古い原図が示す真実
翌朝、セレナは夜明け前に水車小屋を出た。
帳簿に記されたラウル家の工房名は、村のものではなかった。だが、資材の送り先として記載された地名には、かすかな覚えがある。父の古い測量日誌に、かつて水路を調べた村として書かれていた名前だ。
西の谷にある三つの村。いずれも同じ川から水を引き、同じ分水堰を通って畑へ流していた。
「ここへ行くのか」
ノアが荷車の脇で尋ねた。左腕はまだ吊られているが、顔色は前日よりよかった。
「帳簿の数字と、実際の水の記録を照らし合わせるの。もし他の村でも同じ改造が行われているなら、偶然ではない」
「俺も行く」
「腕が治るまで待って」
「待っている間に、誰かが記録を燃やすかもしれない」
セレナは反論しかけたが、ノアの右手に握られた包帯を見て口をつぐんだ。彼は傷を隠しているのではない。痛みを抱えたまま、それでも必要な場所へ行こうとしている。
「では、無理をしたら戻ること。これは命令よ」
「命令なら従う」
「相棒として?」
「相棒としてだ」
二人はまず、谷の入り口にある小さな村を訪ねた。
村長の老人は、セレナの名を聞くと警戒した。都から来た監督官が、すでに何度も「水不足は天候のせいだ」と説明していたからだ。
「三年前までは、春の終わりにも畑を満たせた。だが、堰の石を組み替えてから水が細くなった」
老人は納屋の奥から、古びた木箱を運び出した。
「記録を残せと言ったのは、先代の水番だ。役に立たぬと思っていたが……」
箱の中には、毎月の水位を記した板と、堰の開閉時刻を書いた帳面があった。セレナは一枚ずつ確認した。
改造前の記録では、上流の水量が減った月にも、分水後の各村の配分はほぼ一定だった。ところが改造後は、最初の村だけが一時的に増え、二番目と三番目の村では急激に減っている。
「上流側の分水口が広げられている」
ノアが記録板の線を指した。
「その代わり、下流へ流れる水路の角度を変えている。水が戻れない構造だ」
セレナは息を止めた。
「故意に、一つの村へ水を偏らせたのね」
「偏らせれば、下流の村は新しい工事を求める。工事を請け負う者だけが利益を得る」
老人は震える手で別の紙を差し出した。
「改造をした職人の受領書だ。代金は王都の工房から出ている」
そこには、帳簿にあったものと同じ赤い印が押されていた。
次の村、その次の村でも、同じ記録が見つかった。堰の改造時期は少しずつ異なるが、いずれもラウル家の工房から鉄具と設計監修を受けたことになっている。ところが、実際に工事をした職人たちは、支払われた額の半分しか受け取っていなかった。
「残りは監督官へ渡せと言われた」
かつて堰の修理を担当した老職人が語った。
「断れば仕事を失う。だから黙った」
セレナは、彼の震える声を紙に書き留めた。
村を出る頃には、荷車に新しい記録が積まれていた。三つの村の水量表、改造前後の堰の図、職人たちの受領書、そして工房から渡された設計書の写し。
夕暮れ、水車小屋へ戻ると、ガルドが待っていた。
「セレナ、これを見てくれ」
彼は屋根裏から一枚の布包みを持ってきた。亡くなった父が生前使っていた測量道具の箱だった。
「物置を整理していたら、底板が二重になっているのを見つけた」
セレナは慎重に底板を外した。
中から、黄ばんだ羊皮紙が現れた。
折り目を開くと、古い水路網の全体図が広がった。現在の地図とは違い、三つの村へ水を分ける本来の流れが細かく描かれている。分水堰の位置、石組みの角度、増水時に水を逃がす側溝まで、正確な線で示されていた。
そして図の端には、父の筆跡で短い言葉が残されていた。
『この堰は、下流の三村を生かすために設計した。上流だけを豊かにすれば、谷全体が死ぬ』
セレナの指が震えた。
「お父さまは、知っていたのね」
「改造のことを?」
「危険になることを。けれど、この原図が消された。父は何度も訴えたのに、正式な記録から外されたんだわ」
原図の裏には、提出先と日付が記されていた。父が水利局へ届けた日付。その三日後に、ラウルの叔父が新しい改修案を提出している。
改修案の線は、原図をなぞったように見えた。しかし、下流へ水を逃がす側溝だけが消されていた。
セレナはゆっくり息を吐いた。
ラウル家は父の設計を盗み、危険な部分だけを変え、その責任を天候になすりつけた。さらに、故意に水を減らして工事を生み出し、村の金を自分たちの工房へ流していたのだ。
「これで核心が見えた」
ノアが言った。
「ええ。でも、原図だけでは足りない」
「だから村を回った」
「改造前後の水量記録がある。複数の村で同じ変化が確認できる。職人の証言もある。帳簿と現物の差も示せる」
セレナは原図を胸元へ引き寄せた。
「父は一人で戦って負けた。でも、私は一人ではない」
窓の外で、村人たちが灯りを掲げて集まっていた。ガルドが帳簿を持ち、若い水番たちが記録板を抱えている。誰もが黙っているが、その目にはもう怯えだけはなかった。
ノアはセレナの隣に立った。
「次は、誰に見せる」
「村人全員に。隠された水路の図を、隠された金の流れを、すべて広げる」
彼女は原図を机の上に置き、その周囲に各村の記録を並べた。
流れは一つだった。
水も、金も、盗まれた設計も、すべて同じ場所へ向かっていた。
そして今、その流れを逆にたどる証拠が、セレナたちの手の中に集まっていた。




