サン
__玄関の扉を開けた瞬間、空気が違った。
靴を脱ぐ音が、やけに大きく響く。リビングの方から、低く押し殺したような声が漏れていた。聞きたくなくても、壁をすり抜けて耳にまとわりつく。
帰ってきてる。
それだけで十分だった。
息を潜めるみたいに、足早に廊下を抜ける。ドアノブを掴んで、自分の部屋に滑り込むように入ると、すぐに鍵をかけた。
バタン。
小さく閉じたはずなのに、その音さえ大きく感じる。
耳を塞ぐ。
ぎゅっと、指先に力を込めて。
「……関係ない」
小さく呟く。誰に聞かせるでもなく。
「オレには、関係ない」
そうだ。関係ない。あの部屋のことも、あの声も、あの空気も。
全部、オレとは無関係だ。
昔は、こんなんじゃなかった。
思い出そうとする前に、思考を止める。
考えるな。
あの頃のことなんて、思い出したって意味がない。
ベッドに倒れ込む。布団を被って、外の音を遮断する。完全には消えないけど、それでも少しは遠くなる。
帰りたくなかった理由。
胸の奥に引っかかっていたそれが、やけにくっきりと形を持つ。
「……くだらねぇ」
吐き捨てるみたいに呟く。
そんな理由で、逃げたかっただけ。
結局、いつもと同じだ。
目を閉じる。
寝てしまえばいい。全部、なかったことにできる。
なのに、胃の奥がじわじわと気持ち悪い。
「あぁ……最悪」
言葉が漏れる。
眠りに落ちるまで、どれくらい時間がかかったのか分からない。
目覚ましの音で目を覚ます。
何事もなかったみたいに、体を起こす。
「……なんともない日」
そう、呟く。
昨日のことも、家のことも、全部なかったことにするみたいに。
制服に着替えて、家を出る。リビングの方は見ない。音も聞かないふりをする。
いつも通りの通学路。
いつも通りの時間。
なのに。
胸の奥が、ざわついていた。
「……なんだよ」
理由なんて分からない。ただ、落ち着かない。
そのまま教室の扉を開ける。
___違う。
入った瞬間、分かった。
空気が、いつもと違う。
ざわざわとした声。視線。ひそひそと交わされる言葉。
「ねえ、あれ__」
「この前さ、1年の___」
「え、まじ?」
「___××××」
聞こえないふりをしているのか、と思うくらい、隠す気のない声量。
いや、きっと。
聞こえてるのを分かった上で、話してる。
「……」
何も言わず、自分の席に向かう。
視線が刺さる。
でも、気にしない。
気にしない。
椅子を引いて、座る。
そのまま机に突っ伏した。
目を閉じる。
オレには関係ない。
繰り返す。
何度も、何度も。
聞いてない。知らない。どうでもいい。
そう思い込めば、それで済む。
……はずだった。
「ねえ」
頭の上から、声が降ってきた。
聞き覚えのある声。
無視する。
寝たふりを続ける。
「ねえってば」
もう一度。
少しだけ近づいた声。
それでも、動かない。
関わりたくない。
面倒事なんて、まっぴらごめんだ。
「聞こえてるでしょ?」
くすっと、小さく笑う気配。
「まあいいけど」
彼女は、勝手に続ける。
周りのざわめきなんて、まるで存在しないみたいに。
「……」
「噂、いっぱいだよ?」
机に顔を埋めたまま、拳を握る。
何も言わない。
何も、反応しない。
「でもさ」
彼女の声は、変わらず柔らかい。
「別に、どうでもいいよね」
その言葉に、ほんの少しだけ、呼吸が止まる。
「周りがどう思おうがさ」
カタ、と机に何かが置かれる音。
たぶん、彼女の肘。
「オレには関係ない、でしょ?」
__そのままの言葉。
頭の中で繰り返していたものを、そのままなぞるみたいに。
ゆっくりと、目を開ける。
視界の端に、彼女の横顔が映る。
相変わらず、何も気にしていないみたいな表情で。
ただ、少しだけ。
楽しそうに、笑っていた。
あぁ、胃が気持ち悪い。
朝からずっと、何かが喉の奥に引っかかっているみたいで、飲み込めないまま残っている。
__なんともない一日。
そう、思い込む。
そうじゃないと、やっていられない。
教室のざわめきも、視線も、彼女の声も、全部、遠くに押しやるみたいに。
ただ時間が過ぎるのを待つだけ。
それだけでいい。
それだけで、終わるはずだった。
放課後。
チャイムが鳴った瞬間、立ち上がる。
誰とも目を合わせない。声もかけない。かけさせない。
「……」
彼女の方を見ることもなく、そのまま教室を出た。
呼び止められた気がしたけど、気のせいだと決めつける。
聞こえなかったことにする。
関わらない。関わらなければ、何も起きない。
それだけだ。
足早に廊下を抜ける。階段を降りる。靴を履き替える。
外に出る。逃げるみたいに。
空気が肺に入るのに、息苦しい。
それでも足は止めない。
帰る。
帰るしかない。
帰りたくないのに。
家の前で、足が止まる。
ドアノブに手をかけて、そのまま動かない。
怖い。
何があるか分かっているから。
中にある空気が、容易に想像できるから。
「……っ」
開けるだけだ。
それだけなのに。
指先が、やけに重い。
__その時。
ガチャ、と内側から音がした。
反射的に手を離す。
扉が開く。
目の前に立っていたのは、父親だった。
一瞬だけ、視線が合う。
でも、それだけ。
何も言わない。
何も感じていないみたいな顔で、そのまま横を通り過ぎる。
肩がぶつかりそうになる距離。
けれど避けることもなく、ただ無視して。
バンッ。
玄関が荒く閉まる音。
外に出ていく足音。
遠ざかる気配。
それだけで、全てを察するには十分だった。
「あぁ……」
喉の奥から、空気が漏れる。
「最悪だ……」
ゆっくりと、扉を開ける。
中の空気は、重たく濁っていた。
足を踏み入れる。
一歩。
二歩。
リビングの方から、微かな嗚咽が聞こえる。
見たくない。
でも、耳が勝手に拾う。
足が止まらない。
__視界に入る。
床に座り込む母親。
髪は乱れて、目は赤く腫れている。
ぐしゃぐしゃに崩れた顔。
見慣れてしまった光景。
でも、慣れることなんてできない。
「……っ」
視線を逸らそうとした瞬間。
母親が顔を上げた。
目が合う。
その瞬間、何かが弾けたみたいに。
「……あなた」
立ち上がる。
ふらつきながら、近づいてくる。
「あなたは……裏切らないよね」
腕を掴まれる。
ぎゅっと、縋りつくみたいに。
「ねえ、お願い……」
声が震えている。
必死で、何かを繋ぎ止めようとしているみたいに。
「あなたは、味方でしょ……?」
__知らない。
そう言えたら、どれだけ楽だっただろう。
言えない。
言いたくない。
関わりたくない。
「……」
口を開くことすらできない。
ただ、立ち尽くす。
母親の手が、どんどん強くなる。
痛い。
でも、それよりも。
気持ち悪い。
視界が歪む。
呼吸が浅くなる。
「あぁ……」
心の中で、何かがぐちゃぐちゃに崩れる。
汚い。
気持ち悪い。
全部。
この空間も、この関係も、この感情も。
__醜い。
何も言えないまま、ただそこにいる自分が。
一番、醜い。
「……やめて」
小さく呟いたのか、思っただけなのか、自分でも分からない。
気づけば、腕を振りほどいていた。
そのまま逃げるように、自分の部屋へ。
ドアを閉める。
鍵をかける。
背中を預けて、ずるずると座り込む。
「……っ、は……」
呼吸がうまくできない。
胃の奥がひっくり返る。
吐き気がこみ上げる。
「……なんで」
分からない。
分からないけど、分かりたくもない。
ただ、全部から逃げたい。
逃げるしかない。
目を閉じる。
耳を塞ぐ。
思考を止める。
___何もない。
何もない一日。
そう思い込む。
繰り返す。
何度も、何度も。
それでも。
胸の奥のざわつきだけは、消えなかった。
次の日。
目覚ましの音が鳴る。
止める。
起き上がらない。
天井を見つめる。
「……行かない」
小さく呟く。
理由なんていらない。
行けない。
それだけで十分だった。
体が重い。
動く気にならない。
学校のことも、噂も、彼女のことも。
全部、どうでもいい。
__いや。
考えたくない。
考えたら、また気持ち悪くなる。
布団を被る。
光を遮る。
暗闇の中で、ただ目を閉じる。
__なんともない一日。
その言葉が、もうどこにも存在しないことを。
うすうす分かりながら。




