第38話 『鉄と塩、2つの現場』
1592年2月 リエージュ 高炉建設予定地
冷たい雨の中、鉱夫たちは黙々と地面を掘り進めていた。
着工の号令からまだひと月足らず。積み上げられているのは、これから炉の土台となる石材の山と、深く掘り下げられた基礎の穴だけで、炉らしい形はどこにもない。
「ディルクさん、戻りました」
泥だらけの上着姿でシャルルが現場に姿を現した。数日がかりで丘の周辺を歩き回り、新たな粘土の鉱脈がないか探っていたのだ。
現場監督のディルクは、穴の深さを測っていた手を止めて振り返る。
「どうだった、新しい鉱脈は」
「……見つからなかった。周囲の谷筋も、川向こうの斜面も一通り見て回ったが、あの質の白い粘土が出るのは、最初に見つけた場所だけのようだ」
シャルルは疲れを見せないようにはしていたが、その声には疲労と落胆が見え隠れしていた。
そこへ、帳面を抱えた化学者ヨハン・ヴェルデンが駆け寄ってくる。
「シャルルさん、ちょうどよかった。僕の方の計算も出ました」
ヨハンは帳面を開いて示した。数字と等高線の走り書きが、丘の断面を表している。
「掘り進めた穴の深さと広がりから逆算すると、良質な層の埋蔵量は……このペースで掘り進めれば、あと二ヶ月ほどで底をつきます」
そう言ってディルクとシャルルの顔を交互に見て、続ける。
「……三分の一、というところですね」
現場が一瞬シーンとなった。
近くで作業していた職人の何人かが手を止めてこちらを窺っている。
ディルクは二人の報告を聞いてしばらく黙っていたが、やがて顔を上げると、周囲に聞こえるよう声を張った。
「——なら、予定を変える。良質な粘土は本高炉の炉壁だけに使う。それ以外は、質を問わない鉱床でいく」
「使い捨て炉、ですか」
「そうだ。壊して、また入れる。ハインリヒの弟子たちが仕込んでくれた通りのやり方だ。時間はかかるが、鉱床が尽きることはない」
ディルクの声には、迷いがなかった。
職人たちの間に、ほっとしたとも緊張したともつかない空気が広がる。基礎の穴を掘っていた若い鉱夫が、おずおずと手を挙げた。
「監督、質の劣る粘土じゃ、前と同じ厚さの炉壁じゃ持たないかもしれません」
「持たせる」
ディルクは短く答えた。
「厚く積む。回数を増やす。壊れたら、また積む。……それでいい。殿下たちが証券取引所で見せた『溶けない石』は、まだ半分もこの丘から出ていないんだ。ここで足を止めるわけにはいかん」
その一言に、職人たちの表情が変わった。
掘削の音が、また丘に戻ってくる。
ヨハンはディルクの背中を見ながらシャルルに小声で言った。
「……あの人は、こういう時に迷わないな」
「迷っている暇がない、というだけかもしれん」
シャルルはそう言って泥のついた手袋をつけ直し、また丘を登っていった。
■同じころ アムステルダム 暁の方舟商会事務所
窓の外は曇り空だったが、事務所の中はどこか浮き立った空気に満ちていた。
机の上に広げられた帳簿を覗き込みながら、ホーフト市長が満面の笑みを浮かべている。
「殿下、シャルロット殿。ゾイデル海の塩田、聞いて驚きますぞ」
この男の対応は都度違う。
子供だと思って上から目線で喋る(しゃべる)時もあれば、対等なビジネス相手として見るものもある。はたまた、得体の知れぬものだという視線を向ける時もあった。
出資者への説明会以来は、見た目は子供だが、市の繁栄と収益につながればいいということで、まあ対等なビジネス相手と見ている節が多い。
フレデリックとシャルロットは顔を見合わせた。
「いい報せのようですね、市長」
「いいどころではない。当初の見込みの、ざっと2倍だ」
ホーフトは帳簿の数字を指で叩きながら続けた。
「流下式とやらの仕組み、最初は半信半疑だったが、この冬の乾いた風がよく効いたらしい。蒸発が早い早い。塩の出来が例年よりずっといい」
「風向きまで味方したのですね」
シャルロットは帳簿を受け取り、素早く数字を追った。
「……本当ですね。この分なら、リエージュの製鉄事業が足踏みしている間の運転資金を、十分にまかなえます」
「足踏み、とは穏やかではありませんが……」
ホーフトが眉を上げるが、フレデリックは静かに答える。
「良質な粘土の見込みが甘かったようです。今、現場で立て直しを図っています。……ですが、こちらの塩の収益があれば、投資家の皆さんに焦りを見せる必要はなさそうだ」
「なるほど。鉄がだめでも塩がある、というわけですな」
「両方とも、まだ道半ばですよ、市長」
シャルロットがやんわりと釘を刺す。
ホーフトは肩をすくめて笑った。
「殿下たちの『道半ば』は、大抵の商人の『大成功』より景気がいい。まあ、それならそれで結構」
窓の外、灰色の雲の切れ間から、わずかに陽が差し込んだ。
塩の収益という追い風を得て、フレデリックとシャルロットの表情には、確かな余裕が戻っている。
■リエージュ 高炉建設予定地
シャルルたちが新しい鉱脈探しから戻った翌日には、早くも次の使い捨て炉の組み立てが始まっていた。
解体、選別、粘土の練り直し、積み上げ——一連の工程を、ディルクは容赦なく短縮させていく。
「監督、この間隔だと、レンガが十分に乾く前に火を入れることになりませんか」
若い鉱夫の一人が恐る恐る尋ねた。答えたのは、傍らで焼成試験の記録をつけていたヨハンである。
「本来なら、昇り火の前に低温でじっくり炙って水気を抜く工程がある。今の予定だと、そこを削ることになる」
「それで、割れたりは……」
「保証はできない。だが、これまでの窯でも、多少の水分を残したまま同じやり方で持たせてきた実績はある」
ヨハンの説明を聞いていたディルクが、腕組みをしたまま話す。
「——際どいのは承知の上だ。それでもオレは、時間を優先する」
ディルクの目は、珍しく丘の斜面ではなく、組み上がったばかりの炉の輪郭をじっと見つめていた。
次回予告 第39話 『炉、崩れる』
リエージュでは、シャルルとヨハンの再測量により、良質な耐火粘土の埋蔵量が想定の三分の一程度しかないと判明した。
ディルクは動揺を見せず、質を問わない鉱床を使う『使い捨て炉』方式の本格運用を前倒しすると即断し、現場の士気をつなぎ止める。
同じころアムステルダムでは、流下式塩田の収益が予想の約2倍に達しているとホーフト市長から報告が入り、鉄事業が足踏みする間の投資家への対応を支える追い風となった。
フレデリックとシャルロットは、鉄と塩、両輪のうち片方が支えてくれる安堵を得ながらも、事業全体はまだ道半ばであることを忘れずにいた。
次回、幾度となく際どい綱渡りを乗り越えてきたリエージュの現場に、ついに恐れていた事態が訪れる。
ディルクの経験と手腕をもってしても、避けられない事故だった——。




