第37話 『溶けない石─広場の熱狂─』
1592年1月下旬 アムステルダム証券取引所前広場
朝から降り積もった霜が、石畳の上でまだ白く残っていた。
だがその冷気を吹き飛ばすように、広場の中央には人だかりができている。
「本当にやるのか、蒸気機関の商会は」
「ああ、殿下自らお出ましらしいぞ」
「うちの女房は嫁入り道具を売って株を買っちまった……今日で全部わかる」
集まった群衆の多くは株を買った小口の投資家たちだった。
パン屋の主人や仕立て屋の娘、老いた船乗り……。
誰もが不安と期待の入り混じった顔で、広場の中心に組み上げられた奇妙な装置を見つめている。それは、アカデミーの若手職人たちが徹夜で組み上げた「即席の火床」だった。
ふいごに繋がれた送風管、石炭を積んだ焚口。
そして、その内壁を覆っているのは、リエージュから早馬より先に届いた白い粘土——ヨハンが精製したカオリナイトである。
「殿下、準備が整いました」
アカデミーの若手職人頭が緊張した面持ちで報告する。彼はハインリヒの弟子の一人で、まだ二十歳そこそこだが、この数日徹夜で火床の組み上げを指揮していた。
フレデリックは群衆の前に進み出る。傍らにはシャルロットが落ち着いた表情で控えていた。
「市長、商会員の皆さん、そして株主の皆さん」
フレデリックの声は決して大きくはなかったが、広場の喧騒がすっと静まった。子供の声でありながら、そこには奇妙な説得力がある。そりゃそうだ、中身は50歳の外交官なのだ。
「今日は、皆さんの不安に応えるため、実演をお見せします。難しい理屈は結構。目で見て、耳で聞いて、確かめてください」
フレデリックが手を挙げると、若手職人頭が焚口に石炭を投げ込み、ふいごを踏み始めた。ごうごうと風を送る音とともに、炎の色が赤から橙、そして白へと変わっていく。
「見ての通り、この火床の内側は、リエージュで見つかった特別な粘土——我々が『白い石』と呼んでいるもので覆われています。普通のレンガなら、この熱には耐えられません」
そう言ってフレデリックは、証明のためにあらかじめ用意された普通の赤レンガの欠片を、火床の縁に置かせる。
炎が最高潮に達したとき、その欠片は表面からじわりと歪み、やがて崩れるように溶け落ちた。
群衆から小さなどよめきが起こる。
「ご覧の通り、この炎は普通の石を溶かす熱です。ですが……」
フレデリックが視線で促すと、職人頭が手を止め、火床の中から真っ赤に灼けた内壁の一部——白い粘土で作られたタイルを、長い鉄鋏で慎重に引き出した。灼熱で輝くそれは、まだ形を保ったまま、歪みひとつなく鋏の先で揺れている。
「……歪んでない」
「本当に、溶けてないぞ……!」
群衆のざわめきが、疑念から驚嘆へと変わっていく。
老船乗りが目を細めて身を乗り出し、仕立て屋の娘は口元を押さえた。
「この石が意味することを、商人らしく申し上げましょう」
シャルロットが一歩前に出て、澄んだ声で続ける。
「この石があれば、鉄を溶かすほどの熱にも耐える炉——『高炉』が作れます。高炉があれば、わがネーデルラントは鉄を輸入する必要がなくなる。鉄がなければ、蒸気機関もできません。皆さんが買った株は絵空事ではなく、この一片の石として、今、目の前にあるのです」
シャルロットは懐から取り出した小さな布袋を掲げた。中には、リエージュから運ばれてきた精製済みの粘土の欠片が入っている。
「ご希望の方には、この試験片の一部を、商会にて実際にご覧いただけるよう手配しています。疑うより、確かめてください。それが、我々の流儀です」
群衆の中から、パン屋の主人がおずおずと声を上げた。
「殿下……いつになれば、鉄ができるんですかい」
「リエージュでは、既に高炉の建設が始まっています。順調にいけば、今年の内に最初の鉄が出るでしょう。焦らせるつもりはありませんが、遅らせるつもりもありません」
フレデリックの答えは簡潔だった。誇張も言い訳もない、ただの事実の報告。それがかえって、群衆の不安を静める効果を持っていた。
事実、フレデリックの発言に嘘はなかった。
当初の見積もりでは——。
「耐火レンガが安定して作れるまでに、最低でも1年はかかる。そこからコークス炉、高炉、リンを抜くための反射炉を建てて、最初の『錬鉄』が手に入るのが、おそらく2年後」
これは鉄ではあるが、『錬鉄』であり、その前段階の『銑鉄』も鉄である。
そして耐火レンガの件は、僥幸的に良質な鉱床が見つかって現在に至るが、埋蔵量がどれだけなのかは見当もつかない。が、試験的な1基の高炉を稼働させて鉄は生産可能だ(安定的ではないが)。
質を問わなければ複数の鉱床が見つかっており、レンガを壊してまた入れてを繰り返す過程は継続的に行う。
これがいわゆる見積もりにあったものだ。
——だから、嘘、ではない。
広場の隅で腕を組んで見ていたホーフト市長は、隣に立つ商会の番頭に小声でつぶやいた。
「……大したものだ。あの年で、群衆の扱い方を知っている」
「殿下というより、シャルロット様が主導しているようにも見えますが」
「どちらでもいい。株価が持ち直せば、私の懐も痛まん」
ホーフトは苦笑するが、その目の先ほどまでの猜疑の色はほとんど消えている。
実演が終わると、広場に集まっていた者たちは三々五々、興奮した様子で散っていった。中にはそのまま取引所へ駆け込み、株を買い増そうとする者もいたほどである。
フレデリックもシャルロットも、見た目は10歳にも満たない子供だが、中身は50歳なのだ。シャルロットはそれより上である。それにこのころには、転生者たちの詳細は知らなくても、神童や天才児としてくくられるようになっていたのだ。
「……うまくいきましたね、フレデリック様」
人が減った広場で、シャルロットが小さく息をついた。子供らしい仕草の仮面が外れ、転生者としての素の表情がのぞく。
「あの一片の『溶けない石』が、20万ギルダーの信用を支えることになるとはな。正直、少し出来すぎだと思うが」
フレデリックは灼熱の名残がまだ残る火床を振り返りながら答えた。
「大げさな装置より、目の前で溶けない石の方が、よほど雄弁だ。……次は、あの石を積んで、本物の炉を作る番だな」
「リエージュのヨハンたちも、今頃は最初の高炉の骨組みに取りかかっているでしょう。石炭、耐火粘土、そして資金——役者は揃いました」
シャルロットの言葉にフレデリックはうなずいた。
冷たい風が広場を吹き抜けたが、2人の視線の先には、確かな熱を持った未来があった。
次回予告 第39話 『鉄と塩、2つの現場』
アムステルダム広場での実演は、群衆の疑念を驚嘆に変え、株価は持ち直した。
フレデリックとシャルロットは、たった一片の「溶けない石」が20万ギルダーの信用を支えた手応えを噛みしめながらも、次なる課題——本物の高炉の建設に向き合う。
一方リエージュで本格着工した高炉建設は、順風満帆とはいかなかった。
良質な耐火粘土の埋蔵量が思いのほか少ないことが判明し、質を問わない鉱床を用いる漸進的なレンガ改良ルートへの前倒しが急務となる。未知の規模の建造物に挑む職人たちの技術的な壁も次々と立ちはだかり、ディルクの現場采配が試されるのだ。
しかし、アムステルダムには明るい報せが届いていた。
ゾイデル海沿岸に拡張した流下式塩田が本格稼働し、当初の予想を大きく超える収益を上げ始めたのだ。
鉄の現場が試練にあえぐ一方、塩がもたらした思わぬ収益が、不安がる投資家をつなぎ止める切り札となる。




