表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『存在した記憶』  作者: 逆位相
第一章 既視感

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/9

第一話 ノイズ

 雨は昨日より弱くなっていた。


 それでも空は朝から曇ったままで、大学へ向かう電車の窓ガラスには乾ききらない水滴が残っている。車内では多くの人間が俯いたままスマートフォンを見ていた。


 吊り革へ掴まりながら、透も同じように画面を眺める。


 SNSのトレンド欄には、昨夜から続いている配信者の炎上騒動がまだ残っていた。


『証拠画像まとめ』

『謝罪まだ?』

『過去発言掘り起こし』

『擁護派きつい』


 スクロールするたび、知らない誰かの怒りが流れていく。


 昨日まで好きだと言っていた相手を、人は数時間で嫌いになれる。


 しかもその速度は、年々速くなっている気がした。


 向かい側へ座る高校生たちも、同じ動画を見ながら笑っていた。


「いやこれ普通に終わっただろ」

「でも昔の発言掘られるの怖すぎ」


 誰も本気で怒っているようには見えない。


 ただ、同じ方向を向いて騒いでいる。


 透は画面を閉じた。


 窓ガラスへ映った自分の顔は、朝の曇った光の中で輪郭が薄かった。


 大学最寄り駅で電車を降りる。


 改札前では数人の学生が立ち止まり、スマートフォンを囲んでいた。濡れた床へ蛍光灯の白い光が滲んでいる。


「絶対まだ裏あるって」

「てかこういうの掘る奴すごくね?」

「いや暇人すぎだろ」


 笑い声だけが乾いて響いていた。


 透はその横を通り過ぎる。


 大学までの並木道は昨夜の雨で色を暗くしていた。工学部棟のコンクリート壁は湿って黒ずみ、換気口の低い音が曇った空気へ混ざっている。


 講義室へ入ると、既に半分ほど席が埋まっていた。


 後方では数人がゲームの話をしている。


 前列ではノートパソコンを開いた学生たちが課題を確認していた。


 透はいつもの窓際の席へ座る。


 理由があるわけではない。


 ただ端の席の方が、周囲の声を遠く感じられた。


 机へスマートフォンを置く。


 通知が一件増えていた。


『おすすめユーザー:@truth_archive』


 見覚えのないアカウントだった。


 アイコンは灰色で、投稿数はゼロ。フォロー欄も空白だった。


 透は数秒だけ画面を見て、閉じた。


 講義開始までまだ少し時間がある。


 教室では複数の会話が同時に流れていた。


 笑い声。


 椅子を引く音。


 キーボードを叩く音。


 窓を打つ弱い雨音。


 その全部が重なり合い、教室全体へ薄いノイズみたいに広がっている。


 透はぼんやり前列へ視線を向けた。


 一番前の端。


 空席が一つある。


 それ自体は珍しくなかった。


 だが透は、その席を見た瞬間だけ、妙な引っ掛かりを覚えた。


 誰かがいた気がした。


 ついさっきまで。


 そう思った途端、逆に曖昧になる。


 男だったか。


 女だったか。


 そもそも本当に見たのか。


 透は自分でも分からなくなった。


「どうした?」


 声を掛けられ、視線を上げる。


 同じ学科の男子学生だった。


 名前は確か、高橋。


「……別に」


「なんか眠そうだな」


 高橋は透の返事を待たず、隣へ座った。


「昨日の炎上見た?」


「少しだけ」


「もう完全に終わりだろ、あいつ」


 高橋は笑いながらスマートフォンを操作する。


「でも昔の投稿とか全部残ってんの怖いよな。高校時代のノリとか掘られたら普通に死ねる」


 透は曖昧に頷いた。


 講義が始まる。


 教授の声が教室へ広がっていく。


 透もノートを開き、数式を書き始めた。


 だが途中から、周囲の音ばかりが気になっていた。


 誰かが小さく笑う。


 別の場所でも笑い声が重なる。


 少し遅れて、また別の誰かが同じ話題へ反応する。


 空気そのものに、反応する順番が決まっているみたいだった。


 透はシャーペンを止める。


 前列の空席を見る。


 誰も座っていない。


 なのに視線を外すと、その席へ誰かが戻ってくる気がした。


 教授が出席確認のため名簿を見直していた。


「……ん?」


 一瞬だけ、動きが止まる。


 だが教授はすぐ何事もなかったようにページをめくった。


 透はそれを見ていた。


 数秒後、教室ではまた誰かの笑い声が重なる。


 その音に紛れて、透はもう一度前列を見た。


 空席だった。


 講義終了後、学生たちは一斉に立ち上がる。


「昼どうする?」

「学食混んでそう」

「てかまた新情報出てるって」


 透は少し遅れて席を立った。


 前列の空席を通り過ぎる。


 机の上には何もない。


 教科書も。


 筆記用具も。


 誰かがいた痕跡は最初から存在しないみたいだった。


 それでも透は、そこを通る瞬間だけ微かに息苦しさを覚えた。


 廊下へ出る。


 窓の外では弱い雨が続いていた。


 透はスマートフォンを開く。


 タイムラインには新しい話題が流れ始めている。


『この件、最初から仕組まれてたらしい』

『知り合いから聞いたけど裏ある』

『消された投稿のスクショ残ってた』


 スクロールしていると、一瞬だけ講義室の写真が流れた。


 ぼやけた画像だった。


 最前列の端。


 そこだけ少し暗く潰れて見える。


 透は指を止めた。


 写真を開こうとした瞬間、タイムラインが更新される。


 画像は別の投稿に押し流され、見失った。


 透はしばらく画面を眺めていた。


 廊下の向こうでは誰かが笑っている。


 自販機の駆動音が響く。


 濡れた窓ガラスへ学生たちの影が映る。


 大学はいつも通りだった。


 気づけば透は、もう一度、最前列の空席のことを考えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ