第6話 ちょっと変わった小道具
紗夜がカウンターで支払いをしている間に、俺は一足先にネットカフェの周囲を偵察した。
うん……
昨夜仕掛けた罠は、どれも作動していないようだ。
いい知らせだな。
「近くにほかの【プロキシ】も、透明化した偵察ドローンもいないみたいだな……」
艦の連中は、俺たちを見失ったんだろう。
手元の探知機に光点が一つも表示されていないのを見て、俺はほっと息をつき、肩の力を抜いた。
これは昨日、唯一捨てずに残した装備だ。
起動している間だけ、周囲の探知機に検知される。
だから電源を切っておけば、持ち歩いても俺たちの居場所がばれることはない。
起動したとき、ほかの光点が表示されたらどうするのかって?
それは……
人間、二十四時間ずっと気を張ってはいられないからな。
俺だって、ほんの一瞬気を抜いただけで敵に襲われるかもしれない。
近くに【プロキシ】がいるかどうかも分からずにいるより、自分の位置をさらしてでも、相手の数と方角を把握したほうがいい。
見つかったら、相手を倒して逃げればいいだけだ。
「よし、片づいた。戻るか」
紗夜はもう支払いを済ませて、ネットカフェの入口で待っているだろう。
——————
「紗夜、周囲に敵はいなかった。あとは打ち合わせどおりに動けばいい」
「うん、分かった」
朝の通勤ラッシュは、もう過ぎたらしい。
この辺りの通りには、あまり人がいない。
俺たちはネットカフェを出ると、すぐ近くの路地に移動した。
「バッテリーは全部充電できたか?」
「全部満タン。本当に永久機関だね」
紗夜はバッグに入れた軍用の次元袋から黒い箱を取り出し、その中でかすかに白く光る二つの小さなバッテリーを見せてくれた。
「覚えておいてくれ。光学迷彩装置のここが赤く光ったら、俺に言うんだ。安全な場所を探して、そこでバッテリーを交換してもらう」
「分かったって、お母さん。もう何百回も聞いた……それと、その手」
「ん?」
「私の胸をずっと指ささないで。失礼」
「ああ、悪い」
仕方ないだろ。
そこに迷彩装置をぶら下げているんだから。
「じゃあ、装置を起動したら、そのまま近くのショッピングモールへ向かう。準備ができたら手を出してくれ」
「手?どうして?」
「手をつなぐんだよ。迷彩装置を起動したら、手をつながないとはぐれるだろ?お互いの姿が見えなくなるんだぞ」
「なるほど……そこは考えてなかった」
説明を聞くと、紗夜は俺が差し出した左手をすんなり握り、自分の迷彩装置を起動した。
彼女の姿が目の前から消えてから、俺も自分の装置を起動した。
「いいか、絶対に忘れるなよ。通りに出たら人にぶつかるな。それから、俺に話しかけたり、物音を立てたりするのもなしだぞ?」
「ふっ……言いたいことは分かる。誰もいないところから声が聞こえたら、確かに怖いもんね」
「よし、行こう」
「待って、引っ張らないで!案内するのはあなたじゃないでしょ。ショッピングモールの場所、知ってるの?」
「……そうだった。案内してもらうんだったな」
紗夜は仕返しでもするように、俺の手を少し強く引いた。
「行くよ」
ただ、握った手からは、どこか弾むような気持ちも伝わってきた。
今回は突っ込まないでおこう。
今の紗夜は楽しそうだ。わざわざ水を差す理由もない。
——————
街を歩き始めて一時間近く経った頃、紗夜は大きな建物の前で足を止めた。
「うっ……痛い!ちょっと!」
「悪い悪い。急に止まったって、俺には見えないんだ。ぶつかるのも仕方ないだろ……」
紗夜がいきなり俺の前で立ち止まったせいで、俺の顎が彼女の後頭部にぶつかった。
それから俺は、紗夜とつないだ手を少し下げた。
今ごろ彼女はしゃがみ込んで、空いているほうの手で頭をさすっているのだろう。
「それより、ここがショッピングモールか?」
「そうだよ」
わざとではないと分かっているからか、紗夜は怒らなかった。
こういうところは理性的で助かる。
今は周りに人がほとんどいないので、俺たちは小声で話していた。
「じゃあ、中に入ろう。あとで人目につかない場所を探して、迷彩装置を切ればいい」
「ショッピングモールの中で切るの?人混みの中で、いきなり背中から刺されたりしない?私の友達が、映画だとそういう展開になるって言ってた」
「それは映画の話だろ……暗殺するにしたって、真っ昼間から人前でやるわけないだろ?」
紗夜には見えないが、俺は癖で肩をすくめた。
「……あいつらはこの先も、大勢の人を少しずつ入れ替えていかなきゃならない。誰かが殺されたと分かれば、地域全体の警戒レベルが上がる。困るのはあいつらのほうだ」
「おお、出た。暗殺者の経験談……勉強になった」
「こんなくだらないこと、知らずに済むならそのほうがいい。俺だって、選べるなら学びたくなかった」
残念ながら。
現実は残酷だ。
生き延びるために、俺たちは自分の手を汚さなければならない。
紗夜は俺をショッピングモールのトイレまで案内した。俺たちはそれぞれのトイレに入って迷彩装置を切り、トイレの外で合流した。
「……なんだか楽しそうだな?まさか、さっきからずっとそんな調子だったのか?」
相変わらずのポーカーフェイスだが、動きが少し軽やかになった気がする。
「だって、透明人間みたいにショッピングモールへ忍び込んで、どこへ行っても誰にも気づかれなかったんだよ。宇宙人の案内役をするのと同じくらい、新鮮だった」
「そうだな。普通に暮らしていたら、なかなかできない体験だろうし……」
「あなたのおかげで、こんな生活を送ることになったんだけどね」
「悪い……」
今さら謝っても遅いが、胸の奥にかすかな罪悪感が湧いた。
紗夜の日常をこの手で奪ったのは、俺だからだ。
「今日はやけに謝るね。何度も言ったでしょ。私の生活を奪ったことは恨んでない。強いて恨むなら、私を生かして処分しなかったことくらいかな」
「おい……もう少し前向きに考えろよ」
「分かってる。私が言いたいのは、自分の人生を、私とそっくりな別の宇宙人の女の子に渡そうとしたのは、私自身の決断だってこと。だから、あなたがそんなに罪悪感を抱く必要はない」
そこまで言われてなお気にするのは、かえって俺の独りよがりか。
分かった。
この話はもう終わりにしよう。
「じゃあ、先に服を買いに行かないか?少なくとも、この格好からは早く着替えたい」
戦闘服を着ているわけではないのに、やけに人目を引いている気がする。
理由はほかでもない。
俺の服には、オルレイアが手でハートを作っている写真がプリントされている。
おまけに、紗夜から借りた女物の上着まで羽織っている……
正直、俺自身もこの格好は変だと思う。
「じゃあ、先にあなたの服を買おう。このショッピングモールにはメンズの店がたくさんあるから、気に入るものも見つかると思う」
「俺のセンスがおかしくないか、スポンサーのお嬢さんに見てもらうとするか」
「ふふん、それなら人選は正解。行こう」
紗夜は無表情のまま胸を張り、俺の前を歩いて案内した。
何軒か店を見て回ったあと、俺は一軒のメンズショップの前で足を止めた。
「入ってみる?」
「ああ。良さそうな服が何着かある」
「へえ……?じゃあ試着してみて。あとで感想を言うから。急がなくていいよ、待ってる」
「助かる」
何着か手に取って試着室に入り、着替えてからカーテンを開けると――
カシャッ。
「おい」
「残念。もっと変わった服を選ぶと思ってたのに、意外と普通だった」
紗夜は残念そうにスマホの写真を眺めながら、いきなり俺に文句を言い出した。
「……それ、遠回しに俺をけなしてないか?」
「ううん、あなたを信頼してただけ。予想を裏切られたな。この格好、なかなかいいよ。どうして全身真っ黒なのかは聞きたいけど、変な文字の入ったTシャツを選ばなかったから、ぎりぎり合格にしてあげる」
「世界中の文字入りTシャツ好きに謝れ!」
というか、また勝手に写真を撮ったのか……
「どうした?自分の写真がそんなに気になる?心配しないで、普通に写ってるよ」
「普通に写ってても、早く消してくれ」
「気が向いたら消す。今朝、私の寝顔を勝手に撮ったのは誰だったかな?」
はぁ……
こいつにはかなわないな。
「それで?自分ではどう思う?ほかの服も早く試してみて。気に入ったら、そのまま買えばいいから」
「うわ……なんだよ、その彼氏力の高さ。紗夜、格好いいな」
「知ってる。わざとそう言ったの。なんだか大人っぽい気がするから」
はは……
それはともかく、今の一言は本当に彼氏みたいだった。
そのあとも何着か違う服を試し、俺も紗夜もいいと思った服とカジュアルパンツを持ってレジへ向かった。
「さっきのレジのお姉さん、ずっと私たちのことを見てたね」
「俺も気づいた。また恋人同士だと思われたのか?」
「たぶんね。私たちの関係を説明してあげたかった」
支払いを済ませてメンズショップを出ると、紗夜は疲れた目で店を振り返り、困ったようにため息をついた。
「たとえば?どう説明するつもりだったんだ?」
「『一緒に追われている哀れな仲間』とか?」
「その説明のほうが問題になるだろ……」
彼女はそんな紗夜らしい自嘲気味の冗談を言うと、肩をすくめ、まるで他人事のような顔をした。
「金はあとで何とかして返す。ありがとうな、紗夜」
「別にいい。そのとき私がまだ生きてたら、返すかどうか考えてくれればいいよ」
「お前な……」
「ストップ。お母さんみたいな説教を始める前に、私も服を見たい。ほら、もう着いた」
また俺に小言を言われると察したらしく、紗夜は俺が続きを言うより早く、滑るような足取りで隣のレディースショップに入っていった。
逃げ足が速いな……
そのあと紗夜が自分の新しい服を買う番になり、俺も一緒に店へ入って選んでいると、さっきと同じような視線を向けられた。
そのせいで紗夜は、サイズの合う服を何着か手早く選んで店を出た。
◇
「シエン、さっきの視線、あなたも気づいたでしょ?」
「仕方ないだろ。男女二人で服を買いに来たら、勘違いされるのも当然だ」
強いて言えば、少し困るくらいだ。
恋愛の噂話には、誰だって興味があるんだろう。
ただ、今の俺たちには、そんなことを考える余裕はない。
「まあいいや。お昼の前に何か食べて、気分を変えよう。あ、シエン、あそこにアイスクリームが売ってる。あなたの分も買う?」
「俺は……ん?」
とはいえ、恋人同士に間違われるのも、たまには悪くない。
「カップル割引?紗夜、カップルなら六割引きだって!今からアイスを買い終わるまで、俺たちは恋人同士だ」
「うわ……割引のためにそこまでする?お金を返せとも言ってないんだから、そんなに節約しなくていいでしょ」
「何言ってるんだ……この口座の金は、俺たちの逃亡資金だぞ?少しでも節約したほうがいいだろ」
そう言ったが、俺が金を節約したい理由は、もう一つある。
口に出したら、また紗夜に説教くさいと言われそうだけどな。
「……スーパーの特売に群がるおばさんみたい」
「ああ、俺はおばさんだよ。俺もアイスが食べたいし、頼むよ、紗夜さん。俺の分は定番の味を選んでくれ」
紗夜は深いため息をつき、結局は了承してくれた。
それから俺たちは肩を並べて、アイスクリームの売店へ向かった。
「すみません、カップル割引のアイスセットを一つお願いします。一つはイチゴ味で、もう一つは……うん、カプチーノ味にします」
「お客様、『幸せいっぱい甘々胸キュンアイスクリーム』セットでよろしいでしょうか?」
「えっ……はい。そのアイスセットを一つお願いします。どうも……」
「割引をご利用になるには、お二人でハートを作って、一緒に『幸せいっぱい甘々胸キュンアイスクリーム!』と叫んでいただく必要があるんです~」
「……」
店員の兄ちゃんから説明を聞いた紗夜は、すぐに振り返り、冷たい目で俺を睨んだ。
何も言われなくても、考えていることは分かる。
『公開処刑と何が違うの?もう別々に買おうよ』
その目は、そう訴えていた。
だが……
あの宣伝文句を叫んで、決められたポーズを一緒に取るだけで、普通より大きなアイスを二つ、安く買えるんだぞ……
「でも、カップルセットのほうがお得みたいだぞ?」
「あなた……本気で言ってる……?」
紗夜のポーカーフェイスが、初めて崩れた。
口元をひくつかせながら俺の手を強く引き、その場を離れようとする。
「ポーズを取るくらいで減るものはないだろ。ちょっと付き合ってくれよ……」
「それでは決まりですね?三秒数えたら、お二人で魔法の言葉をお願いします~」
「……」
紗夜はついに観念したのか、死んだ魚のような目をして俺の隣に戻ってきた。
「三、二……一!」
「幸せいっぱい甘々胸キュンアイスクリーム!」
「幸せいっぱい甘々胸キュンアイスクリーム……(小声)」
「はい!こちらがお二人のカップルアイスセットです~。いつまでも仲良く、甘~いお二人でいてくださいね!」
俺たちが指示どおりにポーズを取ると、店員はようやく特製アイスを二つ渡してくれた。
カードで支払いを済ませ、俺は戦利品を手に売店を離れた。
売店から離れても、紗夜はずっと下を向いていた。
「……くっ、殺せ」
ようやく口を開いたかと思えば、その目には涙が浮かんでいた。
その間も彼女は、さっきの出来事を必死に忘れようとするかのように、イチゴアイスをすくっては口に運んでいる。
はは……
恥ずかしさが限界に達しているらしい。
「まあ、元気出せよ。台詞はちょっとあれだったけど、安く特製アイスが二つ手に入ったんだ。悪くなかっただろ……」
「あなたって本当に恐ろしい……次があったらよく考え……いや、次なんてない!社会的に死ぬような馬鹿なこと、二度と付き合わないから――」
紗夜はずっと下を向いたまま歩き、手に持ったカップの中のイチゴアイスにばかり気を取られていた。
ドン。
「きゃっ……!」
そのせいで、通りかかった人と正面からぶつかり、後ろに倒れて尻もちをついた。
紗夜がぶつかった相手は、いかつい顔をした、がっしりとした大男だった。
暗い紫色の髪に、顔には一本の刀傷まである。
見るからに、怒らせたらまずそうな相手だ。
しかも最悪なことに、紗夜のアイスクリームが相手の黒い上着を汚してしまっていた。
「ああ……社会的に死んでまで手に入れたアイスが……こぼれた……」
紗夜が地面にこぼれたアイスを惜しんでいる間に、相手は振り返り、彼女をぎろりと睨んでいた。
「お嬢さん……」
その声を聞いて、紗夜はゆっくり顔を上げた……
男が自分を見下ろしているのを見た途端、石にでもなったように、その場で固まってしまった。
「カズ、ちょっと下がって。そんな怖い顔で見下ろしたら、誰だって怖くて動けなくなるわ……」
「えっ……ゼナ、俺、そんなに怖かったか?お嬢さんが怪我をしていないか、聞こうとしただけなんだが」
「怖かったわよ!今のあなた、若い女の子にはものすごく怖く見えるんだから!」
暗紫色の髪をポニーテールに結んだ、短いスカート姿の女性が、カズという大男をすぐにたしなめた。いかにも仕事のできそうな雰囲気だ。
それからゼナさんはカズさんを引き離し、紗夜に手を差し伸べた。
「さあ、立てる?どこか怪我はしてない?」
「は、はい。怪我はしていません……すみません。私が前を見ていなかったせいで、上着を汚してしまって……」
差し出された手を取って立ち上がると、紗夜は顔を青くして何度も謝った。
「はは、気にしないでくれ。俺たちも急いでいて、周りを見ていなかったんだ。服が汚れたくらい大したことじゃない。帰って洗えば済むから、心配しないでくれ」
ん?
この人、意外と……話の通じる相手なのか?
カズさんは強面だが、汚れた上着を脱ぐと、逆に紗夜を気遣い、自分からも謝ってくれた。
それでも俺は気を緩められず、黙って様子を見守ることしかできなかった。
圧迫感で手のひらに汗がにじみ、呼吸も少し速くなる。
「しかし、困ったな……俺はこの世界の金を持っていない。どうやってお嬢さんに弁償しようか」
「カズ、もう時間がないわ。また会議に遅刻したら、姉御が絶対に怒るわよ」
「……言わないでくれ。前に寝坊して遅刻したときは、丸一日、模擬戦に付き合わされたんだ。あのときは本当に死ぬかと思った」
「あはは……アクィーナからも聞いたわ。しばらくあなたのことを笑ってた」
カズさんは青ざめ、びくっと体を震わせた。
ゼナさんはそんな彼を見て、苦笑した。
「あの……お二人ともお急ぎなら、弁償は別に……」
「いや、俺がお嬢さんのものをこぼしてしまったんだ。きちんと弁償させてくれ」
紗夜は、相手が気にせず見逃してくれればそれでよかったのだろう。
ところがカズさんは弁償すると譲らず、紗夜は緊張で身動きも取れなくなっていた。
「うーん……そうだな」
カズさんはズボンのポケットに手を入れ、何かを探し始めた。
そのとき、なぜか俺の目は、彼の腰にぶら下がった汚れた小さなぬいぐるみに引き寄せられた。
ん?
どうしてぬいぐるみを腰につけているんだ?
本人の見た目との落差が大きすぎないか?
「これを、君たちに渡しておこう」
それはボタンが一つだけ付いた小型の通信機で、ボタンには半透明のカバーがかかっていた。
紗夜は最初、なかなか受け取ろうとしなかったが、カズさんは半ば強引に彼女の手へ押し込んだ。
「それをお詫びの品にするのは、ちょっと変じゃない?」
「ほかに渡せるものがなくてな。それに、最近この辺りも物騒らしいし……代わりにはなると思うんだ」
ゼナさんにそう言われ、カズさんは照れくさそうに頬をかいた。
「あの、これは何ですか?」
「こほん……いいか、お嬢さん。これは俺個人の緊急救助装置だ。ボタンを押せば、受信側に君たちの救難信号と位置情報が届く」
「……?」
説明を聞いた紗夜は、かえって怪訝そうな顔で手元の装置を見下ろした。
……
緊急救助装置……だって?
この二人、いったい何者なんだ?
「安心して。あなたたちに害を与えるものじゃないわ。万が一のための保険だと思って持っていて。ほら、私も同じ緊急救助装置を持っているの。機能もカズのものと一緒よ」
俺たちを安心させるためか、ゼナさんはスーツのポケットから同じ装置を取り出して見せた。
「ああ、ゼナの言うとおりだ。実はこの世界には、君たちには想像もつかないような危険がある。本当に危ない目に遭ったら、ためらわずにそのボタンを押してくれ。俺たちができるだけ早く駆けつける」
「……カズ、あと八分よ」
「ああ、これ以上遅れたらまずいな!とにかく、持っていてくれ!使わずに済んだら、俺たちと会った記念だと思ってくれればいい。じゃあ、俺たちはこれで失礼する。ゼナ、撤収地点まであとどれくらいだ?」
「七百メートルくらい」
次の瞬間、カズさんとゼナさんは振り返りもせず走り去った。
だが、少し離れたところで、後ろを走っていたゼナさんが突然こちらを振り返り、俺に何か言ったように見えた。
『そんなに警戒しなくても大丈夫よ、彼氏くん。あなたの彼女に何かしたりしないから~』
……!
見間違いでなければ、彼女の口はそう動いていた。
「怖かった……あのヤクザみたいなおじさんに連れ去られるかと思った。それよりシエン、あなたも薄情すぎない?横で見てるだけじゃなくて、少しくらい助けてよ!」
「そうじゃないんだ、紗夜……」
紗夜が怒るのも当然だ。
だが、俺がさっき何もしなかったのには理由がある。
「あの二人、相当強い」
「どういう意味?」
「言葉どおりだ。カズさんもゼナさんも、俺の知る【プロキシ】の中で、あの二人に匹敵するやつは数えるほどしかいないと思う」
俺もある程度の戦闘訓練は受けている。だからこそ、相手との実力差が少しは分かる。
ここまで手の打ちようがないと感じたのは初めてだ。
二人は紗夜と話しているだけに見えて、その間も一瞬たりとも周囲への警戒を解いていなかった。
どう見ても、隙が見つからなかった。
……
俺の考えが正しければ、向こうもとっくに、俺が二人を警戒していたことに気づいているはずだ。
「本当にそこまで?」
「ああ」
もし二人が俺たちに敵意を持っていたら、紗夜を連れて逃げ切れる自信さえない。
だから俺にできたのは、二人を刺激しないよう、黙って見守ることだけだった。
「もしかして、あの二人も【プロキシ】なの?」
「いや、違うと思う。ほかの【プロキシ】の顔は知っているし、艦でも見たことがない」
「じゃあ……これはどうすればいい?」
俺の険しい顔を見て、紗夜も冗談ではないと分かったようだ。
手元の緊急救助装置を見つめ、扱いに困っている。
「ひとまず、お前の次元袋にしまっておこう。押したらどうなるかは分からないが、持っているだけなら問題ないと思う」
「私たちの位置が、いつでも分かる発信機だったりしない?」
「この型は見たことがない。少なくとも、俺たちの装備じゃないことは確かだ。それに、ボタンを押さない限り作動しないみたいだ」
「分かった……」
そう言うと、紗夜は緊急救助装置を慎重に次元袋へしまった。
「その話はひとまず置いておこう。俺のカプチーノ味のアイスがまだ半分残ってる。食べるか?少し溶けたけど、まだ食べられるぞ」
「くれるの?」
「お前の金で買ったものだしな。俺だけ食べて、お前の分がないのは……気が引ける」
「じゃあ、分けて食べよう」
紗夜はアイスと俺を何度か見比べてから、素直に受け取った。
スプーンですくったアイスを口に入れた途端、顔から少しずつ緊張が抜け、いつものポーカーフェイスに戻っていった。
「うん。カプチーノ味もおいしい。ありがと。あなた、暗殺者のわりには標的に優しいね」
「俺の罪悪感が爆発するのが嫌だっただけだ」
「そう?じゃあ、そういうことにしておく」
それから紗夜はもう一口すくい、スプーンを俺の前に差し出した。
お?
俺にも食べさせてくれるのか?
「おいしい?」
「おいしい」
「ふふん。私が食べさせたんだからね」
得意げだな。
今回登場した謎の二人が何者なのか気になった方は、お時間のあるときに、ぜひ前作『籠の中に囚われた鳥たち~【仙境】から始まる、運命に抗う物語~』も覗いてみてください!
もちろん、本作だけでも問題なくお楽しみいただけますが、二人の正体は、そちらで一足先に分かりますよ!




