消えた修理費の行方
嵐が去って三日目、村の空にはまだ薄い雲が残っていた。
崩れた仮水路の土壁は乾き始めていたが、流された板や杭の跡は、嵐の激しさをそのまま地面に刻んでいる。セレナは朝から記録板を並べ、村人たちが書き残した水位と作業時刻を照合していた。
「ここ、数字が一つ抜けている」
ノアが右手で帳面を押さえた。左腕はまだ布で吊られているが、医師の許しを得て、水車小屋の椅子に座って作業をしている。
「半刻分?」
「違う。記録が抜けているのは、数字じゃない。書き手の名前だ」
セレナは帳面を覗き込んだ。嵐の夜、第二の板を開いた時刻の欄だけ、書き手の名が空白になっている。その前後には、ガルドや水番たちの名前がある。紙が破れたわけでも、雨で滲んだわけでもなかった。
「誰が書いたか、思い出せる?」
「俺が堰へ行く前は、監督官の補佐がいた」
ノアの声が低くなる。
都から来た監督官、ベルクは、仮水路の工事を中止させた後も、村に滞在していた。セレナたちが勝手に補修を進めないよう見張るためだと称していたが、嵐の夜には姿を見せなかった。翌朝、彼は濡れた外套を着て、山道の方から戻ってきたという。
「補佐の名前は?」
「エドガー。帳簿を預かっている男だ」
セレナは立ち上がった。
水車小屋の隅には、監督官が置いていった木箱がある。修理費の支払い記録や、国から交付された資材費の帳簿が入っているはずだった。ベルクは「正式な審査が終わるまで触れるな」と命じていたが、帳簿は村の工事に使われた金の流れを示す公的な記録でもある。
「見てはいけないと言われたからこそ、見る必要があるわ」
「俺もそう思う」
ノアは椅子から立ち上がろうとした。
「あなたは座っていて」
「左腕は使えないが、目は使える」
「では、目だけ借ります」
二人で木箱を開けると、油紙に包まれた帳簿が三冊現れた。表紙には、仮水路修理費、分水堰改修費、資材運搬費と、それぞれ異なる題が記されている。
セレナは最初の帳簿を開いた。
修理費として交付された金額は、彼女が聞いていた額より多かった。木材、石材、鉄具、それぞれの購入先と数量も記載されている。だが、支出の合計を足すと、残金が不自然に少ない。
「この金額で、木材はこれだけ?」
ノアが頁を指した。
「村へ届いた木材の量と合わない。帳簿では、ここに二十本とあるが、実際に運ばれたのは八本だった」
「嵐の前に使った分を差し引いても、足りません」
セレナは別の帳簿を開いた。運搬費の欄には、同じ日に同じ馬車が三度、山道を往復したことになっている。しかし、村の御者たちに聞いた限り、雨の降り始めた日に山道を通った馬車は一台だけだった。
「架空の運搬費」
「それだけじゃない」
ノアは帳簿の端をめくった。
「この印、分水堰改修費の帳簿にもある」
赤い蝋印の脇に、小さな傷が二つ並んでいた。印影は同じだが、押された角度が違う。ノアはそれをじっと見つめた。
「昔、都の工房で似た帳簿を見た。支払いを別の工事へ移す時、同じ印を少しずつ削って使うんだ」
「別の工事?」
「この村の金が、どこかへ流された可能性がある」
セレナは頁をめくり続けた。最後の帳簿の後ろに、折り畳まれた請求書が挟まっていた。宛先は王都近郊のラウルの家が所有する工房。品目は水門用の鉄具、運搬用の木材、設計監修料。
セレナの指が止まった。
「ラウルの家……」
その名を口にした途端、胸の奥で古い傷が開いた。婚約を一方的に解かれた日の冷たい広間。彼女の測量記録を、ラウルが自分の成果として発表した時の拍手。あの家が、今度は村の修理費に手を伸ばしている。
「監督官は、ラウルの家から来たのか」
「派遣元は王都の水利局ですが、推薦したのはラウルの叔父だと聞いています」
「では、最初から工事を失敗させるつもりだった?」
ノアはすぐには答えなかった。
「金を流すには、工事が途中で止まった方が都合がいい。足りない資材を理由に追加費用を申請し、実際には別の場所へ運ぶ」
セレナは帳簿を見下ろした。数字はただの数字ではなかった。そこには届かなかった木材の本数、作業を止められた日数、村人が自分の手で補った不足分が刻まれている。
さらに頁の隅に、黒い墨で小さく書かれた一文があった。
『堰の改修は、原設計を変更して実施。水量不足については、天候によるものと報告』
署名はベルクだった。
セレナの背中を冷たいものが走った。
「堰の改造と、金の流れがつながっている」
「水を減らせば、工事が必要になる。工事を必要に見せれば、金を動かせる」
ノアは帳簿を閉じた。
「問題は、これだけでは証拠として弱いことだ」
「ええ。帳簿が本物だと証明し、実際の支出と照合しなければならない」
「ベルクに返せば、証拠は消える」
セレナは窓の外を見た。村人たちは崩れた水路のそばで、再び石を積み始めている。誰もが、自分たちの暮らしを守るために働いていた。その背後で、誰かが水と金の両方を奪っていたのだ。
「消させないわ」
彼女は三冊の帳簿を一冊ずつ包み直した。
「まず、村に届いた資材を数える。御者にも話を聞く。支払いを受けた店が実在するか、代金を受け取ったかも確かめる」
「危険になる」
「もう危険の中にいるわ。知らないふりをすれば、次に失われるのは修理費だけではない」
その日の夕方、ベルクが水車小屋へやって来た。
「帳簿を確認したい」
彼は濡れてもいない外套を整え、いつものように冷たい目でセレナを見た。
「お預かりします」
セレナは木箱を閉じたまま答えた。
「村の工事に関する公的記録です。確認するなら、村人の立ち会いをお願いします」
「あなたに指図する権限はない」
「では、なぜ修理費の帳簿に、ラウル家の工房への支払いがあるのですか」
ベルクの顔から、わずかに血の気が引いた。
ノアが静かに立ち上がる。片腕しか使えないのに、その姿は以前より大きく見えた。
「運ばれていない木材の代金もある。記録と現物を照合すれば、すぐに分かる」
「無礼な……」
「無礼かどうかは、数字に聞けばいいでしょう」
セレナは帳簿の表紙を撫でた。
「この金がどこへ消えたのか、私は最後まで追います。水の流れを隠せないように、金の流れも隠せないことを示すために」
ベルクは何も言わず、踵を返した。
扉が閉まった後も、しばらく誰も口を開かなかった。
やがてノアが言った。
「後戻りできなくなったな」
「最初から、戻る道はなかったのかもしれないわ」
セレナは新しい頁を開いた。
そこへ、帳簿の金額と、実際に届いた資材の数を書き始める。
水路を守るための記録は、今度は金の流れを追う地図になった。




