家名を捨てて組合を作る
村人たちが水車小屋に集まった夜、セレナは机の上に並べた記録を一枚ずつ説明した。
古い原図。三つの村の水量表。改造を請け負った職人たちの受領書。帳簿に記された金の流れ。
どれか一つだけなら、言い逃れはできただろう。だが、すべてを重ねれば、同じ結論にたどり着く。水を奪う堰の改造は偶然ではなく、工事を生み出すために仕組まれたものだった。
「これを、明日にも領主館へ届けよう」
ガルドが言った。
「領主館では握り潰される」
セレナは静かに答えた。
皆の視線が彼女に集まる。
「私の父も、原図と記録を持って訴えた。それでも、正式な記録から消された。今度は同じ場所へ同じ形で持ち込むだけでは、また誰かに奪われる」
「では、どうする」
村長が尋ねた。
セレナは一枚の白紙を取り出した。そこには、昼間から考えていた言葉が書かれている。
「村ごとに別々に訴えるのをやめるの。水路を使う人、修理する人、記録する人が一つの組織になる。誰か一人の名前や家の力ではなく、参加した全員の権利として、証拠と水路を守るのよ」
「組織……組合か」
老職人が呟いた。
「ええ。水路組合を作る。工事の契約も、記録の保管も、支払いの確認も、組合の名で行う。誰かが勝手に設計を持ち去ったり、村ごとに分断して脅したりできないようにする」
言葉にすると、あまりにも大きな決断に思えた。
組合を作れば、伯爵家の庇護から離れることになる。セレナが持っている領主の娘という立場は、交渉の場では確かに役立つ。だが同時に、その名は証拠を隠すためにも利用される。
伯爵家の娘が騒ぎを起こしている。
家同士の争いにすぎない。
婚約を失った令嬢の逆恨みだ。
ラウルたちは、きっとそう言う。
だからこそ、家名を前に出してはいけなかった。
その夜半、領主館から使者が来た。
黒い外套を着た男は、セレナに封蝋の施された手紙を差し出した。差出人は父だった。
『ただちに館へ戻り、所持する書類を伯爵家へ預けよ。問題は家の者が処理する。村人を扇動する行為を止め、これ以上の騒ぎを起こしてはならない』
短い文面の最後には、父の署名があった。
「お嬢さま、これはご命令です」
使者が言った。
「証拠を預けろということは、隠せということね」
「伯爵家が責任を持って扱います」
「ラウル家と話をつけるために?」
男の顔がわずかに強張った。
「家同士の問題です。お嬢さまが村人の前に立てば、伯爵家の名も傷つきます」
「では、もう傷ついているわ」
セレナは手紙を折りたたんだ。
「父の名を守るために、父が残した記録を消せというのなら、私は従わない」
「お考え直しください。家名を失えば、あなたに何が残るのです」
その問いに、セレナはすぐ答えられなかった。
かつては自分も、家名がなければ何もできないと思っていた。測量の成果を奪われても、婚約を一方的に解かれても、伯爵家の娘として正しい場所に戻るしかないのだと。
だが、目の前には水路を直すために夜遅くまで働いた人々がいる。壊れた堰の寸法を測ったノアがいる。負傷した腕をかばいながら、村ごとの水の流れを確かめた相棒がいる。
残るものは、家名だけではない。
「家名を失うことが怖くない、と言えば嘘になるわ」
セレナは手紙を使者へ返した。
「でも、家名を守るために村を見捨てるほうが、ずっと怖い」
使者は何か言いかけたが、やがて封筒を受け取り、外へ出ていった。
戸が閉まると、ノアが低い声で尋ねた。
「本当に、戻らないのか」
「戻れないのではなく、戻らないのよ」
「伯爵令嬢でなくなるかもしれない」
「それなら、セレナとして働く」
ノアはしばらく黙っていた。それから机の端に置かれた白紙を見た。
「組合の規約が必要だ」
「書ける?」
「水車の修理図なら書ける。文章は苦手だ」
「なら、二人で作るわ」
セレナは紙を中央へ寄せた。
組合員は、水路の利用者であること。
設計と測量の記録は、組合の共有財産とすること。
工事費は公開し、支払いは複数人で確認すること。
水の配分は、上流と下流の代表がともに決めること。
誰の家名も、組合員の権利より上には置かないこと。
一行書くたび、集まった人々が意見を出した。若い水番は記録の保管場所を提案し、老職人は工事の検査方法を加えた。村長たちは、三つの村が同じ一票を持つことを確認した。
やがて最後の欄が残った。
「代表者は誰にする」
ガルドが尋ねた。
皆がセレナを見た。
「私は代表にはならない」
彼女は言った。
「私は測量と設計を担当する。組合の名を一人の名で縛りたくない。代表は村ごとに選び、重要な決定は全員の記録に残すべきよ」
ノアが小さく頷いた。
「それが、盗まれない仕組みだ」
夜が明ける頃、最初の規約が完成した。
署名欄には、村長、職人、水番、畑を耕す者たちの名が並んだ。セレナは最後から二番目に、自分の名を書いた。
そして最後に、ノアが右手で署名した。
筆先が紙の上を進む音は、壊れた水車の軋みよりも小さかった。それでもセレナには、新しい流れが始まる音のように聞こえた。
「これで、あなたは伯爵家の側ではなくなる」
ノアが言った。
「最初から、村の側にいたわ」
セレナは完成した規約を持ち上げた。
「ただ、今日からはそれを隠さない」
窓の外では、朝の光が乾いた水路を照らしていた。
水はまだ流れていない。
けれど、流れを取り戻す者たちは、もう一人ではなかった。




