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【完結】番を誤認させる薬で国一番の将軍を籠絡しろ、と命じられましたが、そもそも真の番は私でした  作者: 円夢


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2.

 国境の野を発って何日かすると、街道沿いには次第に街や村が増えてきました。

 途中、ある程度の規模の街に立ち寄った時には、ウォルム殿下を始め軍の主だった方々は皆街中(まちなか)で宿を取りますが、グラム様ご自身と麾下の兵士たちは、街の外で野営するのが常でした。


 その日、わたくしたちはこれまでになく大きな城塞都市に着きました。

 何でも、このあたりは獣人族の中でも特に大きな力を持つ貴族が治める地方であり、この都市はその領都なのだそうです。


「ライノ大公には、俺も大層世話になった。ここへ来たからには、挨拶に伺わねばならないが……」


 グラム様は渋いお顔でわたくしを見下ろされました。


「大公ご自身はともかく、あの屋敷には人族の者を快く思わぬ者も多い。おまえを連れていけば、余計なことを言い出す者も出るだろう」

「では、わたくしはここで留守居をしておりますわ」


 わたくしは偽の番です。グラム様についていって、万一そのことがばれでもしたら大変なことになるでしょう。


「しかしな……」


 なおも難しい顔で考え込むグラム様に、わたくしは明るい声で言いました。


「ご心配には及びません。パンテラ様もついていてくださることですし」


 そのパンテラ様は、いつものように天幕の入口付近に立ったまま、わたくしたちをじっと見ていらっしゃいました。


「……それはそうだが」


 見れば、グラム様の尻尾はしゅんとうなだれるように下がっています。

 そうこうするうち、兵士の方がグラム様を呼びにやってきました。


「ライノ大公家からの使者の方がお待ちです」


 グラム様は大きくひとつため息をつくと、「今行く」と外に向かって返事をされました。


「仕方がない。なるべく早く戻るゆえ、ここで待っていてくれるか」

「はい」


 もとより、わたくしにはここ以外に行くあてなどございません。

 グラム様は、一歩、大股でわたくしに近づくと、その尻尾をわたくしのウエストのあたりにくるりと巻きつけました。


「すぐ戻る」

「お待ちしております」

「ではな」


 なおも名残惜しそうにわたくしの頬をひと撫でしてから、グラム様は天幕を出ていかれたのでございます。


 姉が天幕にやってきたのは、グラム様の気配が完全に消えた直後のことでした。

 突然、天幕の外が騒がしくなったかと思うと、入口の垂れ幕がばさりと乱暴に捲り上げられ、リアンナが――姉が、断りもなく中に踏み込んできたのでございます。

 途端に、むせかえるような甘い香りが天幕中に満ちました。故国にいた頃から姉が好んで使っている、薔薇と麝香の香水です。

 咄嗟にパンテラ様が剣の柄に手をかけましたが、相手がウォルム殿下の妃であることに気づいたのでしょう。ただ鼻に皺を寄せ、その黒く長い尻尾だけを激しく左右に振りたてました。


「久しぶりね、エイル。どう? 将軍様には可愛がってもらっているかしら」


 馬鹿にしたように言いながら、姉は無遠慮な眼差しでわたくしを眺め回しました。

 この頃には、わたくしは簡素ながら仕立ての良い衣服――透けていないもの――を与えられ、三度の食事と行き届いた手入れのおかげで、故国(くに)にいた頃とは比較にならないほど血色も良く、髪や肌の色艶も増しておりました。

 一方、姉のほうはといえば、相変わらず美しく装ってはいるものの、良く見ると肌は荒れ、結い上げた髪もところどころほつれています。

 何より、濃い化粧で隠してはいるものの、頬骨の上にうっすらと見えるのは、あれは痣ではないでしょうか。


「ふん。たかが婢女の分際で、ずいぶんといい暮らしをしているようじゃないの」


 姉は面白くなさそうに言うと、わたくしの手首をぐいと掴んで引っ張りました。


「まあいいわ。あんたはこれから、また私の侍女として働くのよ」

「えっ」

「妃殿下!」


 驚くわたくしとパンテラ様に構わず、姉はわたくしを引き摺るように、さっさと天幕を出ていきます。


「お待ちください、妃殿下! 閣下の番様を勝手に連れ出すなど」

「お黙り! 私はウォルム殿下の妃なのよ。一介の兵士風情が、その私に逆らう気?」


 そう言われてしまえば、パンテラ様もそれ以上は逆らえず、無言でどこかに立ち去ってしまわれました。


「ほら、何をぐずぐずしているの。さっさと歩きなさい!」


 姉に耳許で怒鳴られた途端、わたくしは再び故国にいた頃の無力なエイルに戻っておりました。

 隙間風の入る物置部屋で寝起きし、朝から晩まで誰彼なしにこき使われ、姉の気が向いた時に好き放題にいたぶられる惨めな存在。それがわたくしでございました。


『おまえの薄汚い母親が、お母様からお父様を盗んだの。これはその罰なのよ』


 というのが姉の口癖でした。


『おまえは、生涯かけてお母様と私に母親の罪を償うのよ!』


 わたくしたちは、いつの間にか野営地を出て城壁をくぐり、街中を歩いておりました。

 故国の王都よりもずいぶんと栄えて見えるその街を行き交う人影は、当然ながら獣人族のほうが圧倒的に多く、たまに見かける人族は皆、他国から来た商人か、さもなくば首輪をつけた奴隷ばかりです。


 そんな中、姉はいつの間に取り出したのか、厚手のショールを頭からすっぽりと被り、わたくしの手首をしっかりと握ったまま、街路の端を足早に歩いていきました。

 道行く獣人の何人かは、そんなわたくしたちを訝しげに見ていましたが、姉の服装から身分ある者だと判断したのでしょう。特に何も言われないまま、やがて立派な店構えの大きな宿に着いたのでございます。


「止まれ。賤しい人族め」


 入口の脇に立つ二人の兵士が、持っていた長槍をさっと交差させて、わたくしたちの行く手を遮りました。

 見れば彼らの背後には、赤地に金で虎を描いた紋章旗――ウォルム殿下の旗印――が掲げられています。

 おそらくここが、ウォルム殿下が逗留されている宿なのでしょう。


「婢女の分際で表玄関から入ろうなどと。とっとと裏口へ回らんか、この……」


 言いかけた兵士の片方が、ふいに眉を顰め、顔を上げて空気の匂いを嗅ぐような素振りを見せました。

 途端にその顔色が変わります。


「こ、これは! 大変失礼いたしました。どうぞお通りくださいませ!」


 おそらく、兵士たちにはショールで顔を隠した姉が誰なのか、すぐにはわからなかったのでしょう。

 がらん、と槍を放り出し、地面に平伏した兵士たちの間を、姉はすたすたと歩いていきます。

 その時、わたくしの手首を掴む姉の手にギリリと力が入り、長く伸ばしたその爪が、わたくしの肌に深く食い込みました。


 宿の廊下をいくつも曲がり、ようやく辿りついた部屋の中はひどい有様でございました。

 開けっ放しの衣装箱やトランクから、はみ出した衣装や化粧道具があちこちに散らばり、部屋の奥の小卓には、虫の浮いたスープが入った椀と、黴の生えたパンが載っています。


「さっさとここを片づけなさい。それが済んだら湯浴みをするから、湯を持ってくるのよ。それと厨房に行って、食事を作り直すように言いなさい」

「…………」


 わたくしは反射的に床に膝をつき、散らばった服を拾って畳み始めました。

 そうしながらよく見ると、服はあちこち切り刻まれ、縫いつけてあったはずの宝石がちぎりとられているのがわかりました。

 化粧道具の鏡は割られ、紅や白粉(おしろい)の容器には砂が混ざりこんでいます。


「ノンナはどこへ行ったのですか」


 わたくしは小声で訊いてみました。

 ノンナは姉の腹心ともいえる侍女でございます。故国にいた頃は、よく姉と一緒になってわたくしを虐めていたものでした。

 彼女も姉の輿入れに付き従い、共に獣人国へ来たはずですが……。


 まるで、わたくしのその声が聞こえたかのように、その時部屋の扉が乱暴に開いて、ノンナがずかずかと入ってきました。


「ちょっとぉ。あんた、またあたしの髪飾りを……あら」


 ノンナはわたくしの姿を見るやぽかんと口を開け、次いでげらげらと笑いだしました。


「やぁだ。婢女が婢女を使うだなんて。ていうか、この子、今はあの将軍様の番でしょ? こんな真似して、あんた、後で殿下に何されても知らないわよ」


 故国にいた頃の姉だったら、ノンナがこんな口をきこうものなら、即座に兵士を呼びつけて折檻させたことでしょう。

 けれど今、姉は燃えるような瞳でノンナを睨みつけてはいるものの、両手の拳をきつく握りしめて立ったまま、何も言い返そうとはしませんでした。


 というか、ノンナは一体どうしてしまったのでしょう?

 かつては姉を女王のように崇め、何でもはいはいと言うことを聞いていたというのに。

 見れば、ノンナは姉のドレスをまとい、姉と同じ薔薇と麝香の匂いをぷんぷんさせています。

 わたくしが不思議に思っていると、


「おーい、ノンナぁ。俺の愛しいノンナちゃあん」


 だみ声と共に、開きっぱなしの扉から、大柄な兵士がのっそりと入ってきました。

 黄色味がかった緑色の肌に、頭の左右に丸く飛び出した両眼。顔の横幅いっぱいに広がった口。カエル族の獣人です。


「ああ、ここにいたのかぁ。探したぞぉ」


 言いながら、カエル男は水かきのついた両手で背後からノンナを抱きしめました。


「ごめんなさぁい。ちょっと、この女に盗まれた髪飾りを探していたものだからぁ」

「ああん?」


 カエル男は身体ごと姉に向き直りました。

 その口から、ひゅ、と何かが飛び出したかと思うと、姉が悲鳴を上げて頭を押さえます。ぶちぶちと髪の毛が切れる音と共に、結い上げた姉の髪がばさりと解けました。


「これかぁ? ノンナの髪飾り」


 カエル男はそう言うと、姉の髪の毛が何本も巻きついた髪飾りをノンナに差し出しました。


「そう、それそれ。ありがとうねえ、ジャバぁ」

「いいってことよぉ。ノンナは俺の大事な番だもんよぉ」

「うふふ」


 ノンナは満足そうに笑いながら、床に蹲る姉を見下ろしました。


「妃殿下、妃殿下って、ばっかみたい。番のいない人族なんて、この国ではゴミクズ以下なのよぉ。だからねぇ……」


 ノンナはちょいちょい、と人差し指を曲げてわたくしを呼び寄せると、耳許でこっそり囁きました。


「あんたには感謝してるのよぉ。あんたがあの酒を零してくれたおかげで、あたしはいい暮らしができるんだからぁ」


 その言葉の意味がわかった途端、わたくしの顔からさっと血の気が引きました。

 ノンナは、わたくしが宴で媚薬の酒を零し、グラム様に飲ませなかったことを知っているのです!


 ノンナはそんなわたくしを見て、にちゃあと意味ありげに笑いました。


「安心していいわよぉ。あたし、誰にも言わないからぁ。ただ、そうねぇ……これからは、あんたのとこにも時々遊びに行くからぁ、その時はジャバともどもよろしくねぇ」

「おう、よろしくなぁ」


 ジャバはぎょろりとした目でわたくしを見下ろすと、長い舌でべろりと口の周りを舐めました。


「あの晩の酒、うまかったなぁ。またご馳走してくれよぉ」

「ちょっと、ジャバぁ」


 ノンナが、ジャバの腕をきゅっとつねりました。


◇◇◇


 ――それから。

 気がつくとわたくしは一人、夕暮れの領都をふらふらと歩いておりました。


 頭の中は、ただひたすら(どうしよう)という思いでいっぱいです。

 これから一体どうすればいいのか、そもそも何を、誰を一番恐れるべきなのか……。


(グラム様)


 ゆらゆらと満足げに揺れていた尻尾。頬を撫でた、乾いてざらざらした掌。「すぐ戻る」という低いお声。


(知られてしまった)

(ジャバが、宰相に話したら)

(殿下に知られたら)

(わたくしが、偽物だと)


 考えようとしても、とりとめのない思いが断片的に浮かんでくるばかり。

 ふらり、とよろけた足がもつれ、わたくしは誰かの身体にまともにぶつかりました。


「も、申し訳……」


 詫びようと顔を上げかけたわたくしの肩に、ひやりとした手がかかりました。


「――おや。奇遇ですな、番殿」


 はっとしたわたくしの目の前に、ケスス宰相の鱗の浮いた顔がありました。


「……ふうむ」


 宰相は何かを確かめようとするかのように、じろじろとわたくしの全身を眺め回しました。


「番殿が護衛も連れず、このような街中に一人きり。さしづめ媚薬の効果が切れて逃げてきた、というところか。まあ、盃に僅か二杯では、これまでもっただけでも重畳至極」

「…………」


 わたくしは黙り込みました。

 どうやら、あの媚薬には期限があったようです。


「それにしても、よくあの男の手から無傷で逃げてきたものだ。てっきり、またぞろ怒りに任せて八つ裂きにでもされると思うたが」


 宰相はくくく、と愉快そうに笑いました。


「まぁいい。奴は今頃ライノ大公の所におるのだろう? 媚薬のせいで四六時中昂らされた気持ちは、薬が切れれば怒りに変じる。大公の御前で取り返しのつかぬ失態でも犯してくれれば、それはそれで好都合というものよ」

「……っ!」


 まさかあの媚薬にそんな作用があったとは。

 つくづくグラム様に飲ませなくて良かったと安心すると同時に、わたくしはあることに思い至りました。


(ということは、わたくしはもう、あの方の番のふりをする必要はないのだわ……)


 ずきり、と胸が痛みます。

 間近でお顔を見ることも、あの低いお声で話しかけられることも、もうなくなることでしょう。


 ふいにぞろりとした感触にうなじを撫でられ、わたくしの全身が総毛立ちました。

 見れば、ケスス宰相がわたくしの首を捕まえ、ガラスの膜で覆われたような瞳で舐めるようにわたくしを眺め回しています。三日月のように細く裂けた黒い瞳孔には何の表情も浮かんでいませんでしたが、薄い唇からは二股に分かれた細い舌がひっきりなしにちろちろと出入りしていました。


「ここまで来れば、祖国に戻ることもかなうまい。儂のもとへ来い、娘。飽きるまでは可愛がってやろうほどに」


 いつの間にか、わたくしたちの周りには、赤地に金の虎の記章をつけた騎士たちが立っておりました。

 獣人国の王宮騎士――おそらく宰相の護衛でしょう。

 わたくしはなすすべもなく、彼らに引き立てられるように、先ほどの宿へと戻らされたのでございます。


 ところが。


 先ほどと違い、宿の前には大勢の野次馬が集っておりました。


「うわっ! 何だ、この臭い」

「敵襲か?」

「いや、それにしては様子がおかしい」


 人族のわたくしよりもはるかに鼻が利く獣人族の兵士たちが、不審そうに言い合っています。


「一体何事だ、誰ぞ聞いてまいれ!」

「はっ!」


 宰相の命令に、一人の騎士が宿の中に駆け込んでいきます。

 やがて戻ってきた騎士は、宰相の前に膝をつきました。


「申し上げます! 先ほど宿の内部で我が軍の兵士が突如暴れ出し、リアンナ妃を殺害したそうにございます!」

「何と」


 これにはさすがの宰相も驚いた顔をしましたが、わたくしの驚きはそれ以上でした。

 殺害された? あの姉が?

 脳裏に、ぎょろりとした両眼と、口の周りをべろりと舐めた長い舌が浮かびます。


(ジャバだわ)


『あんたがあの酒を零してくれたおかげで』

『あの晩の酒、うまかったなぁ』


 宴のあったあの晩、零れた酒を口にしたのがジャバならば、薬が切れた今、怒りにまかせて姉を殺したとしても頷けます。

 とはいえ……。


(何て……あっけない)


 わたくしの中で、姉は常に絶対的な強者でした。

 父が亡くなってからというもの、長年わたくしを苛み、いたぶり続けた姉が、こうもあっさりと死んでしまうとは。

 突然のことに呆然とするわたくしの耳に、「チッ」という宰相の舌打ちが聞こえました。


「まずいな。両国の和平の印に嫁いできた妃が、こうも早く死んでしまうとは」


 腹立たしげにつぶやいた宰相の目が、きろりとわたくしに向けられます。

 その唇が、にんまりと笑みを形作った途端、わたくしは本能的に身震いいたしました。


「――いや、問題ない。殺されたのはリアンナ妃の侍女である。な(・)ぜ(・)な(・)ら(・)、(・)リ(・)ア(・)ン(・)ナ(・)妃(・)は(・)こ(・)こ(・)に(・)お(・)い(・)で(・)に(・)な(・)る(・)か(・)ら(・)だ(・)!」


◇◇◇


 その後、わたくしは有無を言わさず宿の中へ連れ込まれましたが、案内されたのは先ほど姉がいた部屋ではなく、豪華な装飾を施された続き部屋でした。

 獣人族の侍女たちが何人も恭しくわたくしに傅き、花びらを浮かべた浴槽で湯浴みさせるやら、髪や肌に香油を摺りこむやら、下にも置かぬ扱いです。

 そうしながら、何人かの侍女たちは涙ぐんでおりました。


「何ておいたわしい」

「いくらお国のためとはいえ、番同士を引き裂くなどと」

「将軍様のお嘆きはいかばかりでございましょう」


 つまり、この侍女たちは知っているのです。

 わたくしが死んだ姉の身代わりとなって、王太子妃になることを。

 その上で、グラム様がせっかく得た番を奪われることに、心の底から同情しているようでした。


「例の兵士は、暴れ回って手がつけられず、その場で射殺されたそうよ」

「一緒にいたはずの人族の侍女は、逃げて行方がわからないとか」

「見つかれば口封じに殺されるもの。当然よね」


 なるほど、ノンナはうまいこと逃げられたようです。

 とはいえ、番を失った今、この国で彼女が生き延びるのは難しいかもしれません。


 湯浴みが終わり、わたくしの濡れた身体や髪を侍女たちが拭いていた時でした。

 ノックもなしに部屋の扉が開かれ、ウォルム殿下がずかずかと踏み込んできたのでございます。


「きゃあっ」

「殿下!」

「お妃さまはまだお召し替えの最中で……っ!」


 侍女たちが口々に言いながら、人垣を作ってわたくしを背中に隠してくれます。わたくしは大慌てで近くに用意されていたガウンを、まだ濡れた身体に纏いました。


「どけ」


 ウォルム殿下は侍女たちを容赦なく押しのけ、わたくしの前に立つとすんすんと鼻を鳴らしました。


「ふん。とりあえず奴の臭いは洗い流せたようだな……ん?」


 殿下は訝しげに眉を寄せたかと思うと、次の瞬間、弾けるように笑いだしました。


「何と! これは傑作だ。グラムの奴、この女とまだ番っていなかったのか!」


 わたくしは真っ赤になりました。

 当然です。グラム様とわたくしとは、あくまで番のふりをしていただけなのですから。


「くくくっ。奴め、この女がよほど大事だったとみえる。ならば――」


 殿下の手が伸びて、わたくしの顎を掴みました。

 無理やり上向かされた視野いっぱいに、金色の髪と、愉悦に細められた紅い瞳が迫ります。


「奴が後生大事に取っておいたものを、俺が先にもらってやるとしよう」


 侍女たちが悲鳴を上げ、わたくしは身を捩りましたが、顎を掴む指はびくともしません。

 ガウンの襟元に、もう一方の手がかかりました。

 その時――。


 ばん! と扉が壁に叩きつけられる音がいたしました。


「兄上」


 静かな、けれど部屋中の空気を凍りつかせるような低い声。

 殿下の手首を、傷痕の走る大きな手が、背後から掴んでおりました。


「その手を、離していただこう」

「これはまた異なことを」


 殿下は笑いながら言いました。


「妃と戯れて何が悪い」

「俺の番だ」

「偽物のな」


 殿下の言葉に、わたくしはもとより、部屋中の侍女たちが息を呑みます。


「そうとも、偽物だ。あの宴の晩、この娘はおまえに惑わしの媚薬を盛ったのだ!」

「何ということ」

「恐ろしい」

「重罪ですわ、番を謀るなど」


 殿下にも、騒めく侍女たちにも構わず、グラム様は殿下とわたくしの間に、その大きな身体をすいと割り込ませました。

 目の前いっぱいに広がる鎧の背中。ゆらりと揺れる縞模様の尻尾が、ほんの一瞬、わたくしの腰に巻きついてから離れます。


 深い森のような香りが、ふわりとわたくしを包み込みました。


「可哀想に。弟よ、おまえのその気持ちは薬が見せる幻覚に過ぎぬ。誰ぞ、衛兵を呼んでまいれ。薬が切れて暴れ出さぬうちに閉じ込めねば、またぞろあの時のような悲劇が起きるぞ!」


 侍女の誰かでしょう、慌ただしい足音が入口に向かいかけた時です。

 ずしん、という地響きが部屋を揺らしました。

 ずしん、ずしん。

 それは次第にこちらへ近づいてきたかと思うと、やがて入口の向こうで轟くような声が言いました。


「まったく、この宿はどこもかしこも小さくてかなわん。出てこい、悪ガキども。さもなくば壁を打ち毀すことになるぞ」


 ウォルム殿下がチッ、と舌打ちするのが聞こえました。


「ライノ大公か。面倒な」


 同時にグラム様の腕が伸びてきて、わたくしをさっと抱き上げます。

 そうして部屋の外に出ると、そこには一人の巨躯の獣人が腕を組み、仁王立ちして待ち構えていたのでした。

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