第5話 逃亡という名の旅
バシッ!
「……!?」
顔に突然走った痛みで、俺はベッドから飛び起きた。
まさか【プロキシ】がもう追いついてきたのか――
「うっ……」
だが、さっきまで俺が寝ていた場所の隣を見ると、紗夜の仕業だと分かった。
正確には……
――こいつの寝相が悪すぎる。
「なんだよ、その寝相!?どうやって寝たら、頭と足が逆になるんだ?」
紗夜は上下逆さまになり、大の字でぐっすり眠っている。
そして、さっき俺の顔にぶつかったのは、彼女の脚だった。
……こいつ、いくらなんでもひどすぎないか?
「おい……一応、俺はお前を殺しに来たやつなんだぞ。少しは暗殺者としてのメンツも立ててくれよ」
いくら揺すっても、まるで起きる気配がない。
どれだけ熟睡してるんだよ……
「むふふ……三号、唇、なんで腫れてるの?すごく間抜けな顔~」
間抜けなのはお前だろ!?
いったいどんな夢を見たら、そんな寝言が出てくるんだ。
はぁ……
まったく。
【プロキシ】がこっそり忍び込んだのかと思ったら、とんだ取り越し苦労だった。
まあ、いいか。
どうせ起きたんだ。少し準備をしておこう。
蹴り起こされたせいで、もう眠れそうにない……
——————
浴室で身支度を済ませて戻ると、紗夜はまだ眠っていた。
俺はそばのソファに座り、天井を見上げてぼんやりしていた。
腹が減ってきたところで、朝食にカップ麺を取りに行った。
……
ついでに紗夜の分も持ってこよう。
「……」
部屋に戻ると、紗夜はもう目を覚ましていた。
ベッドの上に起き上がり、まだ寝ぼけた顔でぼーっとしている。
扉を開ける音を聞いて、ぼさぼさの髪のまま、ゆっくりこちらを振り向いた。
「はぁ……やっと起きたか、お前」
「三号、さっきどこ行ってたの?」
「朝飯にカップ麺を取ってきた。ついでにお前の分もな」
そういえば、まだ名前を教えていなかったな……
「あと、俺にも名前がある。シエンだ」
「え?三号って、名前じゃなかったの!?」
そんな世界の秘密を知ったみたいな声を出すなよ……
「ナンバーを名前にされるほど、俺の生い立ちは悲惨じゃない」
「そうなの?てっきりスター・◯ォーズみたいな感じかと思ってた」
どんな物語かは知らないが、俺たちを哀れな存在だと思っているらしい。
「なあ……前に見た物語だけで俺たちのことを決めつけるなよ!」
「仕方ないでしょ。あなたも異星から来た宇宙人なんだから」
俺のせいかよ?
朝からこいつ、ずいぶん生意気だな……
そろそろこの憎たらしいガキに、お灸を据えてやるか。
「これを見てみろ」
「なっ……!いつ撮ったの?」
銃口を向けられていたときは、あんなに冷静だったくせに。
こんなことで慌てるのか……
いったい何を考えてるんだか。
ただの、よだれを垂らした寝顔の写真じゃないか……?
「誰かさんの美脚に顔を踏まれて起こされたからな。証拠を残そうと思って撮った」
「私のスマホ返して!なんでパスコードまで知ってるの!?」
実は昨夜、偶然彼女のパスコードが目に入った。
さっき身支度を済ませたあと、好奇心から、この「スマホ」と呼ばれる端末をあれこれ触ってみた。
すると、意外にも普通の端末と同じように、写真を撮る機能がついていることに気づいた。
それで仕返しに、勝手に彼女の美しい寝姿を撮っておいたのだ。
ぷっ……
美しい寝姿……ね?
「人のパスコードを盗み見たうえに、勝手にスマホのロックまで解除して……あなた、本当に失礼!」
「俺に文句を言う前に、寝ている俺の顔を蹴って起こしたことを謝るべきじゃないか?」
「それとこれとは別。あなたにどうこう言われる筋合いはない」
紗夜は俺の手からスマホをひったくると、すぐにあの恥ずかしい写真を消した。
その間も、負けじと俺に悪態をついてくる。
「いっそあの写真を艦に送って、みんなに『優等生』の恥ずかしい姿を見せてやればよかったな」
「そんなことしたら、絶対に殺す……」
虫けらでも見るような目で俺を睨んできた。
「はいはい、俺の負けだ。勝手にスマホを使ったのは悪かった。これでいいか?」
【プロキシ】を殺すと堂々と言い放つ標的なんて、初めて見た。
「それにしても、お前みたいな完璧なやつでも、寝相はあんなに悪いんだな……どうやったらあんな格好になるんだ?」
「何?あなた、美少女はう◯こしないとでも思ってる哀れな童◯くんなの?」
「おい!女の子がそんな言葉を口にするなよ!」
しかも、自分で美少女って言ったぞ……
確かにそうだけど、そういうのは他人に言ってもらうものだろ?
「何?図星だった?」
図星じゃない!
こいつは本当に……
生意気すぎて腹が立つ。
「……カップ麺、食べるのか?いらないなら返してくるぞ」
「いるに決まってるでしょ!ちょっと……!」
「だったら、そういう下品なことを言うのはやめろ」
「ううう……私を殺しに来た暗殺者のくせに、なんでお母さんより口うるさいの!?」
まだ言い返すのか……
「分かった、分かった。直すから、私の朝ごはんを返さないで!」
俺が本当に個室のドアへ向かうと、紗夜は渋々俺を呼び止めた。
「あと、お湯も入れて」
「……注文が多いな!?自分で入れられないのか?」
「どうせあなたも、自分の分を作るんでしょ?」
俺はいつからこいつの世話係になったんだ……
◇
身支度を済ませた誰かさんは、すぐにテーブルへ戻り、カップ麺の蓋を開けて勢いよく食べ始めた。
「ずるずる……ふぅ~、満足!」
「ずいぶん簡単に満足するんだな?」
「立派な実績や肩書きより、私は湯気の立つカップ麺一杯のほうが好き」
紗夜は麺を食べ終えると、残ったスープまで飲み干した。
その姿は、これまで標的になったおっさんたちとそっくりだった。
それからようやく立ち上がり、空になったカップを部屋の外のゴミ箱に捨てた。
あ……
俺のカップもついでに持っていってくれた。
それはありがたい。
「紗夜、もう一度だけ確認させてくれ。ここにいられるのは九時までで、このあとネットカフェを出るんだよな?」
「ん?まだ一日いたいの?」
「いや……今日出るのが一番いい。もう一日いたら、艦にいる連中に居場所を特定されやすくなる」
「さっきは私の変な写真を艦に送るって言ってたのに……今度は居場所がばれるのを心配するんだ?」
「冗談だって、お前も分かってるだろ?」
紗夜は聞こえなかったふりをした。
ベッドに寝転び、残りの時間は目を閉じて休むつもりらしい。
というか、朝飯を食べたばかりでまた横になるなよ!
太るぞ?
「もういい。ここにあと一日いよう」
次の瞬間、そんな無責任な言葉が飛び出した。
「却下。お前、本当に少しも心配してないんだな?」
「だって、ここのベッド、寝心地がいいから。ほら、ブラックホールみたいに私を吸いつけて離さない。もう起きられない」
「ふざけてないで、早く支度しろ。もうすぐチェックアウトの時間だ」
「ちぇっ……ケチな男」
紗夜は無表情のまま、苦労してベッドから起き上がった。
伸びをしてから、昨夜洗った服を手に取り、ふらふらと浴室へ向かった。
「じゃあ、シャワーを浴びてくる。少し待ってて」
「また風呂に入るのか!?頼むから手早く済ませてくれよ」
「適切に対処する」
いや、そこは「急ぐ」って言うところだろ!?
あとで店員に追い出されたら、恥をかくのは俺たち二人なんだぞ?
しばらくすると、浴室から水音が聞こえてきた……
それから、短いため息も。
何を考えているのやら。
さて、今度は俺が何をするかだ。
何もせずベッドで待っているのも退屈だしな。
彼女がシャワーを浴びている間に、今日の予定を相談しておこう。
「なあ、紗夜。聞こえるか?」
「今度は何、シエンさん?先に言っておくけど、早くしろって催促するつもりなら、かえって遅くなるよ。人に急かされるの、嫌いだから」
「チェックアウトしたあと、何をしてどこへ行くか相談したいだけだ。多少は計画を立てておいたほうがいいと思う」
「そんなの、どうでもいいでしょ。雨風をしのげて、できれば冷房もある場所で過ごして、夜になったら泊まれるところを探せばいいじゃない」
「適当すぎるだろ!?まさか、それで一日を丸ごと潰すつもりか?」
「ほかにどうするの?私たち、今追われてるんだよ?」
言われなくても分かってるっての。
まったく……
「服を買い替えたい。俺の服は目立つし、お前が昨夜着ていた服も、あいつらに見られている。ただ、買うとなるとお前に金を出してもらうことになる。だから……」
「ああ、服が欲しいの?ちょうどいい。あとでショッピングモールに行こう」
「ショッピングモールって、いろんなものを売っていて、人も大勢いる場所だよな?」
「そう」
それだ。
人混みに紛れられるし、【プロキシ】とばったり出くわす可能性も減らせる。
【プロキシ】はたいてい人けのない場所で動く。ショッピングモールの中なら、そのぶん安全なはずだ。
……
たぶんな。
少なくとも、俺の知る【プロキシ】の大半はそうやって動く。
俺たちだって、そこまで運が悪くはないだろう。
「シャワーを浴び終わったら、私のキャッシュカードを渡す。口座のお金は好きに使っていいよ。あ、でも一日に引き出せる額には上限があるから、そこは覚えておいて。いざというときにお金を引き出せなくなっても、私にはどうしようもないから」
「俺をヒモにするみたいな言い方は何だよ?」
「そんなつもりじゃない。ただ……私が死んでも、あなたはそのカードを持って生きていけるでしょ。預金を銀行で眠らせたままにするより、誰かに使ってもらったほうがいい」
「おいおい、自分が死ぬ前提で考えるなよ!」
どうやら……
紗夜のこういう考え方は、しばらく直りそうにない。
別に、何が何でも生き延びろと押しつけたいわけじゃない。でも……
せめて、そこまで悲観しなくてもいいだろ?
ずっとそんな後ろ向きなことばかり言われたら、こっちまで気が滅入ってくる。
「俺たち二人とも、これからどうするかまだ決めてないし、いっそ……」
何か理由を見つけないとな。
先へ進む理由があれば、紗夜も少しは前向きになるんじゃないか?
「俺にお前たちの世界を見せてくれないか?」
「どういう意味?」
「お前に案内役を頼みたいんだ。この世界を、俺に見せてほしい」
「うわ……そんなこと言って、自分では格好いいと思ってるの?正直、ちょっと中二病っぽい……」
中二病って何だ?
……いや。
意味は分からなくても、こいつが俺をからかっているのは分かる。
「何だよ?俺は宇宙人なんだから、これから暮らす世界のことを知りたいと思うのは普通だろ?」
「はいはい。じゃあ、そういうことで決まりね~」
水音が一瞬止んだ。
続いて、浴室からまたあきれたようなため息が聞こえた。
紗夜はもう考えるのも面倒になったのか、投げやりに返事をした。
「どうせ私も、やりたいことなんてないし。宇宙人の案内役っていうのも、ちょっと新鮮かもね」
「じゃあ、これからの旅、よろしく頼むな?」
「逃亡でしょ?」
「普段はあんなに適当なのに、そういう細かいところにはこだわるんだな……逃げながら旅をするのも悪くないだろ?」
「だから、中二病っぽいって言ってるの」




