107 非番
――ヒーカン。
「………誰だそれは?」
アンドリューは、ネムの口から出て来た知らない名前に顔をしかめている。……ひょっとすると、ネムの口から知らない男の名前が出て来たのが、意外だったのかもしれない。しらんけど。
アンドリューの内心を想像する、思いやり深いルヴィ。
而して相棒のネムは切れ味が鋭かった。
「これから一報入れてあなたのことを相談する相手よ。……なあに。まさか、あなたの知り合いに連絡するとでも思ったの? いいわよ、別に」
ネムがルヴィの手から取り戻した携帯をくるりとアンドリューの方へ向けた。
「……何?」
「連絡したい相手がいるなら、連絡したら?」
訝し気なアンドリューは椅子に腰かけた状態で見上げる。
ネムは立ったまま首をかしげてみせた。
「連絡………」
「でもそれはあなたの返答次第ね。どちらにするの?」
「今は………いい」
そいつに早く連絡しろ、とアンドリューは項垂れた。
連絡したい相手が思い浮かぶようなら、すぐに連絡すればいいだろうに。
………変なやつ。そして呆れてしまう。アンドリューが抱いた、ヒーカンなる男への疑問は、ネムによって別の話にすり替えられて流されてしまったのだった。
「………ちょっとこっちに」
ネムと一旦キッチンまで離れる。ここからだと、アンドリューがいるダイニングテーブルとの間にキッチンのカウンターがある。出口から遠ざかったのは拙いが、代わりに刃物などの危険物はここに揃っている。こっそりと声を潜める。
「………なあ、ネム。ヒーカンって」
アンドリューが流しても、ルヴィは気になる。
あれだけアンドリューが厭っていた警察側の人間だ、管轄が違うとて。
しかしネムは悪びれた様子もない。
「あら、なあに?」
「なあにって言ったって……」
言いかけて思い直す。
まあ、そうだ。
悪いことをしたのは、アンドリューだ、ネムではなく。
10ー0で、アンドリューが悪い。
「ルヴは、深夜に三階の窓から侵入してきた危険人物を、かつての学友だからって信用するつもり?」
「いや、学友でもないだろ。一緒に学んだって程じゃねえし」
先ほどは、一緒に机を並べた仲だといった口で?と突っ込まれたら、それは言葉の綾だと真顔で返す所存。ちょっとでも相手が改心してくれればいいなという期待を込めていっただけだ。
「……そ、そう」
根が素直なネムは動揺している。
ルヴィの言葉があまりにドライに感じたのかもしれない。
でも、実際そんなものだ。
「……ルヴがそこまでお人よしだと、手の施しようがないものね」
「え、そんなにいう?」
「ヒーカンに連絡するのは、アンドリューも了承したわ。何も問題ないでしょう」
「……そうだな?」
あいつも抜かったよなあ。アンドリューにどんな思惑があったにせよ、今アンドリューが想定しているものとは程遠いものになっているはず。気づくのはいつのことになるだろう……。
「つか、オレがあいつの味方する理由もなくね?」
好感度で言ったらマイナスだ。
聞いたことないが、嫌悪度を用いるのが正しい指標かもしれない。
「さっさと連絡しようぜ、夜中だけど」
「夜中だけれど……取ってくれそうな気がするものね」
そんな謎の厚い信頼を胸に、ヒーカンへ電話を掛けた。
数コールでつながり、眠たくもなさそうなはっきりした口調で電話口に出た。その相手に、手短に用件を伝え終わって電話を切った。そして大きな欠伸をする。時刻はいよいよ夜更けも近くなってくる。そして今日も講義があるのだ。
「悪いけど、話は今日カレッジから帰ってきてからな」
「あと何時間眠れるかしら。早く睡眠をとらないと」
とっくに日付は超えている。深刻な被害のない侵入事件と講義なら、後者が重要だ……と今の眠たい頭ではそのような考えに至る。首を振って、なんとか眠気を散らしながら、ネムと相談する。
「んでも……こいつどうする?」
ネムがちらりと視線を向ける。
悩みどころだ。ルヴィたちはこの後すぐに眠らなくてはならない。
「オレの部屋に閉じ込めて、オレはネムんとこに行くんでも?」
「貴重品も念のため、移動させておかないと」
「部屋に持ってっていー?」
「いいわ」
ネムがため息をつく。
「………通報したほうが面倒が少なかったのかもしれないわね」
「まーなあ……」
パトリックから噂に聞いていたけれども、正直この自信家な男が、女学生に乱暴するほど女に困っているようには思えないし、どちらかというと薬に手を出すような人間を逆に見下すようなタイプだと思っていたので、印象と一致しないと感じていた。
「通報、しないのか?」
「そうお前が選んだんだろ?」
「本当にしないとは思わなかった」
「……なあに、それ。今から通報すればいいってこと……?」
顔面通りに受け取ったネムが、携帯を片手に思案している。
「くそっ疑問を口にしただけだ!」
「なんだ、皮肉かと思ったぜ」
「皮肉を言われたの、わたし?」
絶妙に会話がかみ合わない三人になってしまう。
間に立って奮闘するのも面倒で、欠伸しながら切り上げる。
「まあ、いいから寝ようぜ。オレら、忙しいんだから……」
「お前はいつもそう言うな」
「実際そうだしな」
アンドリューをルヴィの部屋に突っ込み、大事なものをネムの部屋に持っていってから、拘束を解く。
「バストイレ付きだから、好きに使えよ。あ、でも、この扉は外から縛っとくから、変な真似するなよ。じゃ、お休みー」
「……………ああ」
ネムの肩を抱えて、扉を閉めると、その直前に見えたアンドリューが妙な顔をしていたが、眠過ぎて気にならなかった。ネムに壁際に行くよう勧められ、お邪魔する。ネムが部屋の内鍵を閉めてから、横に来てサイドテーブルの明かりを消す。壁際の小窓から冷ややかな風を感じたが、ルヴィはすとんと眠りに落ちた。
朝、目が覚めた。さすがにいつものような4時台には目が覚めず、7時に目が覚めた。イクシオリリオンの時と同じように、ネムの部屋にルヴィの服が数着あるのでそれに着替えて、朝食の準備をしにリビングに行こうと部屋を出ると、向かいの扉にぐるぐる巻きのノブが見えて、不本意な居候の存在を思い出す。
リビングに行き、三人分の朝食を作っていると、ネムが遅れてやって来た。
「あの人の分も用意したのね」
「さすがにな」
肩を竦めて、さらに目玉焼きを乗せていく。
「でも、わたしたちがいない間、どうすればいいのかしら」
「もし犯罪者だったら、大変だもんな。内から鍵が開かないようにしてもらうか」
「ヒーカンは何て?」
手早く食事をしていく。
ベーコンを半熟の黄身と絡めて口に運ぶ。
「監視要員を割いてくれるってよ。オレらがカレッジに行く前にこっちに来てくれるって」
「ジャミラさんにも伝えなければね……なんでこうなったのかしら」
「それはマジで謎。でも昨晩は聞く暇がなかったからな……」
アンドリューの言い分も未だに聞いていない。
その時、携帯が鳴って出ると、ヒーカンからだった。
既に下に来ているという。
「仕事早いな」
「お皿、洗っておくわ。こっちは、あの人の分だけれど」
「オレが持って、」
「一緒に持っていきましょう」
ネムが手早く洗い、荷物をもって、ルヴィが自室の扉を開ける。
スタンガンを構えるネムが、手を下した。
「ぐっすり寝てるな」
「…………そう、ね」
ルヴィのベッドに、顔を横にしてうつ伏せに寝ているアンドリューの目尻から涙が流れているのを見て、ネムは気まずそうにした。あれだけつんけんしてたネムも、他人の涙を見ると強くは出られないのだろう。
ルヴィは机の上に皿を置いて、スプーンを置いた。
箸やフォーク、ナイフというものは危ないと、ネムが除いたので。
「行ってきまーす」
「……変な感じ」
小声で退室するルヴィに続いてネムも出る。
外からの部をぐるぐる巻きにするのはやめておいた。
一階に降り、支度をしているジャミラに、FBIの人が部屋に来ることを伝え、外に出てみると、シャツにジーンズという私服を着たヒーカンが佇んでいるのを見つけ、慌てて駆け寄る。
「ちょ! なんでヒーカン様自らが?」
「他の人を寄越すものだと思っていたのに」
ただでさえ今もエミのことで手をかけてもらっているというのに!
すると、ヒーカンは顔をしかめた。
「お前たちが呼んだんだろう。……非番の者が後で来て交替するまでのつなぎだ」
「な、なるほど?」
FBIがとんでもないブラックな職場だということは分かった。非番でも呼び出されるとは。そしてつまり、ヒーカンは非番ではないということだ。仕事があるのに寄ってくれるなんて……。良いように使ってる節があるルヴィたちはそろそろ借りばかり大きくなっていく気がする。疚しさがすごい。今度何か差し入れでもしよ……。
それはそれとして、だ。ヒーカンの両脇をネムと固める。怪訝な顔をするのを放置して、腕を掴み、レジデンスの管理人窓口にまで引っ張っていく。
「あの、この人が、マザーマリエのところでもお世話になっている人で……」
かくかくしかじかとルヴィが紹介すると、ジャミラは翡翠のような瞳をゆっくりと瞬かせて頷いた。うまく事情を説明できないが、とりあえずヒーカンがいれば無問題と力説した。
「どうも」
「失礼する」
ヒーカンがFBIのIDを見せる横で、ネムが小声で呼んできて、腕時計を見せてくる。電車の出発時刻が迫っていた。
「やべっ ヒーカン後は頼んだ!」
「あと、交代要員の方も、私服で……」
ルヴィの腕を引きながらネムが付け足す。
ヒーカンは顔をこちらへ向けて頷いた。
「抜かりない」
「さすが」
「さっさと行け。遅刻するぞ」
しっしというように手を振るヒーカンにネムがぼそりと呟く。
「………お母さんかしら」
堪えたと思ったのに、噴き出した笑い声が聞こえて顔を上げると、口を押えたジャミラがいた。目が合い、ルヴィもちょっと笑う。妙なことに巻き込まれたと思ったが、周囲に支えられて、何とかなりそうだと安心した。
「急ぎましょう、ルヴ。それでは」
「行ってきます!」
「気をつけろ」
「行ってらっしゃい」
ジャミラの声に、二重で柔らかな老婦人の声が聞こえた気がしてちょっと感傷的になり――そんなこともかき消す勢いで駆けだした。新記録で駅のホームについて電車に乗り込んだ。いつも通りの時間に間に合った。




