05 新顔
――真っ暗だった。目を開いたと思ったのに、まだ瞼を閉じているのかと疑った。それはわずかに寝ぼけていたからで、起き上がると、固めにバウンドするマットレスは敷布団で寝起きをしているルヴィには真新しい感覚だった。そう、ルヴィは今、イクシオリリオンを離れて遠い異国の地アクイレギアにいる。ただ、一人ではない。頼りになる年下の幼馴染も、廊下を隔てて向かいの部屋にいる。
「眠……まだ時差ボケが抜けないんかな」
携帯で時刻を確認して照明をつける。
これがないでは、この部屋は光一つ入ってこない。
スウェット姿のまま部屋を出る。
リビングで、設置されているコーヒーメーカーを使ってみる。
電源を点けて押すだけだ。
キッチンの小窓から外を見ると藍色の景色が見えた。
まだ暗く、夜のようだ。
「走りて……」
このアパートに来てから数日が経った。
片付け、掃除、買い物に追われ、あっという間だ。
「日課のランニング行ってないから、調子がくるってんのかも」
ぐっと伸びをして、コーヒーの香りを口元に運んだ。
*****
リグナムバイタ州は東海岸にある経済が発展した州だ。しかし都会なのは中心地リグナムバイタ市だけといっていい。リグナムバイタ州自体は、中心地から車で数十キロ走らせるだけで緑が多く、肥沃な土地に見渡す限りの農地が広がっている。色づいたトウモロコシ畑とカボチャが旬の農場を経営する、バーナビー・ジョーンズは、長年の付き合いで、お得意様でもある憧れのマドンナのところへ、週二回運搬を仰せつかっている。
色づいた秋景色を、相棒のピックアップトラックで走り抜ける。すれ違う車もない平坦な道を無心で運転すると、いつのまにか数時間が過ぎ、住宅街に入った。年甲斐もなくそわそわし、見慣れた景色の前で停車すると、サイドミラーでひげを整える。どうしてこんなに浮き立つ心が抑えられないのかは自分でも疑問に思っている。結婚して随分経ち、子どもも大きくなり上は孫も生まれたが、ここへ来ると一瞬で彼女に恋した童心に戻ってしまう。深く帽子をかぶり直し、とっておきの花のゲージを手にする。ガタのきているドアから出ると、軽く咳払いしてから、呼び鈴を鳴らす。
「やあ、マリエ。今日の苗は自信作で…………ん?」
先週は顔色が悪かった。
元気づけるために、マリエの好きな花の苗を育てて持ってきた。
だが今日のマリエの顔色はとてもいい。
……ジョーンズが何をするまでもなく。
「こんにちは、ジョーンズ」
頬に手を当てて破顔している。
「おう? 何かいいことでも?」
右の薬指にシルバーリングが鈍い光を発している。……互いに年を取った。そうでなくともマリエはジョーンズよりも二十も年上だ。けれども隠し切れない品の良さと、胸の奥を刺すようなどきりとするものを持っていた。
「私は分かり易いのかしら? 新しい子たちが無事に到着したのよ」
「そうか、そりゃあよかった」
安心した半面、張り切って持ってきた苗の置き所に困る。
するとマリエの目線が下がり、顔がほころんだ。
「元気そうな苗ね。ありがとう、うれしいわ」
「そりゃよかった。手もかからんいい子たちさ」
喜ばせようと気合を入れて来たのが拍子抜けした。
立ち直ったのならいいことだ。
…………ジョーンズの手は今回もまた必要なかった。
「裏手でいいんだろう?」
「ええ。お願いするわね」
ドアを大きく開いて、大柄なジョーンズのためにスペースを開けてくれる。温和なマリエだが、レジデンスへの門戸は厳しいことで有名だ。決まった人しか入れない、入居者も業者も。だからこうしてマリエの聖域であるレジデンスに入れることは認められているという証拠には違いなかった。
何度目かの往復で厨房に食糧を運び入れて戻ろうとしたとき、外から聞きなれない声が耳に入る。
*****
「ランニングのルートはこれで大丈夫ね」
「おう! ありがとな、ネム」
朝からネムを連れ出して、秋色になっていく美しいストリートを散策した。アパートの部屋で、荷物の片づけや掃除、その他、在留届やら入学の書類の提出などの手続きに追われてほとんど出ていなかったのでようやくまともに外の空気を吸った。
「カレッジまで、30分はかかる予定よ?」
「任せとけって。オレが何時に起きてると思ってる?」
8時45分に一限目の講義がはじまる。
「……4時だったかしら」
「そこまで早くないけどさ。4時半くらい」
8時に出れば余裕で到着するので、それまで3時間半もゆとりがある。
日課を継続できるとるんるんでアパートの前に戻ると、トラックが停まっていた。
「なんか届け物か?」
「玄関も開けっ放しね」
中へ入ると、すぐに廊下に佇んでいたマリエに出迎えられる。
「おかえりなさい、ふたりとも。おでかけしていたのね」
「ええ。ちょっとそこまで」
「天気もいいし、散歩しよっかなあと」
秋晴れというのがこの国でも通じるのか分からない。
しかし晴れ渡った綺麗な空だ。
この住宅街の端から端までを回ったので、そろそろ昼になる。
「そう。ふたりはランチはもう食べたのかしら?」
「いいえ? 何食べようかなってネムと悩んでて」
このアパートでは、管理人室の横にある厨房の業務用冷蔵庫の中身を自由に使用してよいことになっている。別で食費を出した方が良いと思うのだが、イクシオリリオン人の食事量は雀の涙程度なのでいらないとのこと。そんなことはないと思い、再度申し出ると、実は食費に気を遣って節約してしまう学生を見かねて、ずいぶん昔からそうしているのだという。完全に、管理人であるマリエの善意だ。そういう事情もあって、買い物に出かけずとも、事足りる。これで、食費と家賃合わせて二人で三十万円なのは、このリグナムバイタ郊外にあっても破格すぎて申し訳ないが、すっかり助かっている。おかげで、ルヴィたちの引きこもり度は格段にレベルアップした。
「では――庭で私とランチでもどうかしら? あなたたちの歓迎をしたいの」
こんなにも条件がいいが、これらすべてを凌駕して素晴らしいのは管理人であるマリエの人柄だ。優しくこちらを見守り、心遣いでもって世話をしてくれる。本当に『母親』のような立ち位置なのだ。そんな人の誘いを断る選択肢などない。前のめりで返事しようとしたところ、影がかかった。180センチ超えのルヴィの顔に影が落ちるなど、相当な長身になる。パッと顔を上げると同時に声が後ろから下。
「――マリエ、この子たちがそうなのかい?」
振り返ると、そこには長身であるルヴィをも見上げる巨漢がいた。2mはいくだろう。茶髪と金髪が混ざったような髪に帽子をかぶり、同色の口髭と、オーバーオールの作業着から出た丸太のような腕には金の腕毛が生え、インパクト大だ。
「私の新しい子たちよ」
「二人もか。どうも若人たち」
帽子を取って胸に当てて見せる。
奥まった瞳でウインクしてきた。
「この方は農園主のジョーンズ。ここへは週に2回、食料の運搬をしに来てくれているの」
冷蔵庫の中身は彼の農園産のものだという。
「ネムです。この間からお世話になっています」
「食材をありがとうございます。オレはルヴィアスと言います」
ネムと握手し、次はルヴィ……と来たところで、大きな手のひらに握り込まれ、前に引かれる。上半身が前にひかれたところで、耳元で「お前さん、とんでもない別嬪さんと一緒じゃあないか」と告げられる。
「――ちょっかい掛けたらだめですよ」
見上げて、しっかりと笑いかけ、釘を刺す。
握りあう手へ意識を向ける。
ひょろりとした外見で見くびられるが、握力は結構ある。
食の世話になっていようが、この手を握りつぶそうと思えば――難しいと思うががんばる。前向きに検討していると、噴き出された。
「いや、よく言った。それでこそ男ってもんだ」
「………どーも?」
笑いをおさめないままに、再び顔を近づけて来たので、警戒する。
「連れのお嬢ちゃんのこと、注意しといて見てくれや。この国では美し過ぎるってのも生きづらい。……身近なところに危険があるのを覚えておいてくれや」
「危険。……中央公園とか?」
「……そうだな。それもある」
こそこそと話していると、不審そうに女性陣から声を掛けられ、それとなく距離を取る。改めて見上げたその人物は、悪い人ではないようだった。
「ルヴィに何を言ったの、ジョーンズ」
「そう怖い顔をせんでくれ、マリエ」
ハンズアップするジョーンズへ、冷たい目を向けるマリエ。
気の置けない間柄らしいなと思って眺めていると、ネムが腕に引っ付いてきた。
「なあに、何の話?」
「なんでもないって」
同じようなやり取りをルヴィもしていた。
納得しないネムに困って視線をジョーンズへ向けると、そちらもこちらを見ていた。
「この国で生きていくイロハをこの坊主に教えてやってたんだ、な?」
「ルヴィと呼んでください。――そうです」
不承不承引いていく女性たちにほっと胸をなでおろす男ども。
「ナイトでいるのも大変だな?」
「いやこの状況作ったの、あなたでは?」
納得いかないながらも、ちらりと幼馴染を見遣る。
「でも」
癖のある薄青のショートの髪は顎のラインまでで、同色の瞳は光を弾くような輝かしさで、上向いた長い睫毛に縁どられ、サクランボを齧ったような唇は瑞々しく、華奢な体躯は少女めいていて、珠のような肌はなめらかな曲線を描く嫋やかさ――ちょっと見かけないくらい美少女だと地元でも有名だったが、異国でも通用する美貌だったかと誇らしいような、怖いような気がしている。
「――気を付けます」
「そうだな。それが男ってもんだ」
ジョーンズは、眩しいをもの見たように、目元を押さえて苦笑した。
蒼穹に高く浮かぶ陽光を受け、木々は心地よい風に揺れた。管理人である老婦人マリエは、ルヴィたちを裏庭に案内し、白いパラソルの下で、アクイレギアの家庭料理を並べてもてなしてくれた。素晴らしい出来栄えのポーチドエッグにナイフを入れつつ、良い人に恵まれてるなとしみじみと実感した。




