第一話 ノイズ
雨は昨日より弱くなっていた。
それでも空は朝から曇ったままで、大学へ向かう電車の窓ガラスには乾ききらない水滴が残っている。車内では多くの人間が俯いたままスマートフォンを見ていた。
吊り革へ掴まりながら、透も同じように画面を眺める。
SNSのトレンド欄には、昨夜から続いている配信者の炎上騒動がまだ残っていた。
『証拠画像まとめ』
『謝罪まだ?』
『過去発言掘り起こし』
『擁護派きつい』
スクロールするたび、知らない誰かの怒りが流れていく。
昨日まで好きだと言っていた相手を、人は数時間で嫌いになれる。
しかもその速度は、年々速くなっている気がした。
向かい側へ座る高校生たちも、同じ動画を見ながら笑っていた。
「いやこれ普通に終わっただろ」
「でも昔の発言掘られるの怖すぎ」
誰も本気で怒っているようには見えない。
ただ、同じ方向を向いて騒いでいる。
透は画面を閉じた。
窓ガラスへ映った自分の顔は、朝の曇った光の中で輪郭が薄かった。
大学最寄り駅で電車を降りる。
改札前では数人の学生が立ち止まり、スマートフォンを囲んでいた。濡れた床へ蛍光灯の白い光が滲んでいる。
「絶対まだ裏あるって」
「てかこういうの掘る奴すごくね?」
「いや暇人すぎだろ」
笑い声だけが乾いて響いていた。
透はその横を通り過ぎる。
大学までの並木道は昨夜の雨で色を暗くしていた。工学部棟のコンクリート壁は湿って黒ずみ、換気口の低い音が曇った空気へ混ざっている。
講義室へ入ると、既に半分ほど席が埋まっていた。
後方では数人がゲームの話をしている。
前列ではノートパソコンを開いた学生たちが課題を確認していた。
透はいつもの窓際の席へ座る。
理由があるわけではない。
ただ端の席の方が、周囲の声を遠く感じられた。
机へスマートフォンを置く。
通知が一件増えていた。
『おすすめユーザー:@truth_archive』
見覚えのないアカウントだった。
アイコンは灰色で、投稿数はゼロ。フォロー欄も空白だった。
透は数秒だけ画面を見て、閉じた。
講義開始までまだ少し時間がある。
教室では複数の会話が同時に流れていた。
笑い声。
椅子を引く音。
キーボードを叩く音。
窓を打つ弱い雨音。
その全部が重なり合い、教室全体へ薄いノイズみたいに広がっている。
透はぼんやり前列へ視線を向けた。
一番前の端。
空席が一つある。
それ自体は珍しくなかった。
だが透は、その席を見た瞬間だけ、妙な引っ掛かりを覚えた。
誰かがいた気がした。
ついさっきまで。
そう思った途端、逆に曖昧になる。
男だったか。
女だったか。
そもそも本当に見たのか。
透は自分でも分からなくなった。
「どうした?」
声を掛けられ、視線を上げる。
同じ学科の男子学生だった。
名前は確か、高橋。
「……別に」
「なんか眠そうだな」
高橋は透の返事を待たず、隣へ座った。
「昨日の炎上見た?」
「少しだけ」
「もう完全に終わりだろ、あいつ」
高橋は笑いながらスマートフォンを操作する。
「でも昔の投稿とか全部残ってんの怖いよな。高校時代のノリとか掘られたら普通に死ねる」
透は曖昧に頷いた。
講義が始まる。
教授の声が教室へ広がっていく。
透もノートを開き、数式を書き始めた。
だが途中から、周囲の音ばかりが気になっていた。
誰かが小さく笑う。
別の場所でも笑い声が重なる。
少し遅れて、また別の誰かが同じ話題へ反応する。
空気そのものに、反応する順番が決まっているみたいだった。
透はシャーペンを止める。
前列の空席を見る。
誰も座っていない。
なのに視線を外すと、その席へ誰かが戻ってくる気がした。
教授が出席確認のため名簿を見直していた。
「……ん?」
一瞬だけ、動きが止まる。
だが教授はすぐ何事もなかったようにページをめくった。
透はそれを見ていた。
数秒後、教室ではまた誰かの笑い声が重なる。
その音に紛れて、透はもう一度前列を見た。
空席だった。
講義終了後、学生たちは一斉に立ち上がる。
「昼どうする?」
「学食混んでそう」
「てかまた新情報出てるって」
透は少し遅れて席を立った。
前列の空席を通り過ぎる。
机の上には何もない。
教科書も。
筆記用具も。
誰かがいた痕跡は最初から存在しないみたいだった。
それでも透は、そこを通る瞬間だけ微かに息苦しさを覚えた。
廊下へ出る。
窓の外では弱い雨が続いていた。
透はスマートフォンを開く。
タイムラインには新しい話題が流れ始めている。
『この件、最初から仕組まれてたらしい』
『知り合いから聞いたけど裏ある』
『消された投稿のスクショ残ってた』
スクロールしていると、一瞬だけ講義室の写真が流れた。
ぼやけた画像だった。
最前列の端。
そこだけ少し暗く潰れて見える。
透は指を止めた。
写真を開こうとした瞬間、タイムラインが更新される。
画像は別の投稿に押し流され、見失った。
透はしばらく画面を眺めていた。
廊下の向こうでは誰かが笑っている。
自販機の駆動音が響く。
濡れた窓ガラスへ学生たちの影が映る。
大学はいつも通りだった。
気づけば透は、もう一度、最前列の空席のことを考えていた。




