38 不慮
ザイガー教授の顔を見て、ルヴィは先週紹介してもらった、他のカレッジの教授に調べなければならないのを思い出した。よさそうな講義を開講していれば、来年のサマースクールに参加したい。申請は来月待つが締め切りだ。
いつものように講義の時間が終わると、ルヴィとネムはそろって立ち上がり、他の学生と同じく出口へ急いだ。
「珍しい。今日は、ルヴィもネムもすぐに帰るのね。何かあるの?」
いつもは次週の課題の為にちらほら残っている学生もいるのだが、今日に限っては席を立つ姿ばかりだ。それに気づいた聴講生であるオルガは周りを見ながらルヴィたちに話しかけてきた。
「秋休み間近だからかしら。履修科目によっては明日から休みの人もいるの。そうしたら6連休になるから。ちょっとした旅行を計画している人もいるんじゃないかしら?」
「かくいうオレたちも、水曜から旅行なんだ。荷物準備しないといけなくてだな」
ネムがオルガに返事をして、ルヴィもそれに付け加えた。
納得の色を見せるオルガは、げんなりとした顔をして手をひらひら振った。
「羨ましいこと。私は今週も遅出の日に、クライアントから指名が入って、現地へ行かなければならないわ。片道3時間のドライブよ? はあ、学生時代が恋しくなる。あなたたち、せいぜい今のうちに楽しんで来るのよ?」
「ありがとう。オルガもよい一日を。運転には気を付けて」
「楽しんで来るぜー。お仕事ガンバ!」
オルガの仕事ぶりにネムは苦笑しながら返す。ルヴィはネムと連れ立って講義室を出ていく。オルガは、ザイガー教授がいる教壇へ降りて行った。真剣な顔をしていたので、とうとう受験するカレッジを決めたのかもしれない。
どこか浮足立ってがやがやとにぎやかに話しながら帰路に就く学生たちの流れに従って進む。ルヴィたちは早くアパートに戻り、昨日買ったばかりのキャリーケースに荷物を詰め込むという作業があるのだ。旅行に必要なものは一式買ったが、まだ全部は入り切っていない。ルヴィは青地に黄色のストライプが入ったものを、ネムは薄水色のものを買った。個性豊かなので、手荷物受取所のレーンでも一目瞭然だ。
「おニューのキャリーケースを手に入れるとワクワクするぜ! いよいよってな」
「いいお店を紹介してもらったわね。アクイレギアだから派手なものばかりかと思ったけれど、スタンダードなのが多くてびっくりしたわ。作りもしっかりしているし」
「値段も、本国の3分の1ぐらいだったよな? 教えてくれたスーパーのおっちゃんに感謝だぜー」
物価の高いリグナムバイタでも、物によっては本国よりも安かったりする。
駅に降りて地下鉄でアパートのある郊外まで行くが、この時間帯の駅は人通りが多い。しかし、この時間帯に郊外へ戻る人は少ないため、電車内は空いていた。空いている席に座ってぐっと伸びをする。
「あ、なあネム。もしかしたら、今の時間だと、例のアパートに来る業者がまだいるんじゃねえかな?」
ネムはルヴィの考えには同意しかねる様子で、言葉を濁した。
「そうね、どうかしら。あの面積は二時間あれば終わってしまいそうだったけれど」
午前の講義が終わって、すぐにアパートに戻るとしたら、業者が来る時刻から三時間半は経過することになる。マリエがお試しで依頼した塗装の範囲は、車が一台入るだけのスペースしかないガレージなので、確かに終わっている頃かもしれない。ネムは付け加えていった。
「……まだいるようだったら、わたしたちがしっかり見極めましょう」
「だな!」
ルヴィは腕まくりをしてやる気を見せると、ネムは声を立てて笑った。すると、周りからちらっと見た後はっとして振り返る視線を浴びることになる。当の本人はそんな視線をものともせずに、違う方向へ行こうとしていたらしいルヴィの腕を取って引っ張った。
「ルヴ、何度も言うようだけれど。人の流れに乗っても、行き先が違うから目的地にはつかないのよ?」
「前の人について行きたくなるんだよ……」
呆れたため息をもらいながら、無事にお昼時で混雑している駅に着き、空いている車両に乗り込んで、アパートの最寄駅に降りた。改札口を出て、角を一つ曲がると、黄色い葉をすべて落とした裸の街路樹が道の両側に佇んでいる道に出る。まっすぐ進めば、常緑の柳の古木がある芝生の庭の前に、オレンジカラーの作業車があった。どうやら、あれが業者のものらしい。もう少し歩いていくと、ちょうど依頼していたガレージが見えた。
「お、いるいる! いるじゃん、業者の人!」
長い梯子が掛かっていて、そこに命綱をつけた若い青年が、ピオニーの伝統色である大理石色のような灰緑色のペンキを塗っている。腕の上げ方がぎこちなく、塗り方がたどたどしく見えた。10時からやって来ると聞いていたが、まだ塗り終わっている範囲は7割ほどだった。出来栄えについてはルヴィには判別がつかず、何とも言えないが、汗を垂らしながら作業している青年を見るに、一生懸命真面目にやってるなと思った。
「さっそく管理室に行ってマザーマリエにどんな具合か訊いてみるか」
「本当だわ、まだいるのね……。丁寧に作業しているのかしら?」
ネムが呟くように言った。そして、アパートに掛けだそうとしていたルヴィの腕を瞬時に掴んで引き留めてきた。つんのめって、たたらを踏んだ。
「うべべ! びっくらこいた、どうしたんだ?」
「ルヴ。マザーなら、柳の下にいるようだわ」
ネムが柳の影の下にいるマリエに気づいて手を振った。ネムは視野が広く、こうして端々に気が付く。マリエもネムに気づいて手を挙げた。
「マザーマリエ、ただいま! 業者の働きぶりの見学ですか?」
「…………ええ」
マリエが口許に微笑を浮かべようとして失敗した顔をした。どうしたのだろうと首をかしげながら、近づいていくと、突如怒声が一帯に響き渡った。エルム語でも母国語でもない言語だったので内容はわからない。しかしその声の元を探れば、先ほどは気が付かなかった、煙草を吹かす初老の男がガレージの影にいて、作業している青年に怒鳴っているのが見えた。
「さっきから、この調子なの。若い子の方は、頑張ってくれているのだけど、監督しているというあの人がずっと怒鳴っているのよ。そんなに叱らないであげてと言ったのだけど、これは仕事だから口を出すなと……」
マリエは顔面を蒼白にして、何かよくないことが起こるんじゃないかと心配でこうして見ているのだという。しかし、寒空の下で長時間立ち続けていた証拠に、いつも春が咲いたようなルージュが引かれた唇はすっかり紫に変色していた。血の気も完全に引いてしまっている。
「……マザー、顔色が悪いです。わたし達が見ますから、中に入りましょう?」
「ネム、マザーマリエをお願いできるか? オレちょっと話してくる」
ネムは頷いてマリエの肩を抱いてアパートに入っていく。74歳の老婦人であるマリエが、木の影であったとしてもずっと立って見守るのはどれほどつらいか。ルヴィは、お試しで呼んでみるのはと軽く提案したことがもとでこの事態を引き起こしてしまったと責任を感じて、壁にもたれかかって指示ばかりする男に近づいた時だ。監督の男が一際、怒りをあらわにして煙草を握りしめた拳でガレージの壁を殴ると、ずんずんと近づいて青年が使っている梯子を蹴ったのだ。
「お、おいっ」
いや、作業している青年の腰には命綱があるから大丈夫、と安心しかけていたところで、命綱がぴんと張った。ほっとしたが、ふと目の前が陰になった。気が付いて顔を上げたときには、蹴られた長い梯子がすぐ目の前だった。――あ、と思った時には、火花が散るような衝撃と、鈍い振動が体を覆った。目の前が暗い。
がなり声が響き渡り、どのくらいか遅れてネムの悲鳴が聞こえた。
暗いのは目を閉じているせいだ。瞼が鉛のような重さに感じて、歯を食いしばってなんとか開けると、赤い芝生が目に入った。
焦点が合わなくて、瞬きをしたつもりが、それから記憶がない。




