二
落ち着かなかった。
理由なんて、はっきりしないのに。
ただ、胸の奥がざわついて、じっとしていられない。
「……じゃ、オレ帰るわ」
それだけ言って、オレは背を向けた。
彼女がなにか言った気がしたけど、聞かなかったことにする。
聞けば、足が止まる。
止まったら、またあの空気の中に引き戻される。
それだけは、嫌だった。
足早に歩く。
振り返らない。
適当な言い訳を頭の中で並べながら、全部口に出さないまま捨てていく。
別に、なにかあるわけじゃない。
ただ、帰るだけだ。
それでいい。
それ以上の理由なんて、いらない。
___いつも通り。
家に帰えり、震える手で俺はドアを開けた。親はいないみたいだった。
少し、安心した。
用意されている夕食をレンジで温め一人夕飯を食べる。
箸を動かす。
口に入れて、噛んで、飲み込む。
ただ、それだけの動作。
「……」
味がしなかった。
いや、正確には、あるはずなのに感じない。
舌に乗っているのに、どこか遠い。
なにを食べているのか、わからなくなる。
だから、考えられないように。
オレはただ、皿の上を空にすることだけに集中した。
朝、目覚ましの音で目が覚める。
夢は、覚えていない。
でも、どこかに残っている気がする。
指先に触れそうで、触れられない何かみたいに。
「……」
考えるのをやめる。
顔を洗って、制服に着替えて、いつも通りに家を出る。
なにも変わらない。
昨日のことも、なかったことにできる。
そうやって、線を引く。
「おはよ」
横から、声。
振り向くまでもない。
「……おはよ」
短く返す。
彼女は、いつも通り隣に並ぶ。
勝手に。
当たり前みたいに。
「昨日さ」
「なんだよ」
「帰るの早かったね」
「用事あっただけ」
即答だった。
考える前に出る言葉。
それ以上の会話を続ける気はない。
「そっか」
彼女は、あっさり引いた。
追及もしない。
責めもしない。
ただ、笑っている。
それが、逆に引っかかる。
「……」
それ以上はなにも言わず、二人で歩く。
同じ道。
同じ速度。
変わらないはずの距離。
なのに、なぜか妙に近く感じる。
息が詰まるような、そんな感覚。
オレは少しだけ歩幅を広げた。
学校。
授業。
板書の音、教師の声、ノートに走るペン。
全部が、ただの背景音みたいに流れていく。
頭に入っているのか、いないのか、自分でもよくわからない。
でも、問題はない。
適当にやっていれば、どうにかなる。
それでいい。
面倒事なんて、まっぴらごめんだ。
関わらなければ、なにも起きない。
オレには関係ない。
そう思いながら、一日をやり過ごす。
放課後。
教室の空気が、また軽くなる。
帰る準備をして、立ち上がる。
そのとき。
「ねえ」
後ろから、声がした。
振り返る。
彼女が、机に肘をついてこっちを見ていた。
「今日さ」
にこり、と笑う。
いつもと同じ顔。
でも、どこかだけ違う気がする。
「どっか行こ」
「……は?」
思わず、間の抜けた声が出る。
「ゲーセンとか」
軽い調子で言う。
「あと、カフェもいいかも」
「いや、オレ……」
断ろうとする。
理由なんて、いくらでもある。
帰るだけだ。
それでいい。
それ以上、なにかをする必要なんてない。
「行こ」
被せるように、彼女が言う。
やわらかい声なのに、なぜか逆らえない響き。
「たまにはいいでしょ」
笑っている。
いつも通りに。
なにも強制していないみたいに。
でも。
逃げ道が、どこにもない気がした。
「……」
喉が、少しだけ詰まる。
断ればいい。
それだけの話だ。
簡単なはずなのに。
どうしてか、言葉が出てこない。
彼女は、ただ待っている。
急かしもしないで。
でも、目を逸らさずに。
「……少しだけな」
気づけば、そう言っていた。
自分でも、意味がわからない。
なんで、頷いたのか。
ただ。
その瞬間、彼女が少しだけ嬉しそうに笑った気がした。
「やった」
小さく、そう呟く。
その声が、妙に耳に残る。
オレは視線を逸らした。
胸の奥が、またざわついていた。
画面に映る自分の顔は、どこか他人みたいにぎこちなかった。光に照らされたその輪郭が、現実よりも少しだけ柔らかく、作り物みたいに整っている。隣で彼女は、迷いなく笑っていた。
「ほら、もっと近づいてよ」
「……十分近いだろ」
「だめだよ、これじゃ余白が寂しいもん」
ぐい、と肩を引き寄せられる。細い腕から想像できないほどの強い力に、こいつ意外と力つよ、なんて思いながらも抵抗する気力もなく、そのまま機械に吸い込まれるようにシャッターが切られた。カシャ、カシャ、と軽い音がやけに耳に残る。
興味なんてない。そう思っていたはずなのに、出来上がった写真の中で、隣にいる彼女だけが妙に鮮やかだった。
「ね、いい感じじゃない?」
「……別に」
「ふふ、そういうとこ」
彼女は満足げに頷いて、スマホカバーの裏に入れる。俺の返事なんて最初から期待していないみたいに。
そのまま連れていかれたのは、騒がしいゲームコーナーだった。派手な音と光が混ざり合って、頭の奥をじんわりと圧迫してくる。
「これやろ、これ」
指さされたのは、ゾンビを撃つゲーム。銃型のコントローラーを押し付けられる。
「いや、いいって。そういうの興味ないし」
「まあまあ。やればわかるって」
断る隙なんてない。スタートボタンが押され、画面の中で死者がうごめき始める。
「ほら来た!撃って撃って!」
「……はあ」
仕方なく引き金を引く。乾いた音と共に、ゾンビが崩れる。何が面白いのか分からない。ただの作業みたいな動きなのに、彼女は隣で無邪気に笑っていた。
「すごいじゃん、ちゃんと当たってる」
「適当にやってるだけだ」
「でも外してないよ?」
どうでもいい。そう思いながらも、気づけば次の敵に照準を合わせていた。
ゲームが終わると、彼女は満足そうに背伸びをした。
「楽しかったね」
「……お前だけな」
「うん、それでいいよ」
さらっと言われて、言葉が詰まる。
そのまま歩かされて、次はクレーンゲームの前に立たされた。透明な箱の中に、ぬいぐるみが無造作に積まれている。
「これ欲しいなあ」
彼女が指さしたのは、やたらと丸いクマのぬいぐるみだった。
「自分で取れよ」
「えー、やってみるけどさ」
コインを入れて、レバーを操作する。アームは頼りなく降りて、ぬいぐるみの耳を掴んだかと思えば、すぐに滑り落ちた。
「あー、惜しい」
「全然惜しくないだろ」
「もう一回やろっと」
何度か繰り返すが、結果は同じだった。彼女は諦める様子もなく、ただ楽しそうに画面を見つめている。
その横顔を、ぼんやりと眺める。
どうしてこんなに楽しそうなんだろう。こんな場所、うるさいだけで、落ち着かなくて、早く帰りたいって思うだけなのに。
でも、帰りたい場所があるのかと聞かれたら、言葉に詰まる。
「……ねえ」
彼女が、不意に口を開いた。
「ん?」
「ほんとうはさ」
視線は画面のまま。アームがまた空振りして、ぬいぐるみが微かに揺れる。
「家、あんまり帰りたくないんでしょ」
心臓が、ほんの一瞬だけ変な音を立てた。
けれど、何も言わない。
言いたくないし、肯定する理由もない。
そもそも、そんなことをこいつに話す義理もない。
黙っている俺を見ても、彼女は振り向かない。ただ、次のコインを入れるだけ。
「まあ、どっちでもいいけどね」
軽い声。重さなんて一欠片もないみたいに。
「答えたって、答えなくたって」
アームが降りる。今度は少しだけ深く、ぬいぐるみの体を掴んだ。
「別に、変わんないし」
持ち上がる。少しだけ、ほんの少しだけ。
でも結局、また落ちる。
「あーあ、難しいなあ」
彼女はくすっと笑った。
その顔は相変わらずで、何も気にしていないように見えるのに、さっきの言葉だけが、妙に耳の奥に残っていた。
帰りたくない、なんて。
そんなこと、考えたこともないはずなのに。
自分に言い聞かせる。
「ね、今度はそっちやってみてよ」
急にコントローラーを押し付けられる。
「は?」
「さっきゲーム上手だったし、いけるかもよ?」
「関係ないだろ……」
「いいからいいから」
断る気も起きず、仕方なくコインを入れる。
アームを動かしながら、ふと横を見る。
彼女は、ただ楽しそうにこっちを見ていた。
まるで、俺が何を思っているかなんて、全部どうでもいいみたいに。
それなのに。
どうしてか、その視線から目を逸らせなかった。
「君が決断できないなら、私が全部選んであげる。」
目が離せない。離したいはずなのに彼女の瞳に吸い込まれる。
「どういう…意味だよそれ。」
彼女はアームを動かしている俺の手を添えるように重ね、目を離さない。
優しく触る手つきなのになぜだか支配されているような錯覚に陥る。
「素直じゃない、迷える子羊に手を差し伸べてあげてるんだよ?」
甘い蜜のような言葉を綴る彼女。咄嗟に唾を飲み込む。手から滲み出た冷や汗が出た。なんだか彼女の言う通りになるのは癪だった。なんて俺は自分に言い聞かせ彼女の手を振り払い、帰るぞと逃げるよう足早にゲームセンターを出た。




