婚約より先に、枯れた水路を測る
朝靄の残る領主館の中庭で、セレナは石板を膝に置き、細い水路の線を何度もなぞっていた。
かつては銀色に光るほど水をたたえていた水路が、今ではひび割れた底を晒している。春の終わりだというのに、村の畑へ届く水は日に日に細くなっていた。上流の森に異変はない。雨量も、過去の記録と比べて極端に少ないわけではなかった。
それなのに、水だけが消えている。
「また測量ごっこかい?」
背後から、軽い笑い声がした。
振り返らなくても、誰だかわかる。ラウル・ヴァレンティ。都に近い名門伯爵家の嫡男であり、セレナの婚約者だった。
「ごっこではありません。西側の分水路で、流れの向きが不自然に変わっています」
セレナは石板を抱え直した。水の流れには癖がある。浅い場所では音が高くなり、底に沈殿物が溜まれば流れはわずかに膨らむ。目に見えない水の道筋を読み取ることが、セレナが父から受け継いだ技術だった。
「不自然も何も、古い水路だからね。壊れたところを直せば済む話だ」
「壊れたのではなく、誰かが流れを変えています」
中庭の空気がわずかに冷えた。
父である伯爵は、館の階段の上から二人を見下ろしていた。その隣には、ラウルの父親と、都から来た技師が立っている。セレナは彼らの手にある図面へ目を向けた。見慣れない印が、村の水路の要所にいくつも書き込まれている。
「セレナ」と伯爵が言った。「先ほど、ラウル殿から改修案を聞いた。王都の技師が作成したものだそうだ。お前の記録より、ずっと現実的だ」
「その案では、南の畑が干上がります」
「根拠は?」
「水路の傾斜と、分水堰の高さです。現在の堰は――」
「君の感覚の話だろう」
ラウルが遮った。
その言葉は、刃物よりもよく切れた。
「水は気まぐれだ。伯爵令嬢が石に耳を当てて、流れの心を読んだつもりになっているだけではないか」
技師が小さく笑い、ラウルの父親も同調した。父は何も言わなかった。ただ、セレナの石板から視線を逸らした。
「私は、十七か所で流量を測りました。記録もあります」
「記録なら、私の家にもある」
ラウルは懐から折り畳んだ紙を出した。そこには、セレナがまとめた数値とよく似た数字が並んでいた。ただし、結論だけが違う。彼らの報告書には、枯水の原因は異常気象であり、王都の技師による大規模改修が必要だと書かれていた。
「その記録は、いつ測ったものですか」
「重要なのは日付ではなく、結論だろう」
「測った日が違えば、水位も流速も変わります」
「君はいつから、家の決定に口を出せるほど偉くなった?」
ラウルの声から、笑いが消えた。
「婚約者として心配しているだけです」
「婚約者?」
彼は紙を畳み、冷たい目でセレナを見た。
「その婚約も、今日で終わりにしよう」
風が吹き抜け、石板の上の乾いた砂が舞った。
父が息を呑む音がした。けれど、誰もラウルを止めなかった。
「君は家の役に立つどころか、都の技師に対して無礼を重ねる。そんな相手を妻に迎えれば、我が家の評判に傷がつく」
「私が、水路の問題を話したから?」
「問題を大きくしたからだ」
セレナはラウルの顔を見つめた。幼い頃から知っている瞳だった。雪の日に手袋を貸してくれたことも、初めて測量棒を持った日にからかわれたことも覚えている。けれど今、その瞳の奥には彼女ではなく、都で得られる地位と名誉しか映っていなかった。
「承知しました」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「婚約解消を受け入れます」
ラウルの眉がわずかに動く。もっと取り乱すと思っていたのだろう。
「セレナ、待ちなさい」
父の声が落ちてきた。
「お父様。私は、水路の調査を続けます」
「もう家の事業ではない」
「では、私自身の仕事として行います」
「何を言っている。伯爵令嬢が村人の真似事など――」
「水がなければ、伯爵領もただの乾いた土地です」
誰も答えなかった。
セレナは石板と測量道具を箱にしまい、館を出た。門を越えると、舗装された道の脇に、ひび割れた水路が伸びている。底には泥と枯れ葉が残り、ところどころ白い石が露出していた。
村の方角から、農夫たちの声が聞こえた。空の桶を抱えた女たちが、井戸の前で順番を待っている。子どもたちは乾いた畑の隅で、土を指で掘っていた。
誰も彼女を見ていない。見ても、何も期待していない。
それでよかった。
セレナは水路の縁にしゃがみ込み、指先で土の硬さを確かめた。上流から流れてきた砂の粒が、一定の方向に寄っている。自然に枯れたのなら、こんな溜まり方はしない。
誰かが、水を止めている。
そしてその誰かは、記録を持ち、工事を進める力を持っている。
セレナは立ち上がった。婚約を失った痛みは、胸の奥にまだ残っている。けれど、痛みを抱えたままでも歩くことはできる。
彼女は村外れへ向かう道を選んだ。古い水車小屋がある。幼い頃、父と一度だけ中へ入った記憶があった。壊れたまま放置されて久しいが、水路の分岐を調べるには都合がいい。
足元で、乾いた水路がかすかに軋んだ。
「待っていて」
セレナは誰にともなく呟いた。
「流れを、必ず取り戻すから」




