↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨音を測る令嬢と、水車職人の工房  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
5/20

相棒という仮契約

 最初の畑に水が戻ってから、村の空気は少しずつ変わった。


 朝になると、誰かが水路の水位を測り、昼には別の誰かが堰の石を確かめる。セレナが指示しなくても、村人たちは流れの変化を記録するようになっていた。水はまだ細く、全ての畑を潤すほどではない。それでも、昨日まで乾ききっていた土に、確かな湿り気が残っている。


 セレナは毎朝、記録帳を開いた。


 水位、流速、気温、風向き。数字を並べていくと、流れの癖が見えてくる。昼前に水が減るのは、上流の岩場で一部が地中へ逃げているためだった。そこを補うには、堰を高くするのではなく、分水板の角度を変えなければならない。


「ここを削る」


 ノアが、古い木板の一か所を指で示した。


 水車小屋の作業場には、村人たちが運び込んだ板や石が並んでいた。彼は木板を水路の模型に合わせ、流れを確かめている。模型は昨夜、セレナの設計図をもとにノアが作ったものだった。


「削りすぎると、夕方に畑側の水が弱くなります」


「なら、少しだけ削る」


「どのくらいですか」


「君が測る」


 ノアはそう言って、鉋をセレナへ差し出した。


 彼女は一瞬、受け取るのをためらった。今まで、設計する者と手を動かす者は別だと思っていた。自分は流れを読み、ノアはそれを形にする。役割は明確で、その境目を越える必要はない。


 けれどノアは、最初からその境目など気にしていなかった。


 セレナは鉋を受け取り、板の端へ刃を当てた。木の表面から薄い削り屑が舞う。力を入れすぎると板が割れるため、刃を寝かせ、一定の速さで引いた。


「少し、右が高い」


 ノアが言った。


「見えますか」


「音が違う」


 彼は板を指で叩いた。乾いた音と低い音が隣り合っている。


 セレナも耳を澄ました。たしかに、右端だけ響きが重い。


「水が当たる場所ですね」


「そうだ」


 彼女はもう一度刃を入れた。今度は滑らかに木が削れた。


 模型の水路へ水を流すと、流れは板にぶつかって二手に分かれた。以前よりも水車側へ逃げる量が少なく、畑側へ向かう筋が長く伸びていく。


「これなら、昼の水位が落ちても持ちます」


 セレナが言うと、ノアは頷いた。


「現場で試す」


 翌日、二人は上流の分水堰へ向かった。村人たちも後から続いた。分水板を取り替え、石の隙間を詰め、逃げ水が出ていた斜面には粘土を混ぜた土を押し込む。


 作業の途中、セレナは堰の脇に立つ古い杭へ目を留めた。そこには、以前の水位を示す傷がいくつも刻まれている。高い位置の傷は、畑へ十分な水が流れていた時代のものだろう。


「ノア、ここを見てください」


 彼は泥のついた手を拭き、杭の前へ腰を下ろした。


「この傷まで水が上がった記録が残っています。堰を戻せば、まだこの水位を使える」


「今の水量で?」


「水量が同じなら、形を戻すだけで届きます。あとは逃げ道を塞ぐ」


 ノアは杭から目を離し、堰の下流を見た。


「形だけでは足りない」


「ええ。だから記録します。季節ごとの水量を残して、次に直す人が迷わないように」


 彼はしばらく黙っていた。


「次に直す人?」


「水路は、私たちがいなくなっても残ります。誰かが守れるようにしておくべきです」


 セレナの言葉に、ノアは小さく息を吐いた。


「君は、先のことばかり考える」


「あなたは、目の前のことばかり見ているように見えます」


「違う。目の前を直さないと、先のことは考えられない」


 その返事に、セレナは思わず笑った。


「では、ちょうどいいですね」


 午後、分水板を固定してから、ノアが堰の中央に木槌を打ち込んだ。水は板の表面を滑り、以前よりも均等に左右へ分かれた。畑側の水路を進む流れは細いながらも途切れず、昨日より先へ伸びていく。


 最初の畑を越え、次の畑の入口まで水が届いた。


 村人たちから歓声が上がった。老農夫は帽子を脱ぎ、濡れた土へ深く頭を下げる。若い者たちは水路に沿って走り、どこまで水が来たのかを確かめていた。


 セレナは記録帳に水位を書き込んだ。数字の横には、今日の天候と作業内容も添える。


「また書いている」


 ノアが隣から覗き込んだ。


「忘れたら、同じ失敗を繰り返します」


「君の設計図も?」


「設計図は、読む人がいなければただの紙です」


 セレナは帳面を閉じた。


「だから、あなたにも読んでもらう必要があります」


 ノアは彼女を見た。灰色の目に、川面の光が揺れている。


「俺に?」


「あなたは水路を形にする人です。流れを知らない設計は、現場で崩れます」


「君は俺を雇った」


 突然、ノアが言った。


 セレナは返事を止めた。二人の間には、最初に交わした仮の協力契約があった。彼女が費用を払い、ノアが作業を請け負う。少なくとも紙の上では、そうなっている。


「契約では、そうなっています」


「契約を変えたい」


 風が水路の草を揺らした。


「報酬を増やすという意味ですか」


「それも必要だ。だが、それだけじゃない」


 ノアは水の流れへ目を向けた。


「俺は、君の隣で働きたい」


 セレナの指が、記録帳の表紙を強く押さえた。


「隣で?」


「雇われて、言われた通りに作るんじゃない。君が流れを読む。俺が形にする。うまくいかない時は、二人で直す」


 ノアは一度言葉を切った。


「俺は、君の相棒になりたい」


 胸の奥で、細い水が堰を越えたような気がした。


 セレナは視線を落とし、契約書の入った封筒を取り出した。最初に書いた条項には、作業の範囲と報酬、期間だけが記されている。相棒という言葉を置く場所など、どこにもない。


「仮契約でしたね」


「そうだ」


「なら、次の契約を作りましょう」


 セレナは封筒を開き、余白のある紙を一枚取り出した。


「設計と施工を共同で行うこと。記録と成果を二人の名で残すこと。どちらか一方の判断だけで水路を変更しないこと」


 彼女は書きながら続けた。


「そして、利益が出たら、働いた村人たちにも分けること」


 ノアは黙って聞いていた。


「不満はありますか」


「一つ」


「何ですか」


「君の名前を先に書くな」


 セレナは顔を上げた。


「では、どう書きます」


「並べて書く」


 彼女は少し考え、紙の中央に二つの名前を並べた。


 セレナ・アーデル。

 ノア・グレン。


 その下に、新しい契約の条項を書き加える。最後に二人で署名をした。


 ノアは自分の名を見つめ、それからセレナへ手を差し出した。


「これで、相棒か」


「仮契約です」


「まだ仮なのか」


「水路が全部つながるまで」


 セレナが答えると、ノアの口元がわずかに緩んだ。


「長い仮契約だ」


「その分、確かめる時間があります」


 二人は固く手を握った。職人の手は傷だらけで、セレナの手にも鉋の跡が残っていた。けれどその重なり方は、命令する者と従う者のものではなかった。


 夕方、二人の名が並んだ新しい設計図が、水車小屋の壁に貼られた。


 村人たちはそれを見上げ、次に直すべき水路を話し始めた。遠くでは、水車が久しぶりにゆっくりと回っている。


 その音を聞きながら、セレナは思った。


 水は一人の力では流れを変えない。石を動かす手と、進む道を見つける目。そのどちらも欠ければ、やがて流れは途切れる。


 ならば、自分たちは二人で進めばいい。


 たとえこの先、都から誰かが来て、また彼女の設計を否定しようとしても。今度は、隣に立つ者がいる。共有した記録がある。そして、自分たちの手で戻した水がある。


 最初の一枚は、もう一枚では終わらない。


 新しい設計図の上で、水路は村全体へ向かって伸びていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。