎていった。
くそっ、格好いいなあ。
しかも、彼女のチームは養成学校でも屈指の優秀な連中ばかりに見えた。
俺だって、彼女と同じチームに入れたなら、どれほどよかったことか。
だが、一つのチームを二人の隊長が率いるわけにはいかない。
ようやく渋谷区南部に到着すると、俺は期待に胸を膨らませながら、大きく息を吸い込んだ。
いよいよだ。
たった一枚のドアを隔てた向こうに、俺のチームが待っている。
俺は隊長だ。
やるべきことはやった。必要な時間も費やした。
そして今、いよいよ仕事が始まる。
軽く咳払いをし、ジャケットの襟を整える。
さあ、チームのみんなに自己紹介だ。




