壊れた水車と無口な職人
村外れの道は、領主館から離れるほど荒れていた。
かつて水車小屋へ続いていた石畳は土に埋まり、両脇の草は乾いた風に伏せている。セレナは測量道具の箱を抱え直し、細い水路に沿って歩いた。水はほとんど流れていない。それでも底に残った砂の筋を追えば、かつてどこから水が入り、どこへ向かっていたのかがわかる。
小屋は、森の端に半ば崩れかけて建っていた。
屋根の一部は抜け、壁板には苔が黒く張りついている。水車は水路の上に傾いたまま止まり、羽根の何枚かが折れていた。軸は錆びつき、車輪の下には枯れ葉と泥が厚く積もっている。
「ひどい……」
セレナが呟くと、小屋の中から金属を打つ音が返ってきた。
カン、と乾いた音が響く。
人がいる。
セレナは扉の前で足を止めた。領主家の紋章が入った外套を着ている以上、村人に警戒される可能性は高い。だが、音の主が水車の状態を知っているなら、話を聞かない理由もなかった。
「失礼します。ここで作業をしている方に、尋ねたいことがあります」
返事はなかった。
もう一度声をかけると、今度は音が止まった。しばらくして、扉の内側から閂が外れる。
現れた男は、セレナより頭ひとつ分ほど背が高かった。黒い髪は短く切られ、頬に細い傷がある。袖をまくった腕には、木屑と油がこびりついていた。年は二十代半ばだろう。鋭い灰色の目が、セレナの顔から箱へ、箱から外套の紋章へと移る。
男は黙っていた。
「この水車を修理しているのですか」
彼は一度だけ頷いた。
「使える状態に戻せますか」
男は水車を振り返り、折れた羽根と軸を見た。それから手を広げ、指を三本立てた。
「三日?」
首を横に振る。
「三週間」
今度は頷いた。
「そんなにかかるのですか」
男は小屋の壁に掛けられた木板を指した。そこには簡単な構造図が刻まれていた。軸受け、歯車、流れを受ける羽根。水車の回転を粉挽き小屋へ伝える仕組みまで、細かな線で示されている。
セレナは木板へ近づいた。
「軸を交換するだけでは足りない。水の落ちる位置がずれているから、回転の力が歯車へ伝わらない……」
男の目がわずかに変わった。
「水車を直すなら、まず水路を戻さなければならないのですね」
彼は頷いた。
「なら、あなたは水車だけでなく、水路の構造もわかる?」
男は木板の隅に置かれた炭を取り、床板へ線を引いた。小屋の前から上流へ伸びる水路、その途中にある分岐、さらに森の側へ続く細い溝。線の一本を何度も削り、横に短い印をつけた。
「ここが詰まっている?」
首を横に振る。
「塞がれている?」
男は炭を置き、二本の指で水が流れる方向を示した。次に、手のひらを斜めに傾け、流れが途中で落ちている様子を表す。
「傾斜が変えられている……」
セレナは息を呑んだ。
自分が領主館で訴えたことと、同じ見立てだった。だが、この男は記録も報告書も見ていない。壊れた水車と乾いた水路を見ただけで、流れの異常に気づいている。
「あなたの名前を教えてください」
男は炭で床に文字を書いた。
ノア。
「私はセレナです。領主家の者ですが、今は家の命令で来たのではありません。水路の調査を続けるために来ました」
ノアは彼女の顔を見たまま、何も言わなかった。
「あなたは、この水路を直せる。私は流れを測れる。協力すれば、水車だけでなく下流の水路も調べられると思います」
沈黙が落ちた。
遠くで、枯れた枝が折れる音がした。
ノアは床の炭を拾い、今度は短い線を二本引いた。その間に、矢印をひとつ描く。続けて、自分を示し、次にセレナを示した。
「条件を聞きたい、ということですか」
頷く。
セレナは箱から白紙と筆を取り出した。正式な契約書を作るほどの道具はない。それでも、口約束だけで進める気にはなれなかった。
「私が調査費と材料費を負担します。あなたは水車と水路の構造を調べ、修理方法を提案する。成果をどちらか一方の功績にしない。記録は二人で保管する」
ノアの目が、初めて彼女の筆先へ向いた。
「報酬は、修理が成功した場合に支払います。もし途中で資金が尽きたら、私の測量記録をあなたが自由に使えるようにします」
ノアの眉がわずかに寄った。
「不十分ですか」
彼は首を横に振り、彼女の紙を指した。それから自分の胸元を指し、炭で「名」と書く。
「名前を記録すること?」
頷いた。
「あなたの設計や修理方法を、私が勝手に使わないことも書きます。私の測量も、あなたの許可なく誰かへ渡しません」
ノアはしばらく紙を見つめていた。
やがて、木板に置かれた古い釘を拾い、紙の端を押さえた。炭で自分の名を書き、その横に小さな印をつける。文字は不器用だったが、迷いはなかった。
セレナもその隣に名を書いた。
二人の間に、粗末な仮の契約が結ばれた。
「明日から、上流を調べます」
セレナが言うと、ノアは水車の下を指した。そこには泥に埋もれた細い溝があった。
先にここを掘るらしい。
「今日から?」
ノアは頷いた。
セレナは思わず笑った。領主館では、明日まで待てと言われ続けていた。問題を見つけても、許可を待ち、会議を待ち、誰かが責任を引き受けるのを待つ。
けれど、目の前の職人は待たない。
「わかりました。手伝います」
ノアは彼女へ鍬を差し出した。
セレナが柄を握ると、乾いた土の重さが腕へ伝わった。二人は並んで水車の下へしゃがみ込み、泥を掘り始めた。
しばらくして、土の中から小さな石片が現れた。その表面には、誰かが刻んだ古い測量印が残っている。
セレナは指で泥を拭った。
それは、水路が壊れる前に使われていた印だった。
ノアが黙って彼女を見る。
「この水路は、まだ終わっていません」
セレナは石片を握りしめた。
「ここに、直すための手がかりが残っています」
水車は動かなかった。けれどその傍らで、止まっていた二人の仕事が、確かに始まった。




