第零話 透明人間
本作品は過去に投稿した『真実汚染 — 陰謀論が現実になった世界で —』をベースに「なろうっぽさ」を除去し、より文学として楽しめるように推敲を重ねたものになります。人によっては読みにくさがある可能性があります。
※ベース作品はなろう向けに恋愛要素や能力要素をつけていますが、本作にはそういうもとは全くないです。ただ、一人の人間の喪失を描く作品です
十一月の雨は、一度降り始めると、街全体へ薄い膜を張ったみたいに降り続けた。
午後四時を過ぎた講義室は既に暗かった。窓の外では灰色の空が大学棟を鈍く濡らし、ガラスには細かな水滴が筋を作って流れている。暖房の入り始めた教室には湿った上着の匂いが滞り、後方では誰かがコンビニの菓子パンを開ける音を立てていた。
教授は黒板へ数式を書き続けていたが、真壁透は二十分ほど前からほとんど聞いていなかった。
前列の学生たちをぼんやり眺める。
数人のグループが、小声でスマートフォンを囲んでいた。
「うわ、マジか」
「いや絶対黒だろ」
「前から怪しかったって」
笑い声は抑えられているのに、不思議と教室全体へ薄く広がっていく。
透には時々、話している内容よりも、皆が同じタイミングで笑うことの方が気になった。
驚く場所も、怒る場所も、最初から決まっているみたいだった。
教授が黒板へ向き直る。
その瞬間、前の席の男子が振り返った。
「真壁、お前これ見た?」
透は少し反応が遅れた。
「……何」
「この配信者。昨日まで“絶対クリーンです”とか言ってたのに、昔の詐欺案件掘られて炎上してんの。終わってるわ」
差し出されたスマートフォンには、派手な編集の動画が映っていた。赤い字幕。煽るような効果音。《全て暴露します》というサムネイル。
コメント欄が凄まじい速度で流れていく。
『やっぱりな』
『前から胡散臭かった』
『こういう奴は消えるべき』
透は「へえ」とだけ返した。
男子はすぐ前へ向き直り、別の友人と続きを話し始める。
透もそれ以上、何も言わなかった。
スマートフォンの黒い画面へ、自分の顔だけがぼんやり映っていた。
講義終了のチャイムが鳴る。
一斉に空気が崩れた。
椅子を引く音。鞄のファスナー。重なる声。教室中で複数の会話が同時に立ち上がる。
「今日どうする?」
「駅前寄ってく?」
「てかあれ絶対まだ裏あるって」
透はゆっくりノートを閉じた。
周囲の学生たちは自然に複数人の輪を作り、そのまま教室を出ていく。そこに悪意はない。ただ、自分が入る余地も最初から存在していないだけだった。
一年の頃は、昼食へ誘われたことも何度かある。
だが曖昧に断るうちに、いつの間にか声は掛からなくなっていた。
透自身、その方が楽だったはずなのに、時々、自分だけが静かな場所へ取り残されたような感覚になることがあった。
立ち上がった瞬間、隣の女子学生と目が合う。
「あ、ごめん」
彼女は透ではなく、その後ろにいた友人へ声を掛けていた。
透は何も言わず、そのまま廊下へ出る。
窓ガラスには細かな水滴が流れ続けていた。
数人の学生が立ち止まり、スマートフォンを覗き込みながら騒いでいる。
「これ加工じゃね?」
「でも証拠画像出てるじゃん」
「いや、火消し始まってるって」
誰かが笑い、誰かが断定する。
その速度だけが、透には時々恐ろしく見えた。
昨日まで知らなかった他人を、人は数時間で嫌いになれる。
階段を降りながら、透はポケットからスマートフォンを取り出した。
通知がいくつか溜まっている。
大学からの連絡。ニュースアプリ。SNS。
無意識にSNSを開く。
『この件、まだ隠されてることがあります』
『真実を知ってください』
『テレビは報道しない』
『これは偶然じゃない』
知らない誰かの怒りと興奮が、画面の向こうで絶えず流れ続けている。
透はそういうものが嫌いだった。
だが気づけば毎日見ている。
画面を閉じている間に、自分だけが何かを知らずに置いていかれる気がした。
大学を出ると、冷たい雨が傘を叩いた。
夕方の道路は濡れた光を引き延ばし、車のヘッドライトが水たまりへ赤や白を滲ませている。駅へ向かう学生たちは皆早足で、片手にはスマートフォンがあった。
透も流れに混ざりかけて、途中で足を止めた。
向かい側の信号へ、一人の女子学生が立っていた。
白いマフラー。
黒髪。
一瞬だけ、こちらを見ていた気がした。
だが信号が変わると、人波の中へ紛れて見えなくなる。
知り合いだっただろうか、と考える。
思い出せなかった。
そもそも大学で、自分の名前を覚えている人間がどれくらいいるのか、透にはよく分からない。
LINEグループの通知だけが増えていき、自分の名前がそこへ出ることはほとんどなかった。
駅前へ向かう流れから外れ、透は商店街の方へ曲がった。
少し古びた建物の一階に、その喫茶店はある。
木製の看板には『Rain』とだけ書かれていた。
透は初めてここへ来た日のことを覚えていない。
ただ、雨の日になると自然に足が向くようになっていた。
扉を開ける。
小さなベルの音。
暖かい空気と、深煎りのコーヒーの匂いが静かに流れてくる。
古い木のテーブル。少し擦れた革張りの椅子。窓際のランプ。小さなジャズ。奥の暖房機器が低く唸る音。
外の雨音だけが、遠くに押しやられていた。
カウンターの奥で、店主が顔を上げる。
「いらっしゃい」
透は軽く会釈を返す。
それ以上の会話はない。
この店では、それで十分だった。
窓際の席へ座る。
いつも同じ席だった。
窓の外では、雨に煙った街灯がぼやけている。店内には数人の客がいた。本を読む男。ノートパソコンを開いた女性。奥で静かにコーヒーを飲む老人。
誰も他人へ干渉しない。
だが、完全に無関心というわけでもない。
静かに放っておかれている。
透はその距離感が好きだった。
注文したコーヒーが運ばれてくる。
白い湯気を眺めながら、透はゆっくり息を吐いた。
大学にいる間、自分はずっと呼吸を浅くしているのかもしれなかった。
Rainへ来ると、それが少し戻る。
スマートフォンが震える。
またSNS通知だった。
誰かが炎上し、誰かが暴かれ、誰かが断罪されている。
透は数秒だけ画面を見て、それから伏せた。
この店にいる間くらい、世界の騒がしさを遠ざけていたかった。
窓の外を人が通り過ぎていく。
傘の先から滴が落ちる。
濡れた道路へライトが伸びる。
誰もが何かを見逃さないように歩いている。
透はふと、自分の座る窓際席へ目を向けた。
もし明日からここへ来なくなったら、この席はどうなるのだろう。
数日は店主も気づくかもしれない。
だが、そのうち別の客が座るだけだ。
大学もきっと同じだった。
講義を休んでも、誰かが探しに来ることはない。
SNSが止まっても、多分ほとんど誰も気づかない。
世界は、自分がいなくても普通に続いていく。
透はそれを、昔からなんとなく知っていた。
コーヒーへ口をつける。
少し冷め始めた苦味が舌に残った。
窓ガラスを雨粒がゆっくり流れていく。
その向こう側で、人の輪郭だけが曖昧に滲んでいた。
自分も、あの雨の中へ混ざって消えていけそうな気がした。
店を出る頃には、窓際の席にはもう誰も座っていなかった。




