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雨音を測る令嬢と、水車職人の工房  作者: 銀細工ナギ


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17/20

公開記録は誰の味方か

 王都の水利審査会は、朝から傍聴人で埋まっていた。


 法廷のような高い天井の下に、各地から集められた水路の図面と記録が並べられている。壁際には審査官が五人、中央には証言台。その向かいには、ラウルと彼の代理人たちが座っていた。


 セレナは入口で一度だけ息を吸った。隣に立つノアの手には、古い帳簿と実測記録がある。


「緊張しているか」


「ええ」


「手が冷たい」


「あなたもでしょう」


「俺はいつも冷たい」


 ノアはそう言ったが、握った指先には力がこもっていた。


 開廷を告げる鐘が鳴る。


 審査長が書類を確認し、淡々と告げた。


「本件は、辺境領の水利修復費に関する横領疑惑、ならびに設計資料の不正使用について審査する。証言と記録はすべて公開し、提出された原本は審査終了まで保管する」


 ラウルの代理人が立ち上がった。


「まず申し上げたいのは、これは一地方の内紛にすぎないということです。セレナ・アルヴェイン嬢は、婚約解消への私怨から、正当な工事を不正と決めつけている」


 傍聴席から小さなどよめきが起きた。


 セレナは目を伏せなかった。


「私は、婚約の話をここへ持ち込んでいません。水量と支出と、残された記録について説明します」


 最初に、改造前の原図が掲げられた。


 次に、堰の改造後を描いた図面。そして、同じ地点で測った水位と流量の表が、順番に壁へ映し出される。


「改造後、上流側の水位は保たれています。しかし、下流側の流量は三割以上減少した。雨量を考慮しても、減少の時期と分水口の変更は一致しています」


 セレナは指し棒で図面を示した。


「この変更により、上流の倉庫と一部の畑へ水が集められました。対して、下流の三つの村では、同じ時期に水不足が始まっている」


「数字だけでは、誰が変更したか分からない」


 代理人が遮った。


「その通りです。だから、私は数字だけで責めていません」


 セレナが合図すると、傍聴席の一角から、ひとりの女性が立ち上がった。


「私は石工組合の記録係です」


 女性は震える手で帳面を開いた。


「下流の分水口に使う石板は、二十枚納品する契約でした。けれど、現場へ運ばれたのは十二枚です。残りは納品先を変更されました。変更命令には、領主家の家令の印があります」


「その印が本物だという証拠は?」


「印章師が確認しています」


 続いて、印章師が証言台に立った。印の欠け方、押された蝋の厚み、書面に残った圧痕について、専門的な言葉で説明する。代理人が何度も質問を重ねても、答えは揺らがなかった。


 次に呼ばれたのは、荷車を扱う職人だった。


「帳簿には三十台とありますが、実際に運んだのは三台です。三十台なら、うちの馬では一日で運べません。門番の記録にも、三台と書かれているはずです」


「あなたが数え間違えた可能性は?」


「ありません」


 職人は胸を張った。


「荷車一台ごとに、車輪の軋みを直した記録がある。三台分しかない。私は水路の仕事を奪われたくて嘘をついているのではありません。嘘の帳簿で、職人の名まで汚されたくないだけです」


 傍聴席の後ろで、誰かが低く息を呑んだ。


 ラウルは苛立ったように椅子を動かした。


「地方の職人たちの記憶や手帳を、王都の正式な記録と同じに扱うつもりですか」


 審査長が顔を上げた。


「記録の価値は、書かれた場所ではなく、検証できるかどうかで決まる。発言を続けるなら、証拠に基づいて述べなさい」


 その言葉に、室内の空気が変わった。


 セレナは村人たちの記録を一枚ずつ提出した。井戸の水位、桶を満たすまでの時間、堰を開けた日の流量。どれも華やかな書類ではない。泥のついた紙、曲がった文字、端の破れた帳面。


 けれど、記された場所と日付は互いに重なっていた。


「これらは、私が一人で作った資料ではありません」


 セレナは審査官たちを見渡した。


「同じ水を使う人々が、それぞれの場所で測ったものです。誰か一人の記憶なら、疑うこともできるでしょう。ですが、離れた村で同じ日に測った記録が一致し、工事の記録とも重なるなら、無視することはできません」


 ノアが立ち上がった。


「帳簿の改ざんについて説明します」


 彼は帳面を開き、綴じ糸を示した。


「ここだけ糸の色が違う。頁を差し替えた跡です。さらに、数字を書き足した筆圧が元の文字と一致しない。三台を三十台に変えたとき、後から書かれたゼロだけが紙の表面に浮いている」


「あなたは筆跡鑑定人ではない」


「違う。俺は長年、木材と金具の傷を見てきた職人だ。だが、紙も同じだ。後から押されたものには、先にできた跡を避ける癖が残る」


 ノアは帳簿を審査官へ渡した。


「これは嘘を見抜く魔法じゃない。残った傷を順に読んだだけだ」


 しばらく、誰も口を開かなかった。


 やがて審査長が記録官へ命じた。


「提出された公開記録を、すべて照合資料として登録する。原図、実測表、荷車の記録、印章の鑑定書、帳簿の差し替え頁。いずれも写しを作り、傍聴人が閲覧できるように」


 ラウルが立ち上がった。


「公開など、民衆に迎合しているだけだ!」


「逆です」


 セレナは静かに答えた。


「誰にも見られない記録なら、権力の都合で消せます。だから公開するのです。私の言葉も、あなたの言葉も、同じ紙の上で確かめられるように」


 傍聴席の職人たちが、ひとり、またひとりと立ち上がった。


「私も証言します」


「私の工房にも、同じ石材が届いた記録があります」


「水路の板を作ったのは私です。設計図の署名が書き換えられています」


 声が重なり、静かな審査室が揺れた。


 セレナは隣のノアを見た。彼は驚いたように目を瞬かせ、それから小さく頷いた。


 公開記録は、誰かの味方になるためにあるのではない。


 隠されたものを、隠されたままにしないためにある。


 その日、審査会は結論を出さなかった。だが、提出された証拠はすべて受理され、次回までに正式な鑑定へ回されることになった。


 閉廷後、王都の廊下には、記録を読もうとする人々の列ができていた。


 セレナは窓の外を見た。遠い故郷では、今も細い水が流れている。


「次で決まるでしょうか」


「決めるのは、俺たちじゃない」


 ノアが答えた。


「残したものが決める」


 セレナはその言葉を胸に刻んだ。


 真実は、声の大きさではなく、流れ続けた水の跡によって、ようやく王都の中央まで届いたのだった。

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