ゼロ
はじまりなんて、大したものじゃなかった。
ただ、家が隣だった。
それだけだ。
俺の両親がまだ普通だった幼い頃、親同士が顔見知りで、ついでみたいに紹介されて、気づけば同じ場所にいることが増えていた。
それだけの関係。
それ以上でも、それ以下でもない。
「こんにちは」
最初に声をかけてきたのは、彼女の方だった。
小さくて、整った顔で、きちんと頭を下げる。
どこに出しても恥ずかしくない、いい子の見本みたいな挨拶。
それを見て、親たちは満足そうに頷いていた。
「ほんとにいい子ねぇ」
「優しくて、手がかからないのよ」
そんな声が、あたりまえみたいに飛び交う。
彼女は、それに対して、にこにこと笑っていた。
幼いくせに、作り物みたいな笑顔で。
「……ふーん」
オレは、適当に相槌を打った。
別に、興味はなかった。
隣に住んでるから関わる。
それだけだ。
それ以上、なにかを思う理由もなかった。
__はずだった。
なのに。
どうしてか、視線が引っかかる。
彼女の、目。
笑っているはずなのに。
そこだけ、妙に冷たかった。
誰も、映っていないみたいな目。
底が、空っぽみたいな。
ぞくり、とした。
理由はわからない。
ただ、見てはいけないものを見た気がして、反射的に視線を逸らした。
「どうしたの?」
すぐ隣で、声がする。
いつの間にか、彼女がこっちを見ていた。
笑っている。
ちゃんと、いつも通りに。
「別に」
短く返す。
それ以上、会話を続ける気はなかった。
関わりたくない。
そう思った。
理由なんて、うまく説明できないけど。
とにかく、嫌だった。
胸の奥に、べったりとした何かが貼り付くみたいな感覚。
それが、どうしても気持ち悪くて。
「ねえ、一緒に遊ぼうよ」
「やだ」
即答だった。
少し間があってもよかったのに、考えるより先に口が動いていた。
自分でも、ちょっと驚くくらいの拒絶だった。
でも。
「そっか」
彼女は、まったく気にした様子もなく頷いた。
笑ったまま。
傷ついた顔ひとつしない。
普通の子供なら、少しくらい表情が曇るはずなのに。
なにも変わらない。
そのことが、逆に引っかかる。
「……なんだよ」
思わず、口が悪くなる。
「なんでそんな平気なんだよ」
「なにが?」
「……全部だよ」
うまく言葉にならない。
でも、苛立ちだけが先に溢れる。
こいつは、なにも感じてないみたいで。
なにも考えてないみたいで。
それなのに、なんでもできる。
大人に褒められて、期待されて。
その全部を、軽く受け止めてるみたいに見えて。
__反吐が出る。
心の奥で、そう思った。
たぶん、嫌いだったんだ。
最初から。
「……気持ち悪いんだよ」
口に出していた。
「お前さ、なんでもできるくせに、興味なさそうで……なんか、むかつく」
言ってから、少しだけ間が空く。
さすがに、言い過ぎたかもしれないと思った。
「ふふ」
彼女は、笑った。
やっぱり、同じ顔で。
「そっか」
それだけ。
怒りもしない。
悲しみもしない。
ただ、受け流すみたいに。
なかったことにするみたいに。
その態度が、余計に苛立つ。
「なんで笑ってんだよ」
「だって」
彼女は、少しだけ首を傾げた。
考えるふりみたいに。
でも、その目はやっぱり空っぽで。
「キミ、面白いこと言うから」
「……は?」
意味がわからない。
どこが面白いんだ。
ただの悪口だろ。
普通、怒るところだろ。
なのに。
こいつは、なにも感じてないみたいに笑う。
不気味だった。
可愛げなんて、どこにもない。
ただ、形だけ整った人形みたいで。
そこにいるのに、いないみたいで。
ぞわぞわと、背中を這う感覚が消えない。
関わるべきじゃない。
そう思った。
これ以上、近づいたらだめだと。
はっきりと、そう思ったのに。
足は動かなかった。
視線も、逸らせなかった。
どうしてか、目が離せなかった。
理由なんて、わからない。
ただ。
あの日、土はまだ湿っていた。
昨日の雨の名残で、踏むたびに靴が沈む。ぐに、と嫌な音を立てるその感触が、なぜか耳に残った。
オレは、ただ帰るだけのつもりだった。
いつも通り、誰とも話さず、遠回りして、静かな道を選んで。
なのに____
体が勝手に向かっていた。彼女のいる公園へと。
行くな。関わるな。そう頭ではわかっていた。わかっていたのに。人間の好奇心というのは厄介だと、子供ながらにそう思った。
鼻をついたのは、土の匂いじゃなかった。
もっと、重たい、鉄みたいな匂い。
足が止まる。
見たくない、と思った。
でも、視線が勝手に引き寄せられる。
木の陰。
しゃがみこんだ、小さな背中。
「……なに、してるんだよ」
気づけば、声が出ていた。
掠れていて、自分でも驚くくらい弱い声だった。
その背中が、ぴくりと動く。
ゆっくりと、振り返る。
「あ」
彼女だった。
いつも通りの顔。
いつも通りの、笑顔。
「見つかっちゃった」
そう言って、くすっと笑う。
その無邪気さが、逆におかしい。
だって。
その手は。
__爪の間まで、赤く染まっていた。
乾ききっていないそれが、指先からぽたりと落ちて、土に染みていく。
視線が、勝手に下に落ちる。
そこにあったのは、猫だった。
……いや、猫だったもの。
形が崩れている。
毛が、血で固まっている。
どこからが体で、どこが違うのか、わからないくらいに。
ぐちゃぐちゃで。
壊れていて。
なのに、まだ、さっきまで生きていたような温度が残っている気がして。
「かわいそうだから」
彼女が、平然と口を開く。
「埋めてあげようと思ってたの」
その声は、優しかった。
本当に、優しいことを言っているみたいに。
でも。
オレの喉が、ひくつく。
「それ……」
言葉が、出てこない。
なにを言えばいいのかわからない。
目の前の光景と、彼女の言葉が、噛み合わない。
頭の中で、うまく処理できない。
「ねぇ」
立ち上がり、
彼女が近づいて来る
一歩。
土を踏む音が、やけに大きく聞こえた。
「そんな顔しないでよ」
笑っている。笑いながら、
彼女が近づいて来る。
ずっと、笑っている。
オレのほうへ、手を伸ばしてくる。
彼女が近づいて来る。
その手。
赤い。
生温かそうで。
べっとりとした何かが、指先にまとわりついている。
___やめろ。
近づくな。
そう思った瞬間。
頭の奥で、なにかが弾けた。
ぱちん、と。
細い糸が切れるみたいな音がした気がした。
次の瞬間、体が動いていた。
「……っ」
気づけば、彼女を押し倒していた。
背中が地面にぶつかる音。
彼女の髪に、土がつく。
オレは震える手で彼女の首に手をかけた。
_汚れがない。
さっきまで血にまみれた光景を見ていたはずなのに、彼女の首だけは、不思議なくらい透き通っていた。
ほんのりと頬だけが淡く色づいていて、それが余計に白さを際立たせている。
触れた指先に伝わるのは、驚くほどなめらかな感触。
壊れ物みたいに繊細で、少し力を込めれば、簡単に折れてしまいそうな細さ。
脈が、かすかに触れる。
生きている証みたいに、弱く、確かにそこにある。
その頼りなさに、逆に目が離せなくなる。
掴める。
ここにある。
逃げられない。
ぐ、と力が入る。
なんで、こんなことしてる。
頭ではわかっているのに、手が止まらない。
息が、荒くなる。
視界が狭くなる。
彼女を見る。
普通なら。
怖がるはずだ。
泣くはずだ。
抵抗するはずだ。
なのに。
「……ふふ」
彼女は、笑った。
喉を押さえられているのに。
息が苦しいはずなのに。
楽しそうに。
「キミも」
かすれた声。
でも、はっきりと聞こえる。
「一緒だね。」
その一言が、頭の奥に落ちる。
鈍く、重く。
逃げ場もなく。
オレの手が、ぴたりと止まる。
視線が、彼女の目に吸い寄せられる。
その瞳の中。
そこに映っていたのは。
さっきまでのオレじゃなかった。
ぐちゃぐちゃの猫を見て、動揺していたはずのオレじゃない。
同じだった。
同じものが、そこにあった。
壊れている何か。
歪んでいる何か。
それを、彼女は見ていた。
最初から、ずっと。
「ね?」
彼女の指が、オレの手に触れる。
首を締めている、その手に。
優しく、なぞるように。
まるで、肯定するみたいに。
ぞわりと、背筋が粟立つ。
違う。
違うはずだ。
オレは、こんなのじゃない。
こんなこと、したくてしてるわけじゃない。
なのに。
指先に残る感触が、やけにリアルで。
離せない。
離したくない、みたいに。
思ってしまう。
「……っ」
息が詰まる。
胸が苦しい。
さっきまでとは、違う意味で。
なにかが、内側から溢れてくる。
見たくなかったもの。
気づかないフリをしていたもの。
それが、形を持って、そこにある。
彼女と同じ。
その事実が、じわじわと広がっていく。
逃げ場なんて、どこにもないみたいに。
俺はずっと前から
始まる前の話。




