↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雨音を測る令嬢と、水車職人の工房  作者: 銀細工ナギ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/20

水のない畑に届く音

 翌朝、セレナは夜明け前に水車小屋へ向かった。


 空はまだ薄青く、森の端には白い霧が残っていた。昨夜掘り出した石片は布に包み、胸元へしまってある。古い測量印の意味を確かめるため、彼女は領主館から持ち出した記録帳を抱えていた。


 小屋の前では、ノアがすでに待っていた。


 折れた水車の羽根を一本外し、木材の状態を確かめている。セレナに気づくと、彼は小さく顎を上げた。それが挨拶なのだと、少しずつわかってきた。


「上流へ行きましょう。昨日の石に刻まれた印が、古い水路図のものなら、分水堰の位置も推測できます」


 ノアは頷いた。


 二人は水車小屋から細い水路を遡った。水路はところどころ草に覆われ、底には乾いた泥がひび割れている。セレナは歩きながら、記録帳の古い図と目の前の地形を照らし合わせた。


 父の代に作られた水路図には、森の中腹から二本の流れが描かれている。一方は村の畑へ向かい、もう一方は水車小屋へ落ちる。二本を分けていたのが、古い分水堰だった。


 だが、現在の地形にはその堰が見当たらない。


「図では、この斜面の先にあるはずです」


 セレナが指を示すと、ノアは周囲を見回した。やがて彼は、倒れた柳の根元へ歩いていく。根に絡んだ蔓を払い、乾いた土を靴先で削った。


 そこから、石の縁が現れた。


 堰だった。


 ただし、図に描かれた形とは違っていた。


 本来なら、上流から来た水を左右へ均等に分ける幅広い石組みがあるはずだった。ところが目の前に残っているのは、片側だけを高くした不自然な壁である。村の畑へ向かう溝は土で埋められ、水車小屋へ向かう溝だけが深く掘り下げられていた。


 セレナは膝をつき、石組みの表面を調べた。


「これは崩れたのではありません」


 ノアが彼女を見る。


「石が内側へ倒れています。崩落なら、下流側へ散るはずです。それに、土の締まり方も違う。誰かが水を止めるために石を外し、別の場所へ積み直した」


 セレナは記録帳を開いた。数年前の水量記録では、春の雪解け時期に村の水路へ十分な水が流れている。ところが、ある年を境に水車小屋への流量だけが増え、畑へ届く水が急激に減っていた。


 その年の記録欄には、短い言葉が書かれている。


 堰、補修。


「補修ではありません。改造です」


 セレナは呟いた。


 ノアは堰の端にしゃがみ込み、積み直された石をひとつ外した。石の下から、黒ずんだ木片が現れる。表面には釘を打ち込んだ跡がいくつも並んでいた。


 彼は木片を裏返し、指で一カ所を叩いた。


 セレナはその部分へ顔を近づけた。薄れてはいるが、数字が刻まれている。


「水位の目盛り……」


 古い分水堰には、水位を測るための板が取り付けられていたらしい。板が示す高さよりも、水を堰き止める壁のほうが高くなっている。これでは水は本来の分岐へ進まず、低い側へ流れ続ける。


「自然に枯れたのではない」


 セレナの胸の奥で、領主館で聞いた言葉が蘇った。


 天候のせいだ。山の保水力が落ちた。村人の使い過ぎだ。


 どれも、堰の形が変えられた事実を見なければ成立する説明だった。


「誰かが、水の行き先を変えたんです」


 ノアは返事をしなかった。だが、いつものように視線を逸らすこともなかった。彼は木片をセレナへ差し出した。


「証拠として保管します」


 セレナが受け取ると、ノアは堰の両側を歩き始めた。石の間隔、水路の幅、斜面の傾き。彼は手帳を持っていなかったが、見たものをすべて記憶しているようだった。


 しばらくして、ノアは地面へ炭で図を描いた。


 改造された堰。埋められた農業用水路。水車小屋へ続く深い溝。その横に、一本の線を引き、さらに小さな四角を記した。


「別の水路がある?」


 頷き、彼は森の奥を指した。


 二人が進むと、藪の中から細い溝が現れた。溝の底には湿った黒土が残っている。水は流れていないが、最近まで使われていた痕跡だった。


 セレナは溝の幅を測った。分岐した水を一度集め、別の畑へ送るための導水路だ。けれど、その入口には新しい木杭が打たれ、土で固く塞がれている。


「水を奪っただけでなく、別の流れまで隠していた……」


 彼女の指先が震えた。


 見つけた事実が大きくなるほど、誰かが意図的に水路を変えたという疑いも重くなる。もし記録を持つ者がいるなら、なぜ今まで誰も調べなかったのか。なぜ父の報告は退けられたのか。


 ノアは、彼女の手から測量尺を取った。塞がれた入口の幅を測り、次に現在の水路へ尺を当てる。二つの数字を地面へ書いた。


 同じだった。


 この水路は、村の畑へ送るために作られたものだ。


 セレナは記録帳の余白へ、堰の状態、木杭の位置、石組みの向き、水路の幅を一つずつ書き込んだ。最後に、改造前後の水量を比較するための欄を作る。


「ノア。この判断を信じてもらえますか」


 問いかけても、彼はすぐには動かなかった。


 やがてノアは炭を拾い、地面に二本の線を引いた。一方の線には石片を置き、もう一方には木片を置く。そして二つの線を手のひらで強く押さえた。


 記録を残せ、という意味だった。


 セレナは小さく息を吐いた。


「わかりました。証拠を集めて、誰にも消せない形にします」


 ノアは炭を置いた。


 その目には、初めて迷いのない信頼があった。流れを読む彼女の言葉を、ただの領主家の娘の思いつきとしてではなく、水路を動かすための判断として受け止めている。


 遠くで、乾いた畑の土が風に削られた。


 水のない場所では、音はすぐに消える。


 けれどセレナは、記録帳を閉じながら思った。消える前に拾い集めれば、どれほど小さな流れでも、やがて一本の証言になる。


 そしてその証言は、止められた水を再び畑へ導くための、最初の杭になるはずだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。