39 救命
ルヴィを芝生の前庭に残して、貧血を起こしているマリエに付き添い、いつもマリエの姿がある、管理室の中に初めて入った。玄関から入ってすぐの管理室の窓から見えていたカウンターとは反対側に、ごく普通のリビングのような私的な空間があった。ローテーブルとソファの後ろには本棚があり、たくさんの本が並んでいる。目に入った題目は、子育てや遺伝、障害に関するものだった。ラインナップとしては不思議な偏りに目が行ったが、突如――けたたましい音と地面が震える振動が轟いた。
「…っ……なに!?」
マリエをソファに座らせたネムは数歩で管理室の開きっぱなしにしていた扉から出た。戻ってきてみれば、思いもかけない光景が目に飛び込んできて全身の毛穴が開くような心地がした。ガレージに掛かっていた、重々しい鋼鉄製の自動式伸縮梯子が横転していた。そしてネムは、先ほどまで秋休みの旅行に浮足立ってはしゃいでいた幼馴染が、冷たい梯子の下で赤い血だまりを作っているのを見つけた。
「………ルヴ! どうして……こんな!」
急いで駆け寄ったが、ぐったりとしてピクリとも動かない。純系のイクシオリリオン人としては明るい髪にひたひたと鮮血が滴っている。側頭部の位置に梯子が乗っており、そこから血が絶え間なく流れているのだ。頭部からの傷口は小さくとも、血が勢いよく流れるものだ。落ち着け、と宥める。ああ。
目を離したばかりに。
悔やんでも仕方ない。歯を食いしばりながら、梯子の間から手の甲を挿し入れて、ルヴィの口の前にやり、呼吸を確認する。温かい呼吸が弱弱しく当たった。手を引き抜いて、梯子とルヴィの頭部との隙間に両腕を入れて持ち上げようとしたが、ネムの手に余る重さだった。
「…ぐぅ……あ……」
「……ルヴ……!?」
ルヴィは梯子の下でわずかなうめき声を漏らした。それにほっとするのもおかしいが。早くこの梯子をどかして、止血しなくては。しかし、梯子は鋼鉄製で3メートルほど伸長した状態で、とても持ち上がらない。自動式で80㎏以上はあるだろう。梯子の根本部分が伸縮を調整し、可動するための大きな両輪が付いているのだが、エンジン音を立てて横転した状態で空回りしている。
「だ、誰か! お願い、だれか……!」
エンジン音に負けないようにネムが声を張り上げて周りを見回すと、雑貨店から女店主が出て来るところだった。耳には、携帯を当てていたが、血だらけのルヴィと、梯子を動かそうとするネムに気づくと、すぐに走ってきてくれた。
「梯子が」
「分かってる。どかそう。ワン、ツー、スリー」
掛け声に合わせ、束の間だけ、梯子を僅かに持ち上げ、ネムは片手で素早くルヴィの体を引きずり出す。幸か不幸か、密に茂った芝生はルヴィの血液で濡れていて、ネムの片腕の力でも引きずることができた。重たい音を立てて、梯子を血だまりを作っている芝生に落とす。火事場の馬鹿力というのか、一瞬で、握力も腕力もなくなるほどに使い果たした。空回りするエンジン音よりも、自分の荒い息で周りの音が聞こえ辛いほどだ。
「ルヴ……」
両手を芝に突いて、荒く息を吐き出す女店主とネムの後ろから、体重の軽い人間が駆け寄って来る足音が聞こえた。先ほどネムが室内に付き添ったマリエだろう。ネムはざっとルヴィの状態を見て、首の骨が無事であること、側頭部も深い傷ではないことを確認して、ハンカチを出して傷口に当てた。どんどんハンカチに血がしみて赤くなった。
「救急車を……」
ネムが震える手で、携帯を取り出そうとしたが、手は地に濡れていて何度も鞄の中に取り落とす。すると白い息を吐き出しながら褐色の肌に伝う汗を袖で拭った女店主が止め、背後を振り返った。
「マリエ、代わりに呼んでやってくれ」
「分かったわ。ジャミラ、警察には?」
「さっき電話で呼んだところだ」
女店主は、ネムの後ろからやって来たマリエに指示して救急車を呼ばせた。女店主はルヴィの傍に膝をつくと褐色の長い指でルヴィの首筋をそっと撫でていく。
「……大丈夫だ。首の骨は折れていない」
「もしもし、至急救急車をお願いします。こちらは………」
女店主は、ルヴィの顔の前に手をやり、顔を顰めて耳を寄せた。
「息も……あるようだな」
ネムは今更になって手が震え、うまく傷口を押さえられなくなってきた。女店主が黙って上から手を押さえて代わってくれた。頭部のことなので安心はできないが、他に外傷はない。出来ることはやった。浅く呼吸を整えていると、視界の端で、ガレージで作業している若い青年がぶらりと宙につり下がっているのが見えた。命綱にすがって、足を上げ、悲痛な声を上げている。ネムは、監督役だと言っていた男が、同僚であるはずの青年へ向けて拳を振り上げるのを見た。
「な、なにを」
青年が足を必死に宙にあげて体を振り子のように揺らした。監督の男は青年を殴り損ねてガレージの壁に拳大の穴をあけた。そして再び青年が嘆願するような悲痛な声を上げるが、自動式伸縮梯子のエンジンを吹かす音が大きくて紛れてしまっている。ちょうど平日の昼間のせいか、郊外の街に人がほとんどいないようで、これだけの騒ぎがあっても人が集まっていない。
「……番地です。下敷きになってから、まだ5分もたっていませんが、血がたくさん出ています。はい、首から上はできるだけ動かさないように、患部は布で押さえて止血を……」
「おい、聞こえるか。もう少しで救急車が来る。それまでの辛抱だ」
マリエは片耳を塞いで救急隊と話す電話に集中していて、女店主はぐったりとしているルヴィに声を掛けながら容体を見ていて、ガレージで起きている状況に気付いていない。
「―――――あ」
ネムはルヴィを見て、そして今にも殴られそうな青年を見て、女店主を見て、震える足で立ち上がった。その時に女店主の視線を感じたが、ネムの手は鞄の中に忍ばせているスタンガンを握っていた。ガレージにぶら下がりながら必死に拳から逃げようとする青年に振りかぶられ――ネムはがら空きになっている男の脇腹へ、スタンガンを押し当てた。スタンガンから鋭い音がして、振動で手首を痛めたが、何とか取り落とさなかった。白種の固太りの男は全身を震わせ、ネムは離れようとしたが、がっと大きな手がネムの腕をつかんだ。
「……っ……!」
思わずスタンガンを取り落とす。監督役の男が振り返ると、その目は充血していて、白目と瞳との境があいまいなほど色素の薄い眼がネムの方を向くが焦点が合わない。丸太のように盛り上がる腕には黒い血管の筋がびっしりと浮き出ていた。白種特有の蠟のような青白い肌に浮かび上がるその模様は不気味で、男は巻き舌が入った言語で怒鳴ってきていた。
ヨールカ語、だろうか。
振りかぶられた拳は体を低くして避けたが、その低い姿勢から手首をつかまれ、勢いよく地面に引き倒される。衝撃を予期して身を固くしたが、全身に衝撃と、木片の欠片が芝生の上に転がっていたらしく、頬に鋭い痛みを感じた。目を開くと、芝生を踏みしめる、作業靴が目に入った。見上げると、監督の男が充血した目を擦ってネムを踏みつけようと脚を上げた。
「その子から、離れろ!」
女店主の低いハスキーな声が鋭く響いた。その時、どこからか長い足が宙を旋回した。金色の残像が見えた。
「おいっ大丈夫か?」
ネムがその時に見たのは、金髪でスーツ姿の若い男と、ルヴィの傍から駆け寄りかけた女店主、そしてルヴィの傍らに跪くマリエ、そして少し離れた芝生の上で伸びている監督の男だった。見知らぬ金髪の男に手を差し伸べられて、手を取ったとき、頬に刺さっていた木片か何かが地面に落ち、ふっと目の前が真っ暗になった。
懐かしく、緊張する。
これは越してきたばかりの頃。
『あの髪、変な色ー。外つ国の人みたい』
『なんでこの学校?』
『目の色が薄くてちょっと気味が悪いよね』
『ねえ、知ってる? うちの親に聞いたんだけどさ、あの子って……』
純黒のなかにあっては、この薄青色の瞳も髪も。
首から下げた、この出自も家も。
どれもこれもが似つかわしくない。
人の口には戸が立てられないのなら、その口を両手で塞いでやりたい。
でもそれで一体何が解決する?
『言いたいやつには言わせておけよ、ネム。そいつの口はそいつのもんだ』
でも言ってほしくない。
どんな人からだって嫌われたくない。
近くの人がそう言っていることを知りたくない。
聞きたくない、耐えられない。
『じゃあさ、オレがそいつらの声が聞こえないところに連れて行ってやるよ』
隣の家の、男の子はそう言って、ネムの手を引いた。
遠く、遠くどこまでも。
ネムの目が覚めると、そこは知らない部屋だった。どこかの病院の病室なのだろう。看護師がやって来てまた姿を消すと、金髪にスーツ姿の男と医者がやって来た。あれから丸一日が経っていて、今日は火曜の昼過ぎだという。医者は、ルヴィのことを尋ねるネムに、まだ意識は戻らないが命に別状はないことを説明した。ネムを診察した医者が快癒したと太鼓判を押して部屋を去るも、金髪の男は壁に背を預けたまま部屋に留まっていた。そして、組んでいた腕を解いて近づいてくる。
「目が覚めたばかりで悪いが」
それまで壁際でじっと待っていたスーツの男はIDを出して見せてきた。
見知らぬ人の接近に身を固くしていたネムは、目にしたそれに困惑する。
「――FBI?」
「ヒーカン・サイクス特別捜査官だ。今回、ある事件にかかわっていたとされる重要参考人が、塗装業者に潜り込んでいるという情報が入って探していた。しかし、重要参考人は口を割らない。被害者であることは重々承知しているが、あの業者について何か知っていることがあれば話してほしい。此方も手詰まりなんだ」
金髪の捜査官は、IDを懐にしまうと、律儀に返事を待っていた。




