水路を盗んだ者の責任
審査会の結論が出たのは、三日後の午後だった。
その日も王都には冷たい風が吹き、審査庁の高窓から差し込む光は、床に細長い帯を作っていた。傍聴席には前回より多くの人が集まっている。職人、記録係、遠い領地から来た水利官。それぞれが手に写しを持ち、息を潜めて中央の卓を見つめていた。
セレナはノアの隣に座っていた。
前夜、ほとんど眠れなかった。証拠は揃っている。記録も、証言も、改ざんの跡も、何度も確認した。それでも、結論が下される瞬間までは、胸の奥に細い不安が残っていた。
もし、家名の力がまた記録を押し潰したら。
もし、ラウルが別の扉を開けて逃げたら。
ノアは黙っていたが、膝の上に置かれた手が固く握られている。セレナはその手に自分の指先を重ねた。
「手が冷たい」
「あなたに言われたくない」
「同じなら、少し安心する」
ノアはわずかに口元を緩めた。
やがて審査長が立ち上がった。
「審査結果を読み上げる」
記録官が書面を開く。
「第一に、辺境領水利修復費の一部が、契約された工事以外へ流用された事実を認定する。提出された帳簿には頁の差し替えと金額の改ざんがあり、領主家の家令および工事監督官がこれに関与した」
傍聴席で息を呑む音がした。
「第二に、セレナ・アルヴェイン嬢が作成した水路設計図の写しが、本人の許諾なくラウル・ヴァレリアン側の提出書類に使用された事実を認定する。署名の書き換えと作成日の改変も確認された」
ラウルの顔から血の気が引いた。
代理人が立ち上がろうとしたが、審査長が手を上げて制した。
「第三に、ラウル・ヴァレリアンおよびその家の監督資格を剥奪する。今後五年間、王国内の公的水利工事に関与することを禁じる。また、流用された費用、未納入の資材費、設計資料の使用に対する賠償を命じる」
記録官の声が室内に響くたび、セレナの中で何かが静かにほどけていった。
勝った、とは思わなかった。
長い間、胸の内に刺さっていた棘が、ようやく抜けたのだと思った。痛みは残っている。抜けたからといって、傷がすぐ消えるわけではない。それでも、もうその棘に支配されることはない。
ラウルがこちらを睨んだ。
「君は、これで満足か」
声には怒りと、かすかな怯えが混じっていた。
「満足するために来たのではありません」
セレナは立ち上がった。
「水を戻すために来ました。あなたが失ったものを、私に返してほしいとも思っていません。奪われた設計と費用が、使うべき場所へ戻れば、それで十分です」
「僕たちは、君の家のために――」
「その話も、ここでは終わりにしましょう」
セレナは鞄から一枚の書面を取り出した。
「婚約解消について、正式な届けを提出します。先に出された一方的な通知ではなく、両家の記録と審査結果を添えたものです。これで、婚約は正式に破棄されます」
書面を審査長へ渡す。
ラウルは何か言おうとした。しかし、言葉は喉の奥で途切れた。
かつて彼が軽く口にした婚約の終わりは、今度こそ公の記録になった。誰かの都合で消されたり、書き換えられたりしない、動かしようのない事実として。
審査が終わると、傍聴席から職人たちが歩み寄ってきた。
「設計図の写しを工房で保管してもいいか」
「公開記録の整理を手伝わせてくれ」
「うちの町でも、水路の測量を頼みたい」
次々に声をかけられ、セレナは一人ずつに答えた。以前なら、王都で名を得ることに心が揺れたかもしれない。けれど今、彼女の頭に浮かぶのは、故郷の斜面と、泥の中に立つ村人たちの姿だった。
工房を作る。
測る人が報われ、作る人の名が残り、使う人が水の行方を決められる場所を。
廊下へ出ると、ノアが隣に並んだ。
「終わったな」
「ええ」
「本当に?」
セレナは窓の外を見た。王都の屋根の向こうには、細い雲が流れている。
「事件は、今日で終わりました。でも、水路の仕事は終わっていません」
「そうだな」
「帰ったら、崩れた分水口を直して、組合の規約も整えて、設計図を村ごとに分けて……」
「忙しい」
「あなたが手伝うのでしょう」
「共同契約は、まだ有効だ」
セレナは振り返った。
「契約だけですか」
ノアは少し黙った。いつものように言葉を探している顔だった。
「契約がなくても、隣で働く」
その答えは短かったが、セレナには十分だった。
彼女は笑った。王都へ来たときには持っていなかった、穏やかな笑みだった。
窓の外で、雨が降り始める。
石畳を濡らした水は、傾斜に沿って流れ、細い溝へ集まり、やがて大きな水路へ向かっていく。誰かが勝手に堰き止めなければ、水は行くべき場所へ届く。
その夜、セレナは故郷へ送る手紙を書いた。
横領は認定されたこと。設計の盗用も認められたこと。賠償金と資材が戻ること。そして、自分は家名の陰へ戻らず、村に工房を開くつもりだということ。
最後に、彼女はこう記した。
水路を盗んだ者には、責任を負わせる。
けれど私たちは、奪われた時間を憎しみだけで埋めない。
これから流れる水を、私たち自身の手で決める。
書き終えた紙を折り、封をする。
セレナが顔を上げると、窓辺に立つノアがこちらを見ていた。
「帰ろう」
「ええ。私たちの水路へ」
二人は明朝の馬車を予約した。
王都に残された裁定書は、彼らの過去に最後の印を押した。けれど、二人が向かう未来には、まだ白紙の図面がある。
その紙にどんな流れを描くのかは、もう誰にも奪わせなかった。




