第2話 檻のような人生
コツ、コツ……
一歩、二歩。
俺と標的との距離が、少しずつ縮まっていく。
俺が一枚の布を取り出し、麻酔薬を染み込ませ、行動に移ろうと一歩踏み出した、その時……
「三号、その場で一旦待機してください。二分後、二人の通行人がこの先の角から現れます」
「ちっ」
なんなんだよ?
勘弁してくれ。俺は疲れてるんだ。
さっさと片づけて、帰って休ませてくれないのか?
どうしてこうも間が悪いんだよ……
オルレイアの言ったとおり、一組のカップルが前方の建物の角から姿を現した。
浅野紗夜とすれ違いざまに、男のほうは彼女をこっそり横目で見たが、運悪く恋人に気づかれてしまった。
その結果、その場で耳をひねり上げられ、痛みに耐えきれず、何度も彼女に許しを請う羽目になった……
ただ、あの手慣れた動きを見る限り、女性のほうは彼のそういう行動に、とっくに慣れているのかもしれない。
二人はその場でしばらく言い争い、男があの手この手で彼女の機嫌を取り続けた末、ようやく謝罪を受け入れてもらえた。
もっとも……
あの男はこれから、二人の結婚について頭を悩ませることになりそうだ。
さっき、恋人の機嫌を直すために、自分が嘘をついていない証として「結婚しよう」と自ら言い出していた。
……
俺たちのような余所者にしてみれば、傍から見ているだけでも、死ぬほど羨ましい。
明日も生きていられるかなんて悩まず、ただ思うままに生きていけばいい。
いいな。
「標的はもう行ってしまいましたよ?すでに公園へ入り、今はブランコに座っています」
「……すぐ追いかける」
「でも、結婚ですか……?いいですね……いつか、私もあなたと結婚できますか?」
「どうして俺と結婚することが前提になってるんだ?」
「答えなんて分かりきってるじゃないですか!この鈍感バカ!」
ザザッ――
イヤホンから幼馴染の怒鳴り声が響いたかと思うと、通信を切られた。
ははは……
帰ったら、なんとか宥める方法を考えよう。
……
また、逃げたな。
「なあ……お嬢ちゃん、一人か?どうして一人で公園にいるんだ?何かあったのか?」
「……」
なあ……
どうして今日最後の任務に限って、こんなに邪魔が入るんだ?
俺がその場で少し立ち止まり、別のことを考えているうちに、今度は無精ひげの男が標的へ近づいていった。
声をかけられたというのに、彼女はブランコに座ったまま夜空を眺め、まったく相手にしようとしない。
「おい、俺が話しかけてるんだぞ!来い、ちょっとおじさんと話そうじゃないか」
「きゃっ……!だ……誰かいませんか?変なおじさんに絡まれています!」
おいおい……
今さら助けを求めるのは、さすがに遅すぎないか?
「静かにしろ!俺はただ、お前と話したいだけだ。大声を出すんじゃねえ!」
無精ひげの男は乱暴に標的の手を引っ張り、俺がもともと仕掛ける場所として選んでいた小道のほうへ連れていった。
……どうやら、彼女を襲うつもりらしい。
……
あいつが俺の標的に何をしようと、正直どうでもいい。
彼女は今日、必ず死ぬのだから。
だが、問題は……
標的の悲鳴を聞きつけ、近くにいた人たちが異変に気づいてしまったことだ。
このままでは、仕掛ける絶好の機会を逃すかもしれない。
面倒くさすぎる!
いっそ、あの変態おじさんを殴って気絶させてから、彼女を路地裏へ引きずり込むか。
「……!」
「がはっ!」
これでも、俺は専門の訓練を受けた戦闘員だ。
姿を隠したまま接近できれば、背後から相手の首筋へ正確な一撃を叩き込み、一撃で気絶させることもそう難しくはない。
よし……
標的が反応する前に、路地裏へ引きずり込んで――
「えっ……?あなた、どうして突然ここに現れたの?」
なんだ?
標的……浅野紗夜が、水色の瞳で俺を真っすぐ見つめている。
なぜ俺の姿が見えている!?
「大変です、三号!光学迷彩装置が機能していません!」
その時、オルレイアが俺のイヤホンに通信をつなぎ直し、慌ててそう告げてきた。
「……!」
俺は胸元に下げた光学迷彩装置へ視線を落とし、そこで初めて、赤いランプが点滅していることに気づいた。
なんなんだよ!
バッテリーが切れてるじゃないか。
今日の任務が多すぎて、忙しさのあまり予備のバッテリーに交換するのを忘れていた。
何より信じられないのは、俺がこんな初心者じみたミスを犯したことだ!
「三号、急いでください!近くの建物にいた人たちが、さっきの騒ぎを聞きつけました!何人かがこちらへ向かっています!」
「面倒くさすぎる……」
「んっ……!?」
オルレイアの慌ただしい報告を聞くなり、俺は標的の口を手で塞ぎ、無理やり路地裏へ引きずり込んだ。
幸い、その路地は奥まで続いており、街灯も少なく、かなり薄暗かった。
様子を確かめに通りへ出てきた人たちが目にしたのは、地面に倒れている無精ひげのおじさんだけで、すぐ近くにいる俺たちには気づかなかった。
どうやら、浅野紗夜が一人であのおじさんを撃退し、慌てて逃げたと思ったらしい。
「ごほっ、ごほっ!私に何をするつもり?まさか、私を助けたのも、さっきのおじさんと同じことをするため?」
息苦しさに耐えかねた浅野紗夜は、俺の手から逃れようと、いきなりその手のひらに噛みついた。
予想外の痛みに、俺は思わず手を離してしまった。
だが、彼女はそれ以上大声を上げることも、逃げ出すこともなく、ただ壁を背にして、警戒しながら俺を観察していた。
「違う。俺をあの変態と一緒にするな」
俺もオルレイアも普段から現地の言葉を学んでいたため、こうして相手の言っていることも問題なく理解できた。
それにしても……こいつ、俺を変態だと勘違いしたのか?
「だったら、私をここへ連れ込んで、何をするつもり?」
「簡単だ。ここで黙って死んでくれればいい」
俺はサプレッサーを装着した拳銃を抜き、その銃口を彼女の額へ突きつけた。
だが妙なことに、彼女はほんの少し目を見開いただけで、その顔には恐怖の色が少しも浮かんでいなかった。
なんだか、標的の様子がおかしくないか?
「私を殺すの?どうして?」
「それは……」
……
わざわざ標的に長々と説明する必要なんてないのに……
相手を始末して、現場に残った痕跡を片づけさえすれば、任務は終わるはずなのに。
だが、彼女の異様な様子に、俺はためらってしまった。
まあいい。
どうせ、彼女は死ぬ。
教えたところで、問題はないだろう。
普段から仕事への不満やストレスを胸の内に溜め込んでいる俺にとって、一度くらい標的に聞き役になってもらうのも、悪くない気がした。
◇
「だから、あなたたちはこの世界で、自分たちとよく似た姿の人間を密かに暗殺して、その人の記憶と人生を奪わなければならない……そういうこと?」
銃口を向けられても冷静さを失わない標的は、彼女が初めてだ。
それまでどんな人生を送ってきたかにかかわらず、これまで俺が始末してきた標的たちは、銃口を目にした瞬間、たいてい命乞いをするか、逃げ出そうとした。
彼らは、生きようとしていた。
――だが、目の前の少女は違う。
「なら、好きにすれば」
俺の目的を知っても、彼女は無表情のままだった。
浅野紗夜は俺を冷ややかに見つめ、自ら額を銃口へ押しつけたばかりか、早く撃てと俺を急かした。
「お、お前……自分が死ぬのが怖くないのか?」
「私の人生はつまらない。誰かが必要としているなら、持っていけばいい。どうせ生きていても、やりたいことなんてない。いっそ死んで、全部終わりにしたほうがいい」
「……?」
この子は、いったい何を言ってるんだ?
胸の奥で、何かが膨れ上がっていくのを感じた。
同情か?
いや……
それよりも、もっと負の感情だ。
たぶん、怒りだ。
目の前の標的が見せる、すべてを諦めたような態度が、どうしようもなく腹立たしかった。
「どうして、そんなに簡単に自分の人生を差し出せるんだ?俺はさっき、通りでお前を見つけた時から、ずっと見ていたんだぞ」
標的を追跡している間、俺は彼女の資料にも改めて目を通していた。
「お前には、お前を気にかけてくれる優しい友達が大勢いる。一緒に遊びに出かけることもできるし、着ている服だって古びていない。少なくとも、暮らしに困っているようには見えない。それに、お前自身も相当綺麗だ……」
成績、特技、経歴……
どれを取っても、実在する人間とは思えないほど完璧だった。
俺とオルレイアはその資料を見て、揃って驚いた。
現実に、こんな何でもこなせる完璧超人がいるなんて……
「お前は、いったい何が不満なんだ!?ほかの人が夢にまで見るものを、全部持ってるじゃないか!」
「全部持ってる?異星人のあなたに、何が分かるの?」
浅野紗夜の目尻がわずかに引きつり、ついに堪えきれず、俺に怒鳴りつけた。
「両親は、自分たちの子供なら何もかも完璧でなければならないと思ってる。ほかの子供たちが友達と砂場で遊んでいた頃、私は塾に通わされてた。中学生になってからも、山ほど習い事をさせられた。毎日、寝る時間を除けば、自由な時間は一時間もなかった」
立場が突然逆転した。
俺のどの言葉が浅野紗夜の逆鱗に触れたのか分からないが、彼女はとうとう怒りを爆発させた。
額に銃口を押しつけられているのに、何事もないかのように、俺と大声で言い争い始めた。
「成績?満点じゃなければ最低の成績。九十九点を取っても、お父さんとお母さんに説教される。それどころか、努力が足りない、肝心なところでミスをしたって言われる!どれだけ二人の望みどおりにしても、結局、何をしても駄目だって否定される!これが、ほかの人が夢にまで見る人生だって?ふざけないで!」
浅野紗夜は、これまでの生活で溜め込んできた不満を、一気に俺へぶちまけた。
彼女は肩で息をしながら、どうにか呼吸を整えると、再び口を開いた。
「勉強、勉強、勉強。毎日、勉強ばかり!もう疲れた。本当に疲れた。こんな人生が欲しい人がいるなら、あなたたちが持っていけばいい!」
彼女が泣いたのは、自分の死期が近いと知り、恐怖を覚えたからではない。
それは、喜びの涙だった。
ようやく、この地獄のような生活から解放される。
浅野紗夜は顔を両手で覆い、涙が指の隙間から流れ落ちるに任せた。
「……これで、やっとゆっくり休める」
……
彼女の人生は、これほどまでにぼろぼろなのに、最後には異星人のために命まで差し出さなければならない。
そのうえ、まるで最初から存在しなかったかのように、俺たちの【コピー】に取って代わられる……
――ここでこの子を殺して、本当にいいのか?
彼女を排除するのが俺の任務のはずなのに、その過去を聞き終えた俺は、かえって引き金を引けなくなった。
ちくしょう……
標的と余計な話なんてするんじゃなかった。
「オルレイア」
「どうしました?」
「標的を生かしたままでも、抽出装置で相手の脳内から記憶を取り出せるんだよな?」
「三号、余計なことは考えず、早く任務を遂行してください!そんなことをすれば、裏切り者として処分されますよ!」
「……あとで、抽出した記憶を本艦へ送る。その時は、俺が独断でやったと上に伝えてくれ。通信を切る。縁があれば、また会おう」
「三号、三号!シエン、無茶をしな——」
バキッ――
これでいい。
俺はイヤホンを地面へ投げ捨てて踏み潰し、本艦との通信を断った。
「な……何をしてるの?私を憐れんでるの?」
「好きに思えばいい。俺はもう、十分すぎるほど人を殺した。そろそろ足を洗おうと思っただけだ。動くな。お前の記憶を抽出する。少し痛むが、我慢すればすぐ終わる」
どうやら、彼女は本気で死ぬつもりだったらしい。
俺が彼女を殺すつもりはないと知ると、むしろさっきより激しく抵抗し始めた。
仕方なく、俺は彼女の両手を強くつかみ、壁へ押さえつけた。
……
誰かが通りかかったら、俺は女子学生を襲う変態だと思われるに違いない。
ピピッ――
「記憶の抽出は完了した。あとは、この記憶を本艦へ送信すれば……」
浅野紗夜の記憶が本艦へ送信されたのを確認すると、俺はリアルタイム追跡機能のついた装備を、その場ですべて破壊した。
これで……
あの【コピー】は、標的に……浅野紗夜に成り代わって生きていけるし、医療支援も受けられる。
浅野紗夜は、もう「生活」という名の檻に囚われ続ける必要もなければ、死ぬ必要もない。
二人とも、それぞれ自分が望んだものを手に入れられる。
これが、俺に思いつく限りでは、一番ましな結末だった。
「俺たちの【コピー】がお前に成り代わり、お前の代わりに生きていく。これからは……好きなように生きろ」
こいつは見た目も綺麗で、いろいろなことを知っている。
一人でも、きっとちゃんと生きていけるだろう。
……まさか俺が、標的のことを心配する日が来るとはな。
「そう言われても、私にはやりたいことがない。そんなふうに生きて、何の意味があるの!?」
「おやおや?今のは聞き間違いじゃないよな?三号、お前、俺たちの標的を見逃すつもりか?」
嘘だろ。
どうして今日は、こんなに運が悪いんだ?
近くで任務を遂行していた別の【プロキシ】に、浅野紗夜との会話をすべて聞かれてしまった。
しかも、相手はよりによって、俺を目の敵にしているあの【プロキシ】だった。




