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雨音を測る令嬢と、水車職人の工房  作者: 銀細工ナギ


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11/20

家名を捨てて組合を作る

 村人たちが水車小屋に集まった夜、セレナは机の上に並べた記録を一枚ずつ説明した。


 古い原図。三つの村の水量表。改造を請け負った職人たちの受領書。帳簿に記された金の流れ。


 どれか一つだけなら、言い逃れはできただろう。だが、すべてを重ねれば、同じ結論にたどり着く。水を奪う堰の改造は偶然ではなく、工事を生み出すために仕組まれたものだった。


「これを、明日にも領主館へ届けよう」


 ガルドが言った。


「領主館では握り潰される」


 セレナは静かに答えた。


 皆の視線が彼女に集まる。


「私の父も、原図と記録を持って訴えた。それでも、正式な記録から消された。今度は同じ場所へ同じ形で持ち込むだけでは、また誰かに奪われる」


「では、どうする」


 村長が尋ねた。


 セレナは一枚の白紙を取り出した。そこには、昼間から考えていた言葉が書かれている。


「村ごとに別々に訴えるのをやめるの。水路を使う人、修理する人、記録する人が一つの組織になる。誰か一人の名前や家の力ではなく、参加した全員の権利として、証拠と水路を守るのよ」


「組織……組合か」


 老職人が呟いた。


「ええ。水路組合を作る。工事の契約も、記録の保管も、支払いの確認も、組合の名で行う。誰かが勝手に設計を持ち去ったり、村ごとに分断して脅したりできないようにする」


 言葉にすると、あまりにも大きな決断に思えた。


 組合を作れば、伯爵家の庇護から離れることになる。セレナが持っている領主の娘という立場は、交渉の場では確かに役立つ。だが同時に、その名は証拠を隠すためにも利用される。


 伯爵家の娘が騒ぎを起こしている。

 家同士の争いにすぎない。

 婚約を失った令嬢の逆恨みだ。


 ラウルたちは、きっとそう言う。


 だからこそ、家名を前に出してはいけなかった。


 その夜半、領主館から使者が来た。


 黒い外套を着た男は、セレナに封蝋の施された手紙を差し出した。差出人は父だった。


『ただちに館へ戻り、所持する書類を伯爵家へ預けよ。問題は家の者が処理する。村人を扇動する行為を止め、これ以上の騒ぎを起こしてはならない』


 短い文面の最後には、父の署名があった。


「お嬢さま、これはご命令です」


 使者が言った。


「証拠を預けろということは、隠せということね」


「伯爵家が責任を持って扱います」


「ラウル家と話をつけるために?」


 男の顔がわずかに強張った。


「家同士の問題です。お嬢さまが村人の前に立てば、伯爵家の名も傷つきます」


「では、もう傷ついているわ」


 セレナは手紙を折りたたんだ。


「父の名を守るために、父が残した記録を消せというのなら、私は従わない」


「お考え直しください。家名を失えば、あなたに何が残るのです」


 その問いに、セレナはすぐ答えられなかった。


 かつては自分も、家名がなければ何もできないと思っていた。測量の成果を奪われても、婚約を一方的に解かれても、伯爵家の娘として正しい場所に戻るしかないのだと。


 だが、目の前には水路を直すために夜遅くまで働いた人々がいる。壊れた堰の寸法を測ったノアがいる。負傷した腕をかばいながら、村ごとの水の流れを確かめた相棒がいる。


 残るものは、家名だけではない。


「家名を失うことが怖くない、と言えば嘘になるわ」


 セレナは手紙を使者へ返した。


「でも、家名を守るために村を見捨てるほうが、ずっと怖い」


 使者は何か言いかけたが、やがて封筒を受け取り、外へ出ていった。


 戸が閉まると、ノアが低い声で尋ねた。


「本当に、戻らないのか」


「戻れないのではなく、戻らないのよ」


「伯爵令嬢でなくなるかもしれない」


「それなら、セレナとして働く」


 ノアはしばらく黙っていた。それから机の端に置かれた白紙を見た。


「組合の規約が必要だ」


「書ける?」


「水車の修理図なら書ける。文章は苦手だ」


「なら、二人で作るわ」


 セレナは紙を中央へ寄せた。


 組合員は、水路の利用者であること。

 設計と測量の記録は、組合の共有財産とすること。

 工事費は公開し、支払いは複数人で確認すること。

 水の配分は、上流と下流の代表がともに決めること。

 誰の家名も、組合員の権利より上には置かないこと。


 一行書くたび、集まった人々が意見を出した。若い水番は記録の保管場所を提案し、老職人は工事の検査方法を加えた。村長たちは、三つの村が同じ一票を持つことを確認した。


 やがて最後の欄が残った。


「代表者は誰にする」


 ガルドが尋ねた。


 皆がセレナを見た。


「私は代表にはならない」


 彼女は言った。


「私は測量と設計を担当する。組合の名を一人の名で縛りたくない。代表は村ごとに選び、重要な決定は全員の記録に残すべきよ」


 ノアが小さく頷いた。


「それが、盗まれない仕組みだ」


 夜が明ける頃、最初の規約が完成した。


 署名欄には、村長、職人、水番、畑を耕す者たちの名が並んだ。セレナは最後から二番目に、自分の名を書いた。


 そして最後に、ノアが右手で署名した。


 筆先が紙の上を進む音は、壊れた水車の軋みよりも小さかった。それでもセレナには、新しい流れが始まる音のように聞こえた。


「これで、あなたは伯爵家の側ではなくなる」


 ノアが言った。


「最初から、村の側にいたわ」


 セレナは完成した規約を持ち上げた。


「ただ、今日からはそれを隠さない」


 窓の外では、朝の光が乾いた水路を照らしていた。


 水はまだ流れていない。


 けれど、流れを取り戻す者たちは、もう一人ではなかった。

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