イチ
夢を見ていた気がする。
なにか、ひどく嫌な夢だった。
けれど、目が覚めた瞬間、それは砂みたいに指の間からこぼれていった。
なにを見ていたのか、もう思い出せない。
ただ。
「……気持ちわり」
喉の奥に残る、妙な違和感だけが消えなかった。
胃のあたりが、じわりと重い。
寝起きのせいにしては、少しだけ不快で、少しだけしつこい。
布団の中で、しばらく動けなかった。
思い出そうとすればするほど、なにも掴めない。
代わりに、胸の奥がざわつく。
理由のない、嫌な予感みたいなものだけが残る。
「……なんだよ」
小さく吐き捨てて、ようやく体を起こした。
時計を見る。
遅刻するほどじゃない。
でも、余裕があるとも言えない時間。
考えるのをやめるには、ちょうどいい。
顔を洗って、制服に袖を通して、適当に朝を済ませる。
いつも通りの動き。
なにも変わらない。
変わらない、はずなのに。
どうしてか、少しだけ足取りが重かった。
外に出ると、朝の空気がひんやりと頬に触れる。
それだけで、少しだけ頭が冷えた気がした。
深呼吸をひとつ。
肺の奥に空気を押し込んで、ゆっくり吐き出す。
大丈夫だ。
ただの夢だ。
覚えてないんだから、どうでもいい。
いつもの変わらない1日。
そう言い聞かせるみたいに、足を進める。
通い慣れた道。
見慣れた景色。
なにも変わらない、朝。
「おはよ」
横から、声がした。
振り向くまでもなく、誰かわかる。
隣に並ぶ足音。
少しだけ軽い、規則正しいリズム。
「……おはよ」
短く返す。
それだけで、十分だった。
彼女は、にこにこと笑っている。
朝日を受けて、やけに綺麗に見えるその顔。
整っていて、どこに出しても恥ずかしくないような笑顔。
周りのやつらが「いい子だ」って言う理由も、なんとなくわかる。
「今日はちょっと遅いね」
「別に」
「寝坊?」
「違う」
会話は、それで終わる。
無理に続ける必要もない。
沈黙が気まずいとも思わない。
ただ、並んで歩いているだけ。
それだけの関係。
……のはずなのに。
ちらりと、視線が動く。
彼女の横顔。
相変わらず、隙がない。
表情も、仕草も、全部が整っている。
ほんの一瞬。
目が合った。
その奥が、やけに静かだった。
なにも映していないみたいな。
底が、ひどく遠いみたいな。
ぞわ、とした。
理由なんてわからない。
ただ、見ちゃいけないものを見た気がして、すぐに視線を逸らした。
「どうしたの?」
すぐに気づかれる。
そのことに、少しだけ苛立つ。
「なんでもない」
「ふーん」
彼女は、それ以上追及しなかった。
ただ、笑っている。
いつも通りに。
なにも知らないみたいに。
なにも気づいていないみたいに。
それが、少しだけ引っかかる。
でも。
それ以上考えるのは、やめた。
どうでもいいことだ。
オレには関係ない。
そうやって、線を引く。
昔からの癖みたいに。
関わらなければ、なにも起きない。
見なければ、なかったことにできる。
それでいい。
それで、十分なはずだ。
「今日、テストだよね」
「……あー」
思い出したみたいに、適当に返す。
どうでもいい。
そんなもの。
「大丈夫?」
「まあ、なんとかなるだろ」
「そっか」
また、笑う。
変わらない表情。
変わらない声。
その全部が、やけに整っていて。
少しだけ、現実感が薄い。
夢の続きみたいな感覚が、まだどこかに残っている。
胃の奥の気持ち悪さも、完全には消えていない。
でも。
歩いていれば、そのうち忘れる。
授業が始まれば、考える暇もなくなる。
いつも通りの一日が始まる。
なにも起きない。
なにも変わらない。
そう思いながら、校門をくぐる。
ざわざわとした人の声。
日常の音。
その中に溶け込むみたいに、オレは歩き出す。
彼女も、隣で同じように歩いている。
ただ、それだけのこと。
それ以上でも、それ以下でもない。
___なのに。
どうしてか。
胸の奥に、あの夢の残りカスみたいな違和感が、ずっと引っかかっていた。
昼休みは、いつもと同じだった。
騒がしい教室の中で、オレは一人、窓際の席に肘をついていた。
弁当を広げるでもなく、ただぼんやりと外を見ているだけ。
誰かと話すわけでもない。
話しかけられることも、ほとんどない。
それでいい。
関わらなければ、なにも起きない。
オレには関係ない。
そうやって、いつも通りの距離を保つ。
___はずだった。
ポケットの中で、スマホが震えた。
びくり、と肩が揺れる。
周りを気にするみたいに、反射的に視線を動かしてから、そっと取り出した。
見慣れない名前。
いや、見覚えはある。
下の学年のやつだ。
何度か廊下ですれ違ったことがある程度の、顔と名前が一致するくらいの距離感。
『放課後、少し時間いいですか?話したいことがあって…』
短い文。
でも、妙に整っていて、余計な余白がない。
画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
「……なんだよ」
小さく呟く。
意味は、なんとなくわかる。
わかってしまう。
だから、余計に面倒だと思った。
既読をつけるか迷って、結局そのままポケットに戻す。
見なかったことにすればいい。
それで済む話だ。
___なのに。
「ねえ」
横から声がする。
顔を上げると、彼女が立っていた。
いつの間にか、すぐ近くに。
「なに見てたの?」
「……別に」
反射的に画面を伏せる。
隠す必要なんてないのに、勝手に手が動く。
彼女は、それをじっと見ていた。
ほんの一瞬だけ。
それから、いつも通りに笑う。
「ふーん」
それ以上は、なにも言わない。
けれど。
なんとなく、気づかれている気がした。
なにを、とは言えないけど。
胸の奥が、少しざわつく。
「今日、放課後ってさ」
オレは、できるだけ何気ない声を装った。
「なにしてんの」
「んー?」
彼女は少しだけ考える素振りを見せる。
指先を顎に当てて、首を傾げる。
その仕草が、やけに作られている気がして、視線を逸らしたくなる。
「委員会の集まりあるんだよねぇ」
「へえ」
短く返す。
それ以上、深く聞くことはしない。
それで十分だった。
放課後、いない。
それだけ確認できればいい。
理由なんて、特にない。
ただ、面倒ごとに巻き込まれたくないだけだ。
オレには関係ない。
そう思いながら、昼休みはそのまま終わった。
放課後。
教室の空気が、少しずつ抜けていく。
帰るやつ、部活に行くやつ、騒ぎながら出ていくやつ。
その中で、オレは最後まで席に残っていた。
時間をずらす。
人が少なくなってから動く。
それも、いつもの癖だ。
「……」
スマホを取り出す。
昼のメッセージ。
結局、既読もつけていないまま。
ため息をひとつついて、立ち上がる。
廊下に出ると、思ったより人がいなかった。
静かで、少しだけ落ち着く。
指定された場所。
校舎裏。
わざわざ人目につかない場所を選ぶあたり、やっぱりそういうことなんだろう。
面倒だ。
心の底から、そう思う。
でも。
来なかったら、それはそれで面倒なことになる気がして。
結局、足を運んでいる。
我ながら、意味がわからない。
「せ、先輩」
先にいたのは、あっちだった。
小さく肩を跳ねさせて、ぎこちなく頭を下げる。
「あ、えっと……来てくれて、ありがとうございます」
「……別に」
距離を保ったまま、立ち止まる。
近づきすぎないように。
関わりすぎないように。
それなのに、向こうは一歩踏み出してくる。
「あの……!」
声が少しだけ裏返る。
緊張しているのが、見ていてわかる。
視線が揺れて、手が落ち着かなくて。
その様子に、なぜか少しだけ息苦しくなる。
「わ、わたし……先輩のこと、ずっと前から……」
ああ、やっぱり。
心の中で、ため息をつく。
面倒だ。
どう断るか、それだけを考える。
それ以上は、考えない。
考える必要もない。
「好きです」
言い切った。
震える声で、それでもちゃんと。
まっすぐに。
それが、少しだけ眩しくて。
視線を逸らす。
「……」
なにも返せないまま、数秒が過ぎる。
沈黙が落ちる。
そのとき。
「あれれっ」
不意に、軽い声が割り込んだ。
「邪魔、しちゃったかな?」
振り向く。
そこにいたのは、彼女だった。
いつの間にか、すぐそこに立っている。
夕方の光を背にして、にこにこと笑っていた。
「い、いえっ!」
後輩が、慌てて首を振る。
「だ、大丈夫です……!」
声が上ずっている。
明らかに動揺しているのがわかる。
彼女は、その様子を横目で見ながら、くすっと笑った。
「かわいいね」
ぽつりと、そう言う。
軽い調子で。
なにも深く考えていないみたいに。
「こんなに頑張ってるんだし」
ちらりと、こっちを見る。
その視線が、一瞬だけ絡む。
「承諾しちゃえば?」
冗談みたいに。
でも、どこか本気みたいに。
曖昧な温度で、そう言った。
「……」
胸が、ざわつく。
さっきまでとは違う、不快な感覚。
手が、じわりと冷える。
気づけば、拳を握っていた。
震えを抑えるみたいに、強く。
「先輩……?」
後輩が、不安そうに名前を呼ぶ。
その声が、遠く聞こえる。
頭の中が、妙に静かだった。
逃げろ。
関わるな。
オレには関係ない。
いつもの声が、頭の中で繰り返される。
それでいいはずなのに。
どうしてか、視線が逸らせない。
彼女の方から。
目が、離せない。
「……ごめん」
口が動く。
考えるより先に。
「無理」
短く、それだけ。
それ以上の言葉は、出てこなかった。
後輩の表情が、わずかに固まる。
「あ……」
なにか言おうとして、言葉が続かない。
そのまま、視線が落ちる。
「そ、ですよね……急に、すみませんでした……」
小さく頭を下げて、足早に去っていく。
その背中を、見送ることもせず。
オレは、ただ立ち尽くしていた。
「ふーん」
隣で、彼女が声を漏らす。
「断るんだ」
相変わらずの笑顔で。
なにも変わらない顔で。
「……別に」
視線を逸らす。
それ以上、なにも言いたくなかった。
彼女は、少しだけ首を傾げる。
いつものニコニコとした笑顔で。
なんともないような顔で。
そう、オレには関係ない。関係ないんだ。
オレの手は、まだ震えていた。




