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『存在した記憶』  作者: 逆位相
第一章 既視感

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第二話 正しい言葉

 昼休みの学食は、講義室とは別種類の騒がしさで満ちていた。


 食器のぶつかる音や椅子を引く音が絶えず重なり、その隙間を縫うように複数の会話が流れていく。厨房では油の弾ける音が響き、入口付近の自動ドアが開くたび、湿った外気が一瞬だけ入り込んできた。


 透は端の席へ一人で座り、カレーを半分ほど食べたところでスプーンを止めた。


 周囲の学生たちは、食事をしながら頻繁にスマートフォンへ目を落としている。誰かと話しながら別の誰かの投稿を眺め、同じタイミングで笑い、また別の話題へ移っていく。


 その流れを見ていると、現実より先に画面の向こう側で空気が決められているように感じることがあった。


「なあ真壁」


 顔を上げると、高橋がトレーを持ったまま立っていた。


「ここ座っていい?」


「別に」


 高橋は向かいへ腰を下ろし、うどんの湯気を避けるようにスマートフォンを机へ置いた。


「今日の教授、ちょっと変じゃなかった?」


 透はすぐには返事をしなかった。


「……何が」


「出席確認の時。なんか止まってたじゃん」


「気のせいじゃない」


「かなあ」


 高橋は笑いながら箸を割った。


「でも最近、ああいう変な感じ多くね?」


「変な感じ」


「説明しにくいけど。なんか皆、ちょっとピリついてるっていうか」


 うどんを啜りながら、高橋はスマートフォンを操作する。


「ほら、最近こういう動画ばっか流れてくるし」


 画面をこちらへ向ける。


 短い投稿動画だった。


『昨日まであった店が消えてる』

『友達と記憶が噛み合わない』

『写真から一人だけ消えてた』


 どれも半分冗談みたいな口調で作られている。コメント欄にも、《分かる》《最近こういうの多い》《世界バグってる?》と軽い調子の反応が並んでいた。


「まあネタだと思うけどさ」


 高橋はそう言って笑う。


「でも完全に嘘とも言い切れない空気あるよな」


 透は動画を見ながら、曖昧に頷いた。


 周囲では別の学生グループが炎上動画について話している。


「いや普通に黒だろ」

「でも叩かれすぎじゃね?」

「擁護してる奴も終わってるって」


 断定する声に、すぐ別の声が重なる。


 怒っているはずなのに、皆どこか楽しそうだった。


 高橋がスマートフォンを見たまま言う。


「てか今、“正しくない側”行ったら終わりだよな」


 透は顔を上げた。


「正しくない側?」


「SNSとか。燃えてる相手ちょっと庇っただけで一緒に叩かれるじゃん」


 高橋は軽い調子で続ける。


「だから皆、とりあえず安全な方行くんだろうなって。叩かれてる側じゃなくて、叩く側」


「……」


「まあ俺もそっち行くと思うけど」


 そう言って笑う。


 周囲でも似たような笑い声が重なっていた。


 透は冷め始めたカレーへ視線を落とす。


 その時、学食の入口付近で小さなざわめきが起きた。


 何人かの学生が同時にスマートフォンを見始め、空気が波みたいに揺れる。


「え、なにこれ」

「怖……」

「またこういう系?」


 透もスマートフォンを開いた。


 タイムラインの上位へ、同じ動画が大量に流れている。


 暗い部屋を映した短い映像だった。


『これ昨日撮った動画なんだけど』


 撮影者の声が少し震えている。


 動画には、机とソファ、それから壁際の本棚が映っていた。学生の一人暮らしらしい、ごく普通の部屋だった。


『この時、確かに四人いたんだよ』


 カメラが少し揺れる。


『でも一人だけ名前思い出せなくて』


 画面の奥、ソファの端だけが妙に空いて見えた。


『写真にも映ってない』


 コメント欄が高速で流れていく。


『演出うま』

『普通に怖い』

『最近こういう投稿増えたな』

『また集団催眠?』


 透は無意識に動画を見返していた。


 何が気になるのか、自分でも上手く説明できない。


 ただ、今朝の講義室を思い出す。


 一番前の空席。


 教授が一瞬だけ止まった動き。


 誰も気にしていないのに、自分だけが引っ掛かっている感覚。


「“存在しない誰か”系って、最近流行ってるよな」


 高橋が何気なく言った。


 透は視線を上げる。


「存在しない誰か?」


「いるはずだったのに思い出せない、みたいなやつ。ネット怪談っぽくてウケるんじゃね」


 そう言いながら、高橋は既に別の投稿を開いていた。


 タイムラインは次々に更新されていく。


 芸能人の炎上。


 政治家の失言。


 事故映像。


 数分前まで騒がれていた動画も、別の話題へ押し流されていった。


 透は画面を閉じる。


 だが喉の奥には、小さな棘みたいな感覚だけが残っていた。


 学食を出ると、外の雨は朝より少し強くなっていた。


 工学部棟へ戻る途中、透は無意識にスマートフォンを開く。


 検索欄へ指を置く。


『記憶違い』


 入力して消す。


『人数 合わない』


 それも消す。


 少し迷ったあと、透は別の言葉を打ち込んだ。


『空席』


 検索結果には、曖昧な投稿が大量に並んでいた。


『教室の一席だけ気になる』

『誰かいた気がするのに思い出せない』

『空席見ると不安になる』


 冗談みたいな短文ばかりだった。


 それでも透は、歩きながら無意識にスクロールを続けていた。


 雨音の向こうで通知音が鳴る。


 すれ違う学生たちの声が断片的に耳へ入る。


 湿った空気の中を歩きながら、透はまた、最前列の空席を思い出していた。

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