都から来た工事中止命令
朝、水車小屋の前に見慣れない馬車が止まった。
黒塗りの扉が開き、濃紺の外套を着た男が降りてくる。胸元には王都水利局の徽章が光っていた。その後ろには、帳簿を抱えた若い役人と、二人の護衛が立っている。
男は村人たちを見回し、セレナの前で足を止めた。
「セレナ・アーデル嬢ですね」
「そうです。あなたは?」
「王都水利局監督官、エドガー・ヴァイス。こちらの工事について、正式な中止命令を預かっています」
彼は封蝋の押された書状を取り出した。
セレナは受け取る前に、封の印を確認した。王都水利局の紋章に間違いはない。けれど、書状を開く指先に、冷たいものが触れた気がした。
「理由を伺っても?」
「提出された設計図に重大な欠陥があるためです」
エドガーは淡々と答えた。
「現在の水量では、あなたの設計した分水堰は下流の水圧に耐えられない。堰が崩れれば、畑だけでなく村の家屋にも被害が及ぶ可能性があります。よって、調査が終わるまで一切の工事を禁じます」
村人たちの間にざわめきが広がった。
セレナは書状を開いた。そこには、設計者として彼女の名が記され、危険な施工を独断で進めたと書かれている。最後の署名欄には、王都水利局長の名があった。
「この設計図は、どこから入手しましたか」
「あなたが領主館へ提出したものです」
「私は領主館へ完成図を提出していません。現場の記録とともに、段階ごとの案しか渡していないはずです」
「その差を問題にしているのです」
監督官は帳簿を開いた。
「記録されている設計では、分水板の角度が現在と異なっている。あなたは途中で独断の変更を加えた。水が戻ったのは一時的な現象で、長期的には堰を破壊するおそれがある」
「変更ではありません。実測に基づく調整です」
「それを証明できますか」
エドガーの声に、初めてわずかな鋭さが混じった。
セレナは周囲を見た。村人たちは不安そうに彼女を見つめている。数日前まで喜んでいた水路の水が、今は疑いの中にさらされていた。
「できます」
答えたのはノアだった。
彼は水車小屋から、厚い記録帳を持って出てきた。
「堰を直す前と直した後の水位、流速、分水板にかかった水圧を記録している。水が増えた時の逃げ道も、図にしてある」
「職人の記録に公的な効力はありません」
「公的な記録だけが正しいとは限らない」
ノアは帳簿を閉じた。
「水は、役所の印を見て流れを変えたりしない」
村人の何人かが息を呑んだ。監督官は眉を寄せたが、怒鳴りはしなかった。
「ならば、その記録も提出しなさい。検査が終わるまで、堰には触れないように」
「工事を止めれば、下流の畑が枯れます」
セレナが言った。
「それは設計者であるあなたの責任です」
その言葉が、胸の奥へ重く沈んだ。
ラウルに功績を否定された時と同じだった。誰かが先に結論を決め、彼女の言葉を聞く前に責任だけを押しつける。
だが、あの時とは違う。
背後には、乾いた畑を耕してきた村人たちがいる。壁には、ノアと並べて書いた自分の名前がある。ここで感情のまま反発すれば、彼らまで危険な工事を続けた人々として扱われる。
セレナは書状を折り、監督官へ返した。
「中止命令には従います」
村人たちから驚きの声が上がった。
「ただし、調査に必要な記録の閲覧を求めます。設計図の提出経路、工事費の支出記録、そしてこの命令が出された根拠を、すべて公開してください」
「あなたに請求する権利があると?」
「工事の当事者として。また、この水路を使う村の代表として」
エドガーは彼女を見つめた。しばらくして、薄い笑みを浮かべる。
「ずいぶん強気になりましたね。都では、そういう態度は身を滅ぼします」
「ここは都ではありません」
セレナは水路の方へ目を向けた。
「水がどこから来て、どこへ流れたかを、誰もが確かめられる場所です」
監督官は返事をせず、役人へ指示を出した。役人は堰の位置を書き留め、村人たちに工事道具を片づけるよう命じる。
ノアがセレナの隣へ立った。
「従うのか」
「命令には従います。でも、記録は止めません」
「調査が終わるまで工事はできない」
「工事と調査は別です。水位を測り、流れを記し、堰の状態を観察することまで禁じられてはいません」
ノアは少し考え、頷いた。
「なら、俺は道具をしまう。代わりに測定器を出す」
「お願いします」
二人は水車小屋へ戻った。村人たちも黙って続く。誰もが不安を抱えていたが、記録帳を持つ者、杭を測る者、写真機の代わりに変化を写し取る絵師を呼ぶ者へと、自然に役割が分かれていった。
セレナは机に新しい紙を広げた。
「今日から、毎日の水量を二部ずつ残します。一部は村で保管し、一部は王都へ送る。誰かに隠されたり、書き換えられたりしないように」
「王都へ送っても、握りつぶされるかもしれない」
若い農夫が言った。
「その可能性はあります」
セレナは正直に答えた。
「だから、送り先を一つにしません。水利局、領主館、近隣の村、そしてここにも残します。記録が多ければ、一枚を消されても事実は消えません」
ノアが彼女の横で紙を押さえた。
「逃げ道を作るんだな」
「水路と同じです。一つ塞がれても、別の道から流れるように」
彼はわずかに笑った。
夕暮れ、監督官の馬車が去ったあとも、水路には細い流れが残っていた。工事は止まり、村の期待も一度は凍りついた。それでも、水は堰の下を抜け、畑へ向かっている。
セレナはその水位を記録し、数字の横に時刻を書き込んだ。
止められたのは、手を動かすことだけだ。
ならば今は、目を開き、耳を澄まし、誰にも奪えない証拠を積み重ねる。
水が流れたという事実を、誰かの言葉ではなく、村全体の記録にするために。




