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雨音を測る令嬢と、水車職人の工房  作者: 銀細工ナギ


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8/20

嵐の夜、水車は止まらない

 雨の匂いが、昼過ぎから村を覆っていた。


 空は低く垂れこめ、遠い山の向こうで雷が何度も鳴った。セレナは水路脇に立てた測定杭を見上げ、刻まれた赤い線を指でなぞった。朝の水位は警戒域の手前だった。それが昼を過ぎると、わずかずつ、しかし確実に上がっている。


「上流の空が黒い」


 ノアが水車小屋の屋根から降りてきた。片手には補修用の板、もう片方には縄を抱えている。


「山で降っている。村の雨より早く、水が来る」


「仮水路を閉じる?」


「閉じれば本流へ戻る。今の堰では受けきれない」


 セレナは水面を見た。細い仮水路は、村の畑へ向かってかろうじて流れを保っている。ここを守れば、下流の畑に水を送れる。だが、上流から一度に水が来れば、土の壁は耐えられない。


 迷っている間にも、雨粒が大きくなった。


「皆を呼んで」


「避難させるのか」


「作業をする。けれど、役割を分ける。子どもと年寄りは水車小屋へ。堰に近づくのは、印を確認できる者だけ。誰か一人でも危険だと言ったら、作業を止める」


 ノアは短く頷き、村へ走った。


 間もなく、雨は滝のように落ち始めた。村人たちは濡れた外套をまとい、縄や木杭を手に集まった。セレナは水位の記録板を屋根の下へ移し、測定の間隔を一刻ごとから半刻ごとへ変えた。


「上流の流れが増えたら、第一の板を外す。第二の水路へ逃がす。ただし、畑へ流れる水が途切れるから、合図を出してから」


「合図は誰が?」


「私が出します。私が倒れたら、水番のガルドさんが。ガルドさんが動けなければ、次の者が続けてください」


「お嬢さん、あんたは堰に行くのか」


 老いた水番が尋ねた。


「行きます。ノアと一緒に」


「なら、わしも行く」


「いいえ。あなたは記録板の前にいてください。誰かが戻ってきた時、数字を残す人が必要です」


 ガルドは不満そうに眉を寄せたが、やがて頷いた。


 雨音の向こうで、轟音がした。


 上流から濁った水が押し寄せ、仮水路の入口を一気に満たした。木の杭が震え、土の壁から細い水が何本も噴き出す。


「第一の板を外す!」


 セレナが叫ぶと、ノアが堰へ駆けた。二人の村人が縄を引き、板を固定していた楔を抜く。水は逃げ道へ流れたが、その勢いは想定より強かった。


「もう一枚、必要だ!」


 ノアが言った。


 セレナは水面の印を見た。赤い線を越えている。第二の板を開けば、下流の畑を守る水は減る。しかし、このままでは仮水路そのものが崩れ、すべてを失う。


「第二の板を開けて!」


 ノアが板へ手を伸ばした瞬間、堰の脇の土が崩れた。


 濁流が足元をさらい、ノアの身体が傾く。セレナは反射的に縄をつかんだが、引き寄せるには重すぎた。ノアの肩が木枠に激しく打ちつけられ、彼の手から板が離れる。


「ノア!」


「縄を……柱に回せ!」


 彼は水の中で叫んだ。顔色が青ざめ、左腕が不自然に下がっている。


 セレナは一瞬、足がすくんだ。


 父の記録が脳裏をよぎる。失敗を恐れ、一人で責任を抱え、誰も巻き込まないために計画を捨てた父。けれど今、目の前には自分の判断を待つ人々がいる。ノアは水に半ば沈みながら、彼女を見ていた。


「セレナ、聞け」


「話さないで!」


「俺の命を、預ける」


 その言葉は雷鳴よりも強く、彼女の胸に落ちた。


「だから、正しいと思う方へ動かせ」


 セレナは縄を握り直した。


「皆、聞いて! ノアを引き上げる。その間に第二の板を開く。水は畑から離れるけれど、村へ戻る道は残す!」


 村人たちが一斉に動いた。縄を柱へ回し、三人が引く。別の二人が板の前へ進み、セレナの指示で楔を叩き落とす。


 板が開いた。


 水は唸り声を上げて横へ流れ、堰の圧力がわずかに下がる。ノアの身体が引かれ、セレナは彼の襟をつかんだ。最後の力を振り絞り、村人たちと共に泥の上へ引きずり上げる。


 ノアは息をしていた。だが、左肩から腕にかけて腫れ上がり、額から血が流れている。


「動かさないで。担架を!」


「小屋へ運ぶと、水路が見られない」


「私が見る!」


 セレナは即座に答えた。


「ノアは村の医師へ。水位は二人一組で測る。赤い線を越えたら、ためらわずに第三の逃がし口を開けて。畑が駄目になっても、人を守る!」


 誰も異を唱えなかった。


 雨の中、ノアが運ばれていく。彼の手が一度だけ動き、セレナの袖をつかんだ。


「戻る」


「ええ。あなたが戻る場所を、私が守る」


 ノアは目を閉じた。


 夜になっても、雨は止まなかった。仮水路の一部は崩れ、三枚の板のうち一枚は流された。それでも、村人たちは交代で水位を測り、土嚢を積み、逃がし口を開閉し続けた。


 セレナは泥にまみれた記録板へ、時刻と水位を書き込んだ。


 夜明け前、山から来た水の勢いがようやく弱まった。


 村の畑には深い水たまりが残り、何本かの畝は流されていた。だが、家々は無事だった。水車小屋も、堰も、完全には壊れていない。


 医師の小屋へ駆けつけると、ノアは右手で湯気の立つ杯を持っていた。左腕は布で固定されている。


「骨は折れていない。ひどい打撲だそうです」


 医師が言った。


「あなたは、自分の命を他人に預けるような真似を二度としないでください」


 セレナが睨むと、ノアは少しだけ口元を緩めた。


「預けた相手が、あなたなら」


「相手が誰でも危険です」


「では、次は先に相談する」


 セレナは言い返そうとして、やめた。


 窓の外では、村人たちが濡れた記録板を乾かしている。失われた水路の長さも、開いた板の時刻も、誰がどこで作業したかも、すべて書き残されていた。


 成功だけではない。崩れた場所も、足りなかった判断も、負傷者が出たことも。


 それらを隠さず記録することが、次の水路を守る力になる。


「ノア」


「何だ」


「あなたが預けた命を、私は一人で守れなかった」


「知っている」


「皆がいたから、あなたを戻せた」


「だから預けた」


 セレナは濡れた手を見下ろした。自分だけの判断では、ノアを救えなかった。村人たちだけでも、堰を守れなかった。互いの弱さを認め、役割を分けたからこそ、嵐の中で水の行き先を変えられたのだ。


 彼女は新しい帳面を開き、最初の頁に書いた。


『嵐の夜、仮水路は崩れた。それでも、人の手は止まらなかった』


 そして、その下に村人たちの名前を一人ずつ記した。


 雨が止む頃、水車はゆっくりと回り始めた。ノアのいない水車小屋で、セレナはその音を聞いた。


 壊れたものは多い。けれど、流れはまだ続いている。


 そして彼女は知った。


 誰かの命を預かるとは、その人を一人で救うことではない。皆が救えるように、道を開いておくことなのだ。

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