第36話 『化学の審判』
1592年1月中旬、南ネーデルラント リエージュ近郊
急造された先遣隊の拠点は、凍てつく冬の空気に包まれていた。だがその中心に位置する「分析小屋」の中だけは、石炭ストーブの熱気と独特の化学薬品の臭いが充満し、異様な熱気に満ちている。
「ヨハン、準備は整ったぞ。お望み通りの火床だ」
現場監督ディルクの声と共に、職人たちが運び込んだのは、石炭の炎を1点に集めるように特別に設計された小型の試験用窯だった。
これは鉄を溶かすためのものではない。採取した粘土が、果たしてどこまでの熱に耐えうるか――その「限界」を測定するための窯である。
ヨハンは不規則な睡眠と絶え間ない作業のせいで深い隈を浮かべていたが、その瞳からは転生者と科学者としての鋭い知性が感じられた。
「ありがとうございますディルクさん。これでようやく、僕たちの試作品が熱に耐えられるか分かります」
ヨハンの前には、シャルルが見つけ出したあの白い粘土が、いくつもの工程を経て精製され、静かに並んでいた。
ただの泥の山ではない。ヨハンの指示で正確な10センチメートル角のタイル状に成形された、数日かけて丁寧に陰干しされた試験体だ。
あるものは純粋なカオリナイトのみ、あるものは強度を高めるために微細な砂を数パーセント単位で配合を変えて混ぜ込んである。
表面にはウィレブロルド・スネルが製作した精密な金属製定規によって、髪の毛ほどの細さの基準線が、正確に「80・0ミリメートル」の間隔で刻まれていた。
ヨハンはまず、粘土から不純物を徹底的に取り除く「水簸」をした。砂や鉄分が混じれば、高熱でレンガが溶け落ちてしまうからだ。農学者シャルルが土の粘りを確認し、数日間の乾燥を経て、試験体は窯へと納められた。
「火入れ開始! コークスを投入しろ!」
石炭より遥かに高温を発生させるコークスによって窯内部は白熱状態に達した。ヨハンは煤を焼き付けた厚手の色ガラスをかざして火色の変化を測定し、鉄の融点である1,200度を超過したと判断した。
「維持だ。火を落とせ」
翌朝、冷えた窯から取り出されたのは、硬く焼き締まった灰色の板だった。定規で測ると、縮みは計算通り。
「……歪みも気泡もありません。合格です」
ディルクが指先で弾くと、高い金属音が響いた。この土が、高熱に耐えうる資格を得た証拠だった。
「よし、調査成功だ! 明日から、本物の高炉の建設を開始するぞ!」
職人たちの歓声がリエージュの丘にこだまする。世界を塗り替える産業革命の足音が、確かな響きとなった瞬間だった。
■1月下旬 アムステルダム 暁の方舟商会事務所
「殿下、シャルロット殿。先遣隊がリエージュに到着して半月。そろそろ証券取引所の界隈が騒がしくなってまいりました。特になけなしの貯金を『蒸気機械』という得体の知れない夢に投じた連中です」
悪気はないのだろうが、得体のしれない、という嫌味にも聞こえるセリフをホーフトが口にした。
1591年の8月に証券取引所で調達した資金を含めて運転資金としてきたが、リエージュに到着したという報告以外は何ら成果もでていないのだ。
「まあ私は腰を据えてやると決めておったし、いざとなれば……」
ホーフトは含み笑いをしながらフレデリックとシャルロットを見る。いざとなればフレデリックが殿下であろうが、正規の手続きをもって回収する、とでも言いたげだ。
シャルロットはニコリと笑って帳簿を閉じ、冷静に答える。
「小口投資家たちですね。この時代の彼らにとっての5ヶ月は、5年にも10年にも感じることでしょう。取引所の酒場では『リエージュで爆発事故があった』とか『資金を持って逃げた』なんて根も葉もない噂が流れていると聞きましたが?」
幼女だが、海千山千の男どもを切り従えて頭取までなった人物だ。
「その通りです。大口の商人たちは私の顔を見て静観しているが、小口の連中は違う。彼らの中には『明日にも金が倍になる』と信じて、日々のパン代を削って株を買った者もいる。このソワソワした空気が『疑念』に変われば、せっかく高騰した株価が一気に暴落しかねません」
下手すれば暴動にもなりかねない、そう言いたげだ。
実際、あり得る。
「投機家たちの性質は、どの時代も変わりませんね……。しかし、彼らのその『欲望』が、我々の製鉄事業に必要な20万ギルダーを押し上げたのも事実です。シャルロット、現在のキャッシュフローと、彼らを黙らせる『材料』は?」
「ちょっと待っていただこう」
シャルロットもフレデリックも落ち着き払っている。ホーフトは妙な違和感を覚えた。
「さっきから聞いていれば、この時代とかどの時代とか、まるでお2人とも今を生きてないような話しぶりですが?」
ホーフトの鋭い指摘に事務所内の空気が一瞬だけ凍りついた。現代的な視点で時代を俯瞰して語る2人の癖が、この16世紀末の老練な商人の嗅覚に触れたのだ。
だが、シャルロットは瞬き1つせず、陽光に透けるほど柔らかな頬を緩めると、いかにも子供らしい小首をかしげる仕草で笑った。
「あら、市長。私たち、少し熱が入りすぎてしまったかしら? フレデリック様や父の手伝いをしているうちに、つい大人を真似して背伸びをした話し方になってしまいますの。ねえ、フレデリック殿下」
シャルロットは無邪気な瞳で、自分と同じくまだ幼いフレデリックを振り返った。
ホーフトは、目の前で「大人の真似事」を演じる子供たちの愛らしい仕草を見る。
フレデリックもまた、子供らしい瑞々しさが残る手で、デスクの端に置かれたリエージュからの最新の書状を丁寧に手に取った。
ふう……。まあいい。儲かればいいだけの話だ。そう考えていたホーフトにフレデリックが語りかける。
「市長。私たちが落ち着き払っているように見えるのは、既に確信を得ているからです。……ちょうど今、リエージュから早馬が着きましたよ。ヨハンからの吉報です」
ホーフトは渡された手紙を読んだが、専門的な内容でさっぱりわからない。
「……耐火粘土の特定と、焼成試験の成功? 殿下、正直に言わせてもらえば、私にはわからない。取引所の広場でソワソワしている小口投資家たちも同じです。彼らが知りたいのは『いつ鉄ができ、いつ蒸気機関ができあがって金になるか』であって、『試験体』ではないのですからな」
読み終えた手紙を丁寧にたたんでフレデリックに返した彼は、淡々と答えた。
フレデリックは瞳を輝かせてホーフトを見据える。
「幸い、実物は書状よりも数日早くこちらへ向かっていました。ヨハンは慎重な男です。自分の発見が正しいか、アカデミーでも追試してほしいと、精製済みの粘土を樽に詰めて一足先に荷馬車で送り出していたのです。それが今朝、アムステルダムの門を通過しました。早馬がそれを追い抜いて今ここに届いた。……それだけのことです」
ホーフトは、フレデリックの淀みない説明に、不審げな眉をさらに寄せた。
「……粘土が届いたとしても、それをどうやって『装置』にするのですかな。ハインリヒもヨハンもリエージュにいるというのに。魔法でも使うわけではありますまい」
「市長、アムステルダムのアカデミーには、ハインリヒたちが育てた若手職人たちがいます。彼らに指示を出し、ヨハンの粘土を内側に塗り込め、ふいごのノズルを保護した『即席の火床』を組み上げさせます。装置自体が熱に耐えて溶けないこと。それこそが、リエージュの粘土の性能証明となるでしょう」
傍らで聞いていたシャルロットは、ふっくらとした頬を緩め、いかにも子供らしい無邪気な笑みを湛えて付け加えた。
「ふふ、私はただ、彼らがすぐに工作に取りかかれるよう、予算と段取りを整えておいただけですわ。フレデリック殿下の大事な事業ですもの、一刻の無駄も許されませんでしょう?」
シャルロットは小首をかしげ、いかにも『周囲の大人の手伝いをしている賢い少女』を演じて見せる。
「(驚いた。少しばかり変わっているとは思っていたが、これほどとは……)……では残りの手配で必要があれば仰せください。その実演とやら、楽しみにしておきましょう」
次回予告 第37話 『溶けない石 ――広場の熱狂――』
リエージュにてヨハンが耐火粘土の焼成試験に成功。
高熱に耐え抜き、計算通りの収縮率で焼き締まった試験片は、金属のような音を響かせ「合格」を告げた。
一方、株価暴落を懸念するホーフト市長に対し、フレデリックとシャルロットは届いたばかりの粘土を用いた「公開実演」を宣言。二人の早熟な手際に毒気を抜かれた市長は、実演を静観することに決めた。
広場に据えられたのは、1,200度の劫火を噴き出す火床。
疑念に満ちた群衆の目の前で、既存のレンガが溶け落ちる中、ヨハンの「溶けない石」は奇跡を証明できるのか。




