ヨン
荒れ果てた部屋の中で、時間だけが静かに腐っていく。
床に散らばった物も、開けっぱなしの引き出しも、いつからこうなったのか思い出せない。いや、思い出したくないのかもしれない。
「……どこからだ」
ぽつりと零れる。
何がきっかけだったのか。
どこで間違えたのか。
いつも脳裏にはどういう訳か彼女が浮かぶ。
考えたくもない。考えようとして、すぐにやめる。
どうせ分からない。分かったところで、どうにもならない。
ただ普通に生きていたかっただけだ。
普通に、学校に行って、帰って、飯を食って、寝る。
それだけでよかったはずなのに。
「普通って、なんだよ……」
その意味すら、もう分からない。
胸の奥が空っぽみたいに軽いのに、同時に押し潰されそうに重い。
何もしたくない。
何も考えたくない。
ここにも、いたくない。
「……逃げたい」
誰に言うでもなく、呟く。
その言葉だけが、妙に鮮明だった。
気づけば、外に出ていた。
靴を履いて、鍵をかけたのかも覚えていない。
ただ、家の中にいるのが耐えられなかった。
空気が違うはずなのに、外も息苦しい。
視線が刺さる。
通り過ぎる人の顔が、全部こちらを見ている気がする。
__違う。
そんなわけない。
頭では分かっているのに。
でも。
「……見てる」
誰かが。
いや、全員が。
責めているような目で。
笑っているような気配で。
そんな目でオレを見るな、見ないでくれ。
胃の奥がひっくり返る。
「……っ、は……」
足がもつれる。
そのまま、膝をつく。
地面の冷たさが、じわりと伝わる。
堪えきれず、吐き出す。
「……っ、ぅ゛……」
何も出ない。
何も食べていないから。
ただ、胃酸だけが喉を焼く。
苦い。
痛い。
気持ち悪い。
惨めだ。
こんなところで、何やってるんだ。
でも、止まらない。
呼吸も、思考も、ぐちゃぐちゃに絡まって。
「……は……っ」
視界が滲む。
その時。
「__ 見つけた」
頭の上から、声が落ちてきた。
聞き慣れた声。
考えるまでもなく分かる。
彼女だ。
「……」
顔を上げない。
上げたくない。
今の顔を見られたくない。
惨めなところを、見られたくない。
でも、どうせもう見られてる。
「 こんなとこで何してんの 」
軽い声。
いつもと同じ調子。
嘲笑われるかと思った。
こんな姿を見て、笑われるんじゃないかって。
そう思ったのに。
「帰ろ?」
その言葉と同時に、手を掴まれる。
引かれる。
いつも彼女はそうだ。オレの話なんか聞かずに引っ張っていく。
だけど抵抗する気力もない。
どうでもいい。
どこに連れていかれても。
どうなっても。
虚ろな視界の中で、ただ彼女の背中をぼんやりと見つめる。
__小さな背中。
なのに、不思議と離れられない。
離れる気も起きない。
足が勝手についていく。
気づけば、公園だった。
誰もいない、静かな場所。
錆びた遊具と、揺れるブランコ。
俺はこの場所を知っている。
「ほら、座って」
半ば強引に、ブランコに押し込まれる。
言われるまま、座る。
鎖がきしむ音が、小さく鳴る。
「……」
何も言わない。
何も考えない。
ただ、視線を落とす。
地面がぼやける。
「もう」
彼女の声が、少しだけ近づく。
「ちゃんと座ってよね」
そう言いながら、目の前に立つ。
見下ろされる形。
顔を上げる気になれない。
なのに。
次の瞬間、視界が塞がれた。
「……え」
抱きしめられていた。
突然。
逃げる間もなく。
柔らかい温度が、身体に触れる。
ぎゅっと。
逃がさないみたいに。
「大丈夫だよ」
耳元で、静かな声。
「大丈夫」
何が大丈夫なのか、分からない。
何一つ、大丈夫じゃない。
なのに。
その言葉だけが、やけに深く落ちてくる。
「……っ」
喉が詰まる。
息がうまくできない。
でもさっきまでの苦しさとは違う。
もっと、別の何か。
「ね」
彼女が、少しだけ力を強める。
「そんな顔しないでよ」
優しい声。
でも、どこか逃がさない響き。
「ちゃんと、ここにいるから」
__ここにいる。
その言葉が、やけに重く感じる。
逃げたいはずなのに。
離れたいはずなのに。
腕は動かない。
身体が、拒まない。
むしろ。
その温度に、縋りつきそうになる。
「……なんで」
掠れた声が漏れる。
自分でも、何を聞いているのか分からない。
どうしてここにいるのか。
どうして自分なんかに触れるのか。
どうして、こんな。
「なんでって?」
彼女が、小さく笑う。
顔は見えない。
でも、その気配だけで分かる。
「だって」
少しだけ間を置いて。
「放っておけないじゃん」
あっさりとした言葉。
軽いはずなのに。
胸の奥に、じわじわと広がる。
だけどオレにはその言葉が本心ではないことはなんとなく理解していた。
「……」
何も言えない。
ただ、目を閉じる。
逃げ場みたいに。
その腕の中に、沈み込むみたいに。
離れたくない。
そんな感覚が、一瞬だけよぎった気がした。
「……どうしてだよ」
喉の奥から、掠れた声が零れた。
自分でも驚くくらい、弱い声だった。
「どうして、オレなんかに構うんだよ……」
腕の中の温度が、やけに鬱陶しく感じる。
離れたいのに、離れられない。
逃げたいのに、足が動かない。
「もう……放っておいてくれよ」
言葉が、勝手に溢れてくる。
「開放されたいんだよ、オレは……」
彼女は、すぐには答えなかった。
ただ、抱きしめる力が、ほんの少しだけ強くなる。
逃がさないみたいに。
「……あははっ」
その声と同時に。
頬に、指が触れた。
細くて、白くて、折れてしまいそうな腕。
なのに。
__強い。
「っ」
ぐい、と顔を上げさせられる。
視線が、無理やり合わされる。
逸らせない。
逸らさせてくれない。
「……ねぇ、見て」
優しい声。
でも、その手は容赦がない。
「見たくなんか……」
そう思ったのに。
もう、遅かった。
視界の中に、彼女の顔がある。
近すぎる距離で。
「私はね」
彼女が、ゆっくりと口を開く。
その瞳は、真っ直ぐで。
逸らすことを許さない。
「キミが望むなら」
一つ一つ、言葉を落とすみたいに。
「どんな姿にだってなるよ」
呼吸が、止まりそうになる。
「邪魔なものは、全部壊してあげる」
静かな声。
でも、底に何かが沈んでいる。
「でもね、キミが私を拒むなら」
指先が、頬に食い込む。
優しく触れているはずなのに、逃げ場を塞ぐみたいに。
「キミ自身を壊してあげる。」
逃げられない。
視線も、体も、思考も。
全部、縛られていくみたいに。
「私は、キミのことを」
ほんの少し、顔が近づく。
息が触れる距離。
「いつも、真っ直ぐ見てるよ誰よりも。友人や後輩、あるいは家族なんかよりもキミを大切にしてる。」
その言葉が、やけに重く響く。
頭の奥で、何かが軋む。
「ねえ」
彼女が、微かに首を傾ける。
「次は、どんなことをすればいい?」
理解が追いつかない。
何を言っているのか。
何を求めているのか。
「キミが望むなら」
その笑みが、少しだけ深くなる。
「どんな私にだって、なるよ」
「……意味わかんねぇよ…っ」
反射的に、言葉が出た。
そのまま、手を振り払う。
力任せに、突き飛ばす。
「っ」
彼女の体が、軽く後ろによろめく。
距離ができる。
息が、ようやくできる。
「……なんなん…だよッ、お前」
胸がうるさい。
頭がぐちゃぐちゃだ。
気持ち悪い。
全部が。
でも。
「えへへ」
彼女が、笑った。
その笑い方は、いつもと同じはずなのに。
どこか、違う。
「一緒だね」
ぽつりと、そう言った。
「……は?」
意味が分からない。
一緒?
何が。
何が一緒なんだ。
問い返そうとした瞬間。
ぞわり、と。
背筋を何かが撫でた。
冷たい感覚。
嫌な予感。
__知っている。
この感覚を。
この、笑い方を。
この、目を。
彼女の瞳に映るオレを。
「……っ」
思い出したくないのに。
脳裏に浮かぶ。
ぼやけていた記憶が、輪郭を持つ。
あの時の。
あの場所の。
あの瞬間の。
「……なんで」
言葉が、震える。
彼女は、ただ笑っている。
変わらない顔で。
でも、確かに。
そこにある“何か”は、変わっていて。
いや。
最初から、そうだったのかもしれない。
「……オレは」
喉が乾く。
声がうまく出ない。
それでも、絞り出す。
「……これを…」
確信が、じわじわと広がる。
逃げ場を塞ぐみたいに。
「…知ってる」
言葉の続きを、飲み込む。
言いたくない。
認めたくない。
でも。
もう、遅い。
目の前の彼女が。
その笑みが。
全部を、肯定してくるから。
ふと思い出す、俺の両親を初めて見た時、彼女は新しいおもちゃを見つけたかのような笑顔だった。




