エピローグ
戦勝の儀の終わりを告げる銅鑼の音が鳴り渡ると、部屋にいた侍女たちが一斉に色めき立ちました。
「さあ、もう時間がないわ」
「最後の仕上げを急ぎませんと」
化粧台の前に座らされたわたくしは、純白のシルクに淡いブルーの宝石を無数に散りばめたドレスを纏い、肩までの髪をハーフアップに結い上げられておりました。
獣人国のしきたりでは、花嫁はヴェールを被らないそうでございます。
その代わり、むき出しの肩から首筋にかけて刷毛でうっすらと糖蜜が塗られ、その上から金粉をまぶされました。
侍女たちに促されるまま立ち上がり、扉に向き直った時。
慌ただしい足音が廊下を近づいてきたかと思うと、ノックもなしにバタンと扉が開きました。
そして次の瞬間、わたくしは高々と抱き上げられていたのでございます。
「エイル!」
「グラム様」
凛々しい軍服姿のグラム様は、わたくしを抱き上げたまま、くるりと一回転されました。長い尻尾はぴんと立ち、先端が小刻みに動いています。
「ああ、エイル、エイル。会いたかっ……」
「「「殿下っ!」」」
侍女たちの声に、グラム様はぴた、と動きを止められました。
「何を考えていらっしゃるのですか!」
「せっかく着付けたお衣装が皺になるではありませんか!」
「王太子殿下といえど、ここは我慢していただきませんと!」
「…………」
グラム様は、すとんとわたくしを下ろされました。同時に、その尻尾もしゅんと垂れ下がります。
「……すまん。どうしても待ちきれなくて」
「大丈夫。気にしておりませんわ」
わたくしは笑いながら言いました。
正直言って、わたくしも、グラム様に会いたくてたまらなかったのです。
でも今ここでそんなことを言えば、もっと大変なことになるだろうことは、昨日一日だけでもじゅうぶんすぎるほどわかっておりました。
◇◇◇
――詮議のあったあの晩。
ウォルム殿下とケスス宰相は、速やかに捕縛されました。
罪状は、グラム将軍に惑わしの媚薬を飲ませ、殺害を企てたこと。
後に自白したケスス宰相によれば、薬が切れたところで暴走したグラム様を、「放っておいては確実に広範囲に危険が及ぶ」という名目で討伐する計画だったそうでございます。
「実際、そのように言われれば、儂も陛下も異を唱えることはできなんだであろう」
ライノ大公は苦々しげにおっしゃいました。
というのも、かつて乳母に尋常ならざる執着を見せたグラム様を、大公が自らの城に引き取った時。
薬が切れたグラム様は、まだ五歳にも満たぬ幼子だったにも関わらず、素手で城郭の一角を毀ち、ライノ大公に傷を負わせるほどの大暴れをされたからでございます。
ウォルム殿下は廃太子の上、王位継承権を剥奪。断種の措置を施され、辺境の離宮に幽閉されることになりました。
ケスス宰相については、ウォルム殿下を唆したこと、本来は王家の政略婚においてのみ用いることを許された惑わしの媚薬を不正に持ち出し、わたくしに媚薬を盛るよう強要した首謀者であったことが後の調べで判明し、死罪が確定しております。
そして、リアンナ――わたくしの姉、だった者は。
ノンナが殺された後、厩に隠れていたこと。それ以前から身体を清める水さえも満足に与えられていなかったことから、詮議の後、リアンナは湯浴みを許されました。
そうしてすっかり垢も汚れも取り去ったリアンナが、改めて大公の前に立った時。
大公は、リアンナが誰なのかわかりませんでした。
大公だけではありません。その場に居合わせたグラム様も、不思議そうに首を傾げられたのです。
「一体誰だ、この女は?」
「失礼ね! 私はリアンナ王女、ウォルム殿下の妃よ!」
「ではなぜ、おまえからはあの王のにおいがしないのだ?」
「――は?」
次の瞬間、リアンナの顔から、ありとあらゆる表情が抜け落ちました。
「……う、嘘…………」
その唇が、ぽつりとそう零します。
「我らの鼻は嘘をつかぬ」
大公は厳かに言いました。
「我ら獣人族の目は、もともとあまり良くなくてな。これまでリアンナ王女のにおいは薔薇と麝香の香水で紛れておった。兵士に殺害された侍女が王女と間違われたのもそのせいよ」
「あの香水はお母様が……私が国を出る時に……」
リアンナが譫言のようにつぶやきます。
「毎日必ずつけるようにと……。決して切らしてはならないと……」
「なるほど。娘はともかく、母親のほうは確信犯であったか」
そう言うと、大公はグラム様とわたくしを等分に見やりました。
「ウォルムが廃太子された今、次の王太子はグラム、おまえとなる。そして、此度の和平の条件は、我が国の王太子と人族の王女を娶せること――」
「叔父上! ということは……」
グラム様が、ぱっと目を輝かせました。
大公が肩をすくめます。
「どのみち、おまえはその番を離せまい?」
「決して。我が命の続くかぎり」
そう言うと、グラム様はわたくしをひしと抱きしめました。
その尻尾がくるりとわたくしのウエストに巻きつきます。
「で――でも、わたくしは偽の番では」
「偽なものか! おまえは最初から俺の真の番だ!」
「え」
わたくしは混乱いたしました。
ではなぜ、グラム様はあの晩、番のふりをしようなどとおっしゃったのでしょう。
わたくしがそう訊ねると、グラム様は顔を赤らめ、「ん゛ん゛っ」と咳払いされました。
「それは、その。人族には番がわからぬと聞いたから」
「?」
「人族は、心から欲しいと思った相手と番うのだろう? であれば、俺はおまえに心から欲しいと思ってほしかったのだ。番という形で強いるのではなく」
ぶふうっ! と大公が盛大に鼻を鳴らしました。
「はっ。それほどあからさまに求愛行動をしておきながら、戯けたことを」
「……?」
首を傾げるわたくしに、大公はやれやれと肩をすくめます。
「なるほど、人族は尻尾も臭腺も持たぬからな。グラムは頻繁におまえに尻尾を巻きつけておったろう。それは己がにおいをつけて番の所有権を主張すると共に、最も強い求愛行動でもあるのだ」
それゆえ、獣人族は決してみだりに相手の尻尾に触れないし、触れれば処罰されるのだと説明されて、わたくしは真っ赤になりました。
「……ふざけないで」
ふいに低い声が聞こえました。
振り向けば、リアンナがこちらを睨みつけて立っています。
湯浴みの後、化粧も施さず、簡素な衣を着ただけのその姿は、どこか見知らぬ人のようで――けれど、憎しみに満ちたその瞳だけは、長年見慣れた「姉」のものでございました。
「王女? 王太子妃? その女が?」
リアンナの唇が、ひきつったように吊り上がります。
「そうよね。そうだったわね。おまえの母親は、お母様からお父様を盗んだ。そして今度は、おまえが私から盗むのだわ。王女の身分も、私が生きるはずだった幸せな人生も何もかも!」
金切り声が大広間に響き渡りました。
「盗人の娘が! 婢女の分際で! 返しなさい、それは全部私のものよ!」
次の瞬間、リアンナがわたくしに掴みかかってきました。
長く伸ばした爪が、わたくしの顔めがけて振り下ろされます。
けれど、その爪がわたくしに届くことはありませんでした。
「離しなさい! このっ! 離せったら!」
いつの間に現れたのか、パンテラ様が、リアンナを背後からがっちりと羽交い絞めにしていたのです。
「どうしてよっ! どうしてその女ばっかりっ! 私は何も知らなかった! ウォルム様の妃として、愛されて幸せになるはずだったのにっ!」
泡を吹いて叫ぶリアンナの瞳から、ぼろぼろと涙が零れ落ちます。
「あいわかった」
その時、ライノ大公がため息をついて言いました。
「確かに、おまえの証言がなければ、エイル王女の無実は証明されなんだことだろう。よって以下の褒賞をつかわす。ウォルムの妻たるおまえには、夫と共に離宮で暮らすことを許そう。そして、向こう三ヶ月間、ウォルムには惑わしの媚薬を与えることとする」
大公のこの言葉を最後に、リアンナは猿轡をかまされ、連れ出されていきました。
今後何年か、閉ざされた離宮の中で、ウォルム殿下はリアンナを番と信じて慈しむのでしょう。
優しく名を呼び、その手を握り、片時も離そうとしないでしょう。
かつてリアンナが望んだとおりに。
けれど、その優しさを受け取るたびに、彼女は思い知るのです。
これらはすべて偽物だ、と。
七日間の行軍中、グラム様に見つめられ、優しい言葉をかけられるたびに。
これはしょせん「ふり」なのだと。
自分は偽の番に過ぎないのだと。
繰り返し胸を刺した痛みを、わたくしは今も忘れることができません。
あの痛みを、リアンナはこれから毎日のように味わうことになるのです。
そして、三ヶ月が過ぎた後。
乳母がひと月与え続けた薬は、一年以上もグラム様を縛ったといいます。
三ヶ月なら三年ほどは続くでしょうか。――でも、その後は。
切れた時に何が起きるかは、リアンナも知っているはずです。
ぞくりと身震いしたわたくしの頬を、グラム様がそっと撫でてくださいました。
「おまえが気に病むことはない。これは王の血を引く叔父上が、王の名のもとに下した裁きなのだから」
◇◇◇
ちゅ、という小さな音と共に、首筋に柔らかなものが押し当てられて、わたくしは「ひゃっ!」と叫んで飛び上がりました。
「なぜそんな顔をする?」
グラム様の心配そうなお顔が、わたくしの目の前にありました。
「ち、近いです、グラム様……」
「仕方あるまい。こうでもしないと、昼の間はおまえの顔がよく見えんのだ」
「……昼の間は?」
「獣人族のほとんどは夜目のほうが利きますから」
そう言ったのはパンテラ様です。
すい、とわたくしたちの間に割り込んだパンテラ様は、両手を腰に当て、咎めるようにグラム様を見上げました。
「いくら番でも、束縛男は嫌われますよ、閣下」
「そ、束縛男……!」
がーん、と頭を殴られでもしたかのように、グラム様が涙目になられます。
「あきれますね。ご自覚なしですか。あなた様の副官として、何があっても番を守れ、と命じられたから番様のお側についたはいいものの、私はずっとあなた様の執着ぶりにドン引きでしたよ。よくまあ、番様に愛想を尽かされずに済んだものです」
「そ、そうなのか!?」
グラム様のお顔から、さあっと血の気が引きました。
「エイル。俺はしつこかったか? 俺のことが嫌いになったか!?」
「いいえ。いいえ!」
わたくしは笑って首を横に振りました。
「グラム様。あなた様が大好きです。ずっとお慕いしておりました」
多分、初めて会ったあの夜から。
泥と草に汚れた沓を目にしたあの時から。
わたくしは、あなたに恋していたのです。
次の瞬間、グラム様はきつく、きつくわたくしを抱きすくめ、侍女たちとパンテラ様は「ああー、せっかくのドレスが……」と悲鳴を上げられたのでした。
〈Fin〉




