3.
ライノ大公は獣人国の王弟にして、軍の最高司令官である元帥の称号を持つ方でもありました。
地位的にはケスス宰相と同格ですが、王家の血を引いている分、その発言力は決して無視できないものがあるそうです。
わたくしたちはその日のうちに大公の城の大広間に集められ、夕刻には詮議が始まりました。
というのも、軍は明朝、夜明けとともに出立し、明後日には王都にて戦勝の儀と王太子妃の披露の宴が開かれるからです。
周辺諸国から賓客を招いての披露宴に遅滞は許されず、詮議は出立までに確実に決着させねばならないのでした。
詮議にかけられるのはわたくし一人。
罪状は、グラム将軍に惑わしの媚薬を盛ったこと。番を偽る行為は獣人国では最大の禁忌であり、死をもって報いられるそうでございます。
詮議の大広間は、壁際にずらりと並んだ燭台の炎で、真昼のごとき明るさでございました。
正面の一段高い席には、ライノ大公がどっしりと座っておいでです。
灰色の岩を刻んだような分厚い皮膚。鼻梁から天を衝くように伸びた、太く鋭い一本の角。宿の廊下で見上げた時にも思いましたが、座っていてさえ、並の獣人が立った背丈とさほど変わりません。
大公の右側にウォルム殿下とケスス宰相。左手にはグラム様。
そして広間の中央にぽつんと一人、わたくしが立たされておりました。
周囲を埋める獣人族の貴族や騎士たちの中には、あの宴の晩に見た顔がいくつも交じっておりました。
「ではこれより詮議に入る」
地の底から響くような大公の声に、ケスス宰相がするすると進み出ました。
「申し上げます。これなる人族の娘エイルは、先の戦勝の宴において、畏れ多くもグラム閣下に惑わしの媚薬を盛りました」
広間がざわめきます。
「あの晩、この娘が閣下の膝に乗って酌をするさまは、ここにおいでの皆様もしかとご覧になったはず」
「見た」
「人族の女はああも恥を知らぬものかと呆れたものだ」
あちこちから上がる声に、わたくしは拳を握りしめました。
否定することはできません。閣下の膝に乗ったのも、酌をしたのも事実でしたから。
酒に媚薬を混ぜたのが目の前の宰相だと訴えたところで、人族の婢女と一国の宰相、どちらの言葉が信用されるかは考えるまでもありません。
「グラム」
大公の目が、ゆっくりと左手に向けられました。
「相違ないか」
グラム様が立ち上がりました。
軍服に身を包んだグラム様のお顔は平静で、声には微塵の揺らぎもございません。
「俺は媚薬など飲んでおらぬ。この者は――エイルは、俺の真の番だ」
わたくしは、ひゅっと息を呑みました。
広間がどっとどよめきます。
グラム様は、一体何を言い出すのでしょう。
わたくしたちのこれまでの行いはすべて――同じ天幕で寝起きしたことも、親しげなそぶりで交わした会話も――どれも番の「ふり」でしかなかったことは、誰よりもグラム様がご存知のはず。
(それを真の番だなどと)
番を偽ることは、この国では死に値する大罪だというのに。
くつくつと、喉の奥で笑う声がしました。ウォルム殿下の声でした。
「なんと、惑わしの媚薬とやらは、聞きしにまさる効き目だな。自らが口にしたことすら否定し、偽の番を庇い立てするとは」
「……薬であれば、いずれ切れよう」
低く唸るような声は、大公のものでした。
すかさずウォルム殿下が「そのとおり」と首肯します。
「しかし、それがいつになるか、一体誰が知り得ましょう?」
殿下は、居並ぶ人々をぐるりと見渡して声を張り上げました。
「叔父上以外にも、憶えておる者は多いはず。かつて、グラムの乳母をしていた者が、自らの過ちでグラムに怪我させたことを隠すため、幼いグラムに惑わしの媚薬を使ったことがあった。ひと月の間、毎日のように与えられた媚薬の効き目は、実に一年以上も続いたのだ!」
それは、獣人たちの間ではかなり有名な話のようでした。
「ああ、あったな、そういえば」
「あの時はえらい騒ぎだった」
ウォルム殿下は満足そうに頷くと、おもむろに言葉を続けます。
「今回、グラムが口にした媚薬は盃に二杯。だが、その効き目はいつ切れる? 夜明けにこの城を発つまでか。王都の門をくぐってからか。それとも、外国の賓客が居並ぶ披露宴の真っ最中か!」
殿下は言葉を切り、意味ありげにグラム様を見やりました。
「あの時グラムがしでかした事は、叔父上が一番ご存知だ。何しろこの城の一角が――」
「もうよい」
大公が遮りました。
グラム様は何もおっしゃいません。けれど、身体の脇に垂らした拳が白くなり、その尻尾はご自分の身体にきつく巻きついたまま、ぴくりとも動きませんでした。
大公は長いこと額に皺を寄せ、目を閉じて考えておられました。
やがてその目が開いた時、暗褐色のその視線はまっすぐにグラム様を見据えておりました。
「グラム。今一度問う。その言に偽りはないか」
「ない」
「心して答えよ。番を偽るは、我らにとって最大の禁忌。おまえの言が偽りとなれば、おまえもまたこの娘と同じく死をもって贖うことになる」
――死。
わたくしの頭から、すうっと血の気が引いていきました。
グラム様が。わたくしのせいで。
だって、わたくしたちは偽の番なのです。
あの晩、天幕でグラム様ご自身がおっしゃったではありませんか。奴らを欺くために、番同士として振舞うのが良いと。
なのに、この方は今、その偽りを、ご自身の命を懸けて貫こうとしていらっしゃる――。
「偽りはない」
「畏れながら!」
グラム様の言葉と、わたくしの声が重なり合って響きました。
「畏れながら、申し上げます!」
広間中の視線が、一斉にわたくしに注がれました。
膝が震えました。声も震えていたことでしょう。
それでも、わたくしは言いました。
「将軍閣下のお言葉は、すべて薬のせいでございます。わたくし――わたくしは、閣下に惑わしの媚薬を盛りました」
「エイル!」
グラム様の叫びは、どっと沸き起こった人々の声に掻き消されました。
視界の端に、ウォルム殿下の唇がゆっくりと吊り上がるのが映ります。
大公は瞑目し、深く、長く息を吐かれました。
「……聞いたとおりだ。娘自ら罪を認めた以上――」
「お待ちを、大公閣下」
ケスス宰相でした。
二股の舌をちろりと覗かせ、宰相は恭しく一礼すると言いました。
「この者の申すことは偽りにございます」
「何?」
眉を顰める大公閣下。
広間中の人々が、何事かと息をひそめます。
わたくしも、自分の耳が信じられませんでした。
この期に及んで、この男は一体何を言い出すのでしょう。
「宴にて閣下に酌をした侍女エイルは、今宵、宿にて乱心した兵の手にかかり落命いたしました。ここにおわすは、長年仕えた侍女を喪うた悲しみに取り乱し、その者と御身を取り違えていらっしゃる――リアンナ妃殿下にございます」
「何を馬鹿な! その者は確かに――」
誰かが言いかけるのを、宰相は片手を上げて制しました。
「人族の顔の違いなど、我らに見分けがつくものか。されど匂いは偽れぬ。大公閣下、どうぞお確かめを」
大公が、座からわずかに身を乗り出されました。
大きな鼻孔が、ふすう、と空気を吸い込みます。
「……確かに。この娘には、あの王と同じ血が流れておる」
おそらく、宰相も大公も、生前の父と会ったことがあるのでしょう。
だからこそ、宰相は、あの時咄嗟にわたくしを姉の身代わりにすることを思いついたに違いありません。
「違う! その者は……っ!」
「グラム」
大公のその一言だけで、グラム様はぐっと言葉を呑み込まれました。
続いて、大公は居並ぶ人々をぐるりと見回し、ぶふう、と鼻から大きな息を吐き出します。
「これよりは王家の内情に関わる話である。関わりなき者には退出を命じる」
人々は互いに顔を見合わせ、やがて、ぞろぞろと広間を出ていきました。
最後の一人が出ていき、重い扉が閉ざされます。
燭台の炎が揺れる音さえ聞こえそうな静けさの中、残ったのは大公、ウォルム殿下、ケスス宰相、グラム様――そしてわたくしの五人だけでした。
気がつけば、先ほどまで壁際に控えていたパンテラ様も姿を消しています。
「さて、ケススよ」
大公は、じろりと宰相に目をやりました。
「儂の鼻はそこまで鈍っておらぬぞ。今宵、宿で死んだのは誰だ」
宰相はひょいと肩を竦めました。
「リアンナ妃殿下にございます」
「やはりな」
「致し方ございますまい、叔父上」
そう言ったのはウォルム殿下です。
「和平の証に嫁いできた王女が、輿入れから幾日も経たずに死んだのです。それも我が軍の兵の手にかかって。披露の宴は明後日。国外の目もある以上、妃を立てぬわけにはいきますまい」
大公は答えませんでした。
ただ、岩のような拳を膝の上で握りしめ、長いこと黙っておいででした。
わたくしにはわかりました。
大公は、宰相の嘘を見抜いておられる。
けれど、ここで姉の死が公になれば、獣人国の立場はどうなるでしょう。
敗戦国とはいえ、和平のために差し出した王女を殺されたとあっては、故国もさすがに黙っているわけにはいきません。
再び戦になるでしょう。
そして今度は「殺された王女の弔い合戦」という大義名分を得た故国に加勢する国も出てくるかもしれません。
「叔父上」
グラム様が、低く絞り出すように言いました。
「信じてくれ。その者は本当に俺の番なのだ」
「兄の妃を、己の番と呼ぶか」
ウォルム殿下の紅い瞳が、すっと細められました。
「この場だけは、薬のせいと大目に見よう。だが、この娘が我が妃となった後も同じことを申せば大逆ぞ?」
「待て、ウォルム」
大公の暗褐色の瞳が、今度はウォルム殿下を射抜くように見つめました。
「もしもこの娘が、真にグラムの番であったなら。番を奪われた獣人がどうなるか、知らぬおまえではあるまい。――おまえの弟は狂い死ぬぞ」
殿下は、ゆったりと微笑みました。
「真の番なればの話でしょう、叔父上。媚薬が見せた偽りの番なれば、何の障りもございますまい」
狂い死ぬ。
その言葉が、一瞬、ひやりとわたくしの肝を冷やしました。
けれど、わたくしは偽りの番です。グラム様は薬など飲んでいない。わたくしがいなくなったところで、あの方には何の危険も及びません。
そして、わたくしが姉の身代わりになりさえすれば。
媚薬を盛った侍女は死に、グラム様の「真の番」という言葉は、薬の作用による失言として見逃される。
グラム様が命を懸けて勝ち取られた和平は破れずに済み、グラム様がふたたび戦場に立つこともなくなるのです。
「娘」
大公の瞳が、ここへ来て初めて、まっすぐわたくしに向けられました。
「おまえに問おう。おまえは――何者か」
視野の端で、グラム様が身動ぎしたのがわかりました。
見なくても感じます。
あの淡いブルーの瞳が、ひたとわたくしに向けられていることも。
あの方が全身全霊で「よせ」と叫んでいることも。
(あの戦勝の宴から今日までの七日間……)
思えば、わたくしの人生で、最も幸福な日々でした。
あの方の腕の中で目覚めるたびに、あの方の目に見つめられ、あの低い声で名前を呼ばれるたびに、どれほど心が震えたことか――。
わたくしはひとつ息をつくと、顔を上げ、大公をまっすぐ見返しました。
「……わたくしはリアンナ王女。ウォルム王太子殿下の妃でございます」
その途端、わたくしの胸に鋭い痛みが走りました。
グラム様がいるあたりから、無音の絶叫のような気配が伝わってきます。
「よくぞ申した。我が妃よ」
ウォルム殿下が座を降り、わたくしに近づいてまいります。
差し出されたその手を取れば、すべてが終わる。
わたくしが、震える指先を持ち上げた、その時でした。
「待ちなさいよっ!」
閉ざされていた大広間の扉が、音を立てて開け放たれました。
むせかえるような薔薇と麝香の香りが、どっと流れ込んできます。
パンテラ様に片腕を掴まれ、引き立てられるように入ってきたのは、ほつれた髪を振り乱し、汚れたショールを肩に引っかけた一人の女――。
「閣下。宿の裏手の厩に潜んでおりました」
パンテラ様の短い報告を振り払うように、女は広間の中央へ進み出ると、汚れた爪でわたくしを指さしました。
「その女がリアンナですって? 冗談じゃないわ。リアンナは私よ!」
姉でした。
死んだはずの、姉でした。
ウォルム殿下の足が止まり、宰相の口から出入りしていた二股の舌もぴたりと動きを止めました。
「あのカエルに殺された女は泥棒猫のノンナよ。そしてその女はエイル。卑しい、私の婢女よ!」
姉は勝ち誇ったように顎を上げると、燃えるような瞳でわたくしを睨みつけました。
「しかもそいつはね、殿下と宰相閣下の言いつけに背いたのよ! 宴の晩、あの酒壺の中身を、全部地べたに零したの!」
「……何?」
大公の目許がぴく、と動きました。
「どうして知っているのかって? 見たからよ。あの晩、あのカエルが地べたに這いつくばって、零れた酒を舐めてたのを! その後、あいつはノンナなんかに夢中になって、薬が切れた途端――」
姉は一瞬、ぶるりと身を震わせ、それから甲高い声で叫びました。
「殿下を欺いたその女こそ、八つ裂きにされて当然だわ!」
広間は、水を打ったように静まり返りました。
姉だけが、まだ気づいていないようでした。自分が今、何を口にしたのかを。
ぎし、と床が軋みました。
ライノ大公が、ゆっくりと席から立ち上がったのです。
「……今、何と申した」
大公の声は低く、静かでした。
けれどその目は、姉ではなく、わたくしに手を差し伸べたまま凍りついたウォルム殿下と、その傍らのケスス宰相に向けられていたのでございます。
「殿下と宰相の言いつけ、と。そう申したか」
高窓の外の空は、まだ暗いままでした。




