都ではなく故郷を選ぶ
王都を発つ朝、空は薄い灰色だった。
馬車に積まれた荷物のほとんどは、裁定書の写しと設計図、それからノアが買い集めた工具だった。セレナの衣服は小さな箱ひとつに収まった。王都で用意された客室には、彼女を引き留めるための手紙が幾通も届いていたが、その封はまだ切っていない。
馬車が門を出ると、王都の高い建物が背後へ遠ざかっていった。
「読まなくてよかったのか」
向かいに座ったノアが尋ねた。
「どうせ、私に残るよう勧める手紙です」
「栄職の話か」
「水利審査会付きの技術官。王都の工房を自由に使えて、助手もつくそうです」
セレナは窓の外へ目を向けた。整えられた石造りの水路が、通りの端をまっすぐ伸びている。水は濁りもせず、音もなく流れていた。
「魅力的ではあります」
「なら、なぜ断る」
「私が必要とされている場所と、私が暮らしたい場所は、同じではないからです」
ノアは黙った。
セレナは膝の上の図面入れを撫でた。王都に残れば、名は広まるだろう。研究も続けられる。彼女の技術を正当に評価する人もいる。けれど、故郷の水路が完成するところを見ずに、別の土地で新しい仕事を始めることはできなかった。
あの斜面で、何度も水の流れを測った。
泥に足を取られながら、村人たちと杭を打った。豪雨の夜には、ノアの血で濡れた包帯を握った。あの場所でなければ、今の自分はなかった。
「工房の場所は決まっているのか」
「決めました。古い穀物倉を借ります。屋根を直せば、測量道具を置けるでしょう。奥に小さな作業場を作って、水車の部品も扱えるようにします」
「俺の水車まで置く気か」
「共同経営者ですから」
ノアは眉を上げた。
「いつ決まった」
「さっきです」
「契約書は」
「帰ったら作ります。あなたが逃げないように、報酬の欄をきちんと書いておきます」
「報酬は要らない」
「それでは困ります。働いた分を受け取ってもらわなければ、対等ではありません」
ノアは窓の外へ顔を向けた。耳が少し赤くなっている。
「金の話だけではない」
「では、何の話ですか」
「……工房の名前だ」
セレナは目を瞬いた。
「まだ考えていません」
「アルヴェインの名を使うのか」
「使いません」
返事はすぐに出た。
「家名を捨てるつもりはありません。でも、工房を家名の看板にしたくない。測る人も、作る人も、村人も、誰かの名前の陰に隠れずに済む場所にしたいのです」
ノアはしばらく考えた。
「流れの工房」
「少し普通すぎませんか」
「水は、普通でいい」
その言葉に、セレナは笑った。
「では、仮の名前にしておきましょう」
昼を過ぎるころ、馬車は山道へ入った。雪解け水が路肩を走り、細い流れとなって谷へ落ちている。遠くに見慣れた丘が現れたとき、セレナの胸が大きく鳴った。
村の入口では、数人の村人が待っていた。
荷台を見つけた子どもが叫び、畑から人が集まってくる。組合の代表を務める老農夫が杖を振り上げた。
「帰ったか!」
「ただいま戻りました」
セレナが馬車から降りると、次々に手が伸びてきた。王都で何が決まったのか、賠償はいつ届くのか、工事はいつ再開できるのか。質問が重なり、セレナは一つずつ答えた。
「資材は、来月には届く予定です。ただし、届くのを待つだけにはしません。今ある石と木材で、崩れた分水口を仮復旧します」
「また働くのか」
「働くために帰ってきました」
隣でノアが工具箱を下ろした。
「俺は水車場を見る」
「では私は組合の規約を――」
「先に水車だ」
「規約を先に」
「水車が止まれば、規約を読んでいる間に畑が乾く」
二人が睨み合うと、周囲から笑い声が起こった。
その日の夕方、二人は崩れた水路の前に立った。雨で削られた斜面には草がまばらに生え、仮の木枠は傾いている。以前なら、そこに立つだけで不安がこみ上げただろう。
けれど今は、村人たちが測量杭を運び、子どもたちが石を集め、老農夫が新しい当番表を手にしている。誰か一人に任せる水路ではない。皆が自分の水として守る水路だった。
「ここから始める」
セレナが言うと、ノアは頷いた。
「何度でも」
彼は杭を打ち込み、セレナは水面の揺れを見た。流れは弱い。それでも、途切れてはいない。石の隙間を抜けた水が、夕日の残る畑へ細く向かっている。
作業を終えたあと、二人は丘の上に並んだ。村の灯りが一つ、また一つと点いていく。
「セレナ」
「はい」
「工房ができたら、俺は共同経営者として残る」
「知っています」
「それだけではない」
ノアは彼女の方を向いた。無口な彼が、言葉を選びながらまっすぐ立っている。
「工房も、水路も、これからの暮らしも、お前と一緒に作りたい。結婚を前提に、という言い方でいいのかは分からないが……俺は、お前の隣にいる未来を選ぶ」
風が丘を渡った。
セレナはすぐには答えなかった。嬉しさが大きすぎて、どんな言葉も足りない気がした。
「私も、あなたと選びたいです」
やがて彼女は手を伸ばした。ノアの手は傷だらけで、硬く、温かかった。
「王都ではなく、故郷を選びます。名誉ではなく、私たちの仕事を。誰かが決めた未来ではなく、二人で作る未来を」
ノアはその手を握った。
翌朝、二人は穀物倉の壁に新しい板を掲げることにした。
そこへ刻む名は、まだ決まっていない。
けれど、白い板の下には、すでに工房の扉があり、扉の向こうには図面を広げる机と、削りかけの水車の羽根がある。
セレナは故郷の水路を見下ろした。
完成まで、まだ仕事は残っている。けれど、帰る場所はもう決まっていた。
流れる水の音を聞きながら、彼女はノアとともに丘を下った。




