第4話 標的と過ごす最初の夜
ザーッ――
「はぁ……」
浴室から聞こえてくる水音に、俺は思わずため息をついた。
どうしてだ?
『怪我人こそ清潔にしておいたほうがいいでしょ!?』
つい十数分前まで、誰かさんとどちらが先に風呂を使うかで言い争っていた。
実は、傷口を覆うガーゼにも、消毒に使う消毒液にも、細胞の再生を強力に促す薬剤が含まれている。
俺の傷はとっくに治り始めている。
あと数日安静にしていれば、左手も普通に使えるようになる。彼女が思っているほど重傷じゃない。
傷跡が残る?
それこそありえない。
というか……
男の俺が、年下の女の子を差し置いて先に風呂に入るわけにはいかないだろ?
オルレイアが言っていた。お風呂は女の子にとって、一日の中でいちばん大事な時間らしい。
汚れたまま俺と一緒にいるのは嫌だとも言っていた。
だから、紗夜も同じはずだ。
二人とも女の子だしな。
ガチャッ――
「上がったよ。次、入って」
「おう。服のサイズは大丈夫か?」
「まあね。男物のサイズだから、ちょっとぶかぶかだけど」
彼女は両腕を真横に広げてT字になり、服がどれほど大きいか俺に見せた。
熱いシャワーを浴びたばかりだからだろうか。
頬が少し赤く、髪もまだ濡れている。
「でも、裸でいるよりはまし。まあ……あなたたち宇宙人の服のデザインは、私にはちょっと、その……」
今、紗夜が着ているのは俺の予備の私服だ。
もともと着ていた服は、洗濯に出してある。
「おいおい、最後の一言は余計だろ?俺の服が気に入らないなら、返してもらってもいいんだぞ?」
「女の子の写真がプリントされた服って、自分でも変だと思わないの?」
その服には、オルレイアが「Ciallo~(∠・ω< )⌒☆」のポーズを取った写真までプリントされている。
紗夜は自分の服を見下ろしてから、馬鹿を見るような目を俺に向けた。
「人の幼なじみを変人扱いするなよ!」
「え、この可愛い女の子、あなたの幼なじみなの?幼なじみの写真を私服にプリントするって、どういうこと?もしかして変態?」
「一度にそんなに聞くなよ。それに何度も言ってるだろ、俺は変態じゃない!あのとき彼女が『会えないときも、この服を着れば私に会えますよ!』って言って、服を全部俺に押しつけてきたんだ」
「彼女、あなたへの好感度が高すぎない?」
「えっ……ああ。普段から俺のことをすごく気にかけてくれてるのは、俺も分かってる……」
オルレイアは俺が初めて出撃したときも、「服が汚れたらどうするんですか?」と騒いで、次元袋に私服を何着も勝手に詰め込んできた。
おかげで、こんな思いもよらない場面で予備の服が役に立った。
彼女に教わった知識も、用意してもらった物も、いつも妙なところで役に立つ。
……
今ごろ、どうしているんだろう?
俺のせいで処罰されていなければいいんだが……
「ところで、紗夜」
「何?」
この部屋に入ってから、ずっと言おうと思っていたことがある。
一度ちゃんと言っておかないとな。
「俺が言うのもなんだけど、お前、無防備すぎないか?俺が急に本性を現して、お前に何かするかもしれないとは思わないのか?」
俺を異性として見ていないんだろうか。
スカートをはいているのに、部屋に入るなりベッドに飛び込んだのだ。
俺がとっさに目をそらさなかったら、きっと見えていた……
「何?私を襲うつもり?それとも急に気が変わって、私を殺すことにした?」
「いや、そんなことはしないけど……」
「でしょ?なら問題ないじゃない」
ええ……
そういうことだけど、そういうことじゃない!
まあ、いいか。
「はぁ……お前には本当にかなわない。知らない相手にもそんなに無警戒だと、いつかひどい目に遭うぞ」
「分かった、分かった。私を暗殺しに来た殺し屋のくせに、うちのお母さんよりうるさいんだから……」
おいおい?
こっちは心配してるんだぞ?
それをうるさいって……
「俺が風呂に入っている間に誰かが襲ってきたら、絶対に大声で呼んでくれよ?」
「……念のため確認するけど、まさか全裸で飛び出して戦うつもりじゃないよね?」
「少なくともタオルは巻くから、そこは安心しろ」
俺はいつになったら、変態のレッテルを剥がせるんだろう……
「分かった。ちょっと聞いただけ。ほら、お風呂に入って。しっしっ。私、髪を乾かすから」
「はいはい……」
紗夜に浴室へ押し込まれ、扉を閉めると、外からドライヤーの音が聞こえてきた。
――――――
風呂を済ませて新しい服に着替えると、体がずいぶん軽くなった。
浴室から出ると、紗夜はテーブルの前に座り、カップに入った麺のようなものを食べながら、本を手にしていた。
……ずいぶん夢中だな。
「麺か?エラリスの食文化って、俺たちの星のものとけっこう似てるんだな」
「カップ麺。さっき頼んだの。ほら、メニューはベッドの上。食べたいものがあったら好きに頼んで。それと、注文用のタブレットはここ。自分で注文して」
だが、麺を食べている間も、俺と話している間も、彼女の視線はずっと目の前の……白黒で、絵がびっしり描かれた本に釘付けだった。
タブレットを差し出すときでさえ、俺のほうをちらりとも見ない。
今まで暇なときは、オルレイアや友達と出かけるか、ソファに寝転んで彼女と映画を見ていた。
本を読むような娯楽には、ほとんど触れてこなかった。
「本ってそんなに面白いのか?動かない絵がたくさん描いてあるだけだろ?」
「さあね。私も今まで漫画は読んだことがなくて、今日が初めて。最初はあなたと同じように思ってたけど、この漫画、意外と面白い」
「へえ。漫画っていうのか?その漫画、何ていうタイトルなんだ?あとで俺も一冊借りて読んでみる」
「【嫉妬の王冠】。部屋からいちばん近い本棚にあるよ。主人公がヒロインを抱きかかえて戦う姿、なんだか夢みたい」
「俺はお前を連れて逃げることしかできなくて、悪かったな?」
「何?あなたに抱きかかえられたまま戦ってほしいなんて言ってないけど。現実でそんなことをしたら、私は足手まといになるだけだと思う」
漫画を読んだからって、俺に実現できそうにない期待を抱かないのはありがたい。
まずは夕食のメニューを見てみよう。
今は追われている身でも、食事の時間になれば腹は減る。
うーん……
そこには料理名がびっしりと並んでいて、ほとんどが俺の知らないものだった。
「……やっぱり、お前と同じカップ麺にしようかな」
「カップ麺って、量はけっこう少ないよ?男の人なら、それだけじゃ足りないんじゃない?」
「大丈夫。お前の金を使わせてもらうんだし、カップ麺がいちばん安そうだ。これにする」
宿泊費を女の子に出してもらったうえ、食事まで余計な金を使わせるほど、俺は図々しくない。
「遠慮しすぎ。お金のことは心配しないで。好きに使っていいから」
「まさか、隠れた大金持ちなのか?カードに入ってる金で、俺たち二人、どれくらい暮らせるんだ?」
「四、五か月くらいかな」
四、五か月だけ!?
金がなくなったら、どうするんだ?
「そのあとは?」
「考えてない。もともと、成り行きに任せるつもりだったから」
嘘だろ……
将来のことすら考えていないのか?
「どうせその頃には、私がまだ生きてるかも分からないし」
それに、考え方が後ろ向きすぎるだろ!?
どうして自分が死ぬ前提で将来を考えるんだよ?
「もし最後まで逃げ切って、本当に生き延びたらどうする?」
「別に。それはそのときの話。未来のことは、未来になってから考えればいい」
「そうか……」
「タブレット貸して。辛いものは食べられるんでしょ?ビーフカレーを頼んであげる。味は少し濃くて辛めだけど、あなたなら気に入ると思う。写真を見る限り量も多そうだし、これなら足りるはず」
紗夜は俺が遠慮していると思ったのか、俺の手からタブレットを取り上げ、ビーフカレーという料理を注文してくれた。
それから数分もすると、部屋のドアがノックされた。
女性の店員さんから熱々のカレーライスを受け取り、皿を持って部屋に入ると、スパイスの強い香りがたちまち部屋いっぱいに広がった。
でも、確かに食欲をそそられる。
俺の好きな香りだ。
「部屋で食べてもいいか?って、今さら聞くのも遅いな。もうカレーの匂いでいっぱいだ」
「気にしない。食べて」
「分かった。先に漫画を取ってきてから食べる。さっき言ってたのは、【嫉妬の王冠】だったよな?」
「うん。三巻と四巻も取ってきて。一巻と二巻はここにあるから」
「おう」
頼まれた漫画を持って戻ると、俺はカレーを食べながら、彼女に勧められた一冊をめくった。
正直、こんなに面白いとは思わなかった。
動かない絵では、映画のような面白さは出せないと思っていた。
実際に読んでみると、漫画も映画と同じくらい引き込まれる。
「本を汚さないでね。借り物だから」
「それくらいの常識はある」
紗夜は座り疲れたのか、俺の後ろのベッドに上がり、うつ伏せになって漫画を広げ、読み始めた。
小さな足をぱたぱたと揺らしていて、全身からくつろいだ雰囲気が漂っている。
はぁ……
緊張しているのが俺だけみたいじゃないか。
◇
ようやくカレーを食べ終えた。
「ふう……ごちそうさま。このカレー、気に入った」
「庶民のごちそうだからね。おいしいカレーの誘惑には誰も勝てないよ」
……
ちょうど一巻を読み終えたし、もう時間も遅い……
そろそろ紗夜と、あのことを話しておくべきだろう。
さっき風呂に入っている間も、ずっと頭から離れなかった。
だから寝る前に、彼女と話しておきたい。
「なあ、紗夜。今、少し話せるか?」
「何の話?」
俺の表情がこわばっているのに気づいたのか、紗夜はようやく本を脇に置き、こちらに目を向けた。
とはいえ、ベッドに横向きで寝転び、片手で頬を支えたままだった。
「俺はお前を暗殺しに来た【プロキシ】だけど、任務を放棄してお前を殺さなかったせいで、さっき突然現れた四十六号に俺たち二人が襲われた。ここまでは、お前も同じ認識だよな?」
「……何を言い出すのかと思ったら、私を見逃した話を蒸し返したいだけ?何?今ここで私に何かお返しでもしてほしいの?」
「違うって。お前も分かってるだろ。見返りが欲しくて殺さなかったわけじゃない。俺が言いたいのは、四十六号を殺さなかったことだ。あいつの装備を取り上げて、艦に送り返しただけだからな」
そうだ。
追われているのが俺一人なら、自分のしたことに責任を取れる。
でも、今は違う。紗夜も追われる身だ。
「なるほど。私を殺しに来た殺し屋を逃がしたことで、私が不愉快に思うんじゃないかって気にしてるの?」
「だいたいそういうことだ。俺は……四十六号が無事に艦へ戻れば、艦の【プロキシ】は一人も減らずに済むし、もっと多くの【コピー】が他人に成り代わって、早く生活を安定させられると思った。でも、お前たちエラリス人にとっては、そうじゃないだろ?」
艦にいる人たちにとっては、もちろんいいことだ。
俺も最初はそう考えた。
だけど……エラリス人にとっては?
紗夜はもともとエラリスの住民で、暗殺の標的にされた側だ。
俺が勝手に四十六号を見逃したことで、エラリスではさらに多くの紗夜の同胞が暗殺され、誰かに成り代わられることになる。
「だから、お前の意見を聞いておきたくて……」
「私にはどうでもいい」
予想に反して、彼女は少しも迷わず答えた。
え……?
即答!?
「でも、それで暗殺される人が増えるんだぞ?」
「私に何の関係があるの?殺すのは私じゃないのに、どうして私が責任を負わなきゃいけないわけ?」
紗夜はそのまま仰向けになった。
天井を見つめ、しびれてきた腕を揉みながら答える彼女の声は、怖いほど冷たかった。
その言葉に、俺は思わず両手を握りしめた。
「もし四十六号がまた殺しに来たら?」
「どうでもいい。逃げられたら生き延びる。逃げられなかったら、最悪、死ぬだけ」
「お、お前……ずいぶん達観してるんだな……本当に高校を卒業したばかりなのか?」
「無駄なことをあれこれ考えるのが面倒なだけ。まだ寝ないなら、スタンドライトをつけて、好きなことをしてていいよ。ふぁ……私は疲れたから、先に寝る」
それから、寝ている間は大きな音を立てないでほしいと、念を押された。
周りが少し騒がしいだけでも目が覚めるらしい。
……
そう。
それだけだった。
「すぅ……」
布団をかけて間もなく、彼女は穏やかな寝息を立て始めた。
ついさっき自分を殺そうとしたやつと同じ部屋にいるのに、よくこんなにぐっすり眠れるな……
肝が据わっているというか、何というか。
まあ、いいか。
寝る前に個室を出て、ネットカフェの周囲を警戒し、【プロキシ】対策の罠をいくつか仕掛けておこう。
連中が近づけば、罠がそいつの持つ電子機器を感知して、俺に警報を送る。
だって……
熟睡している間に殺されるなんて御免だからな。
すべての準備を終えてから、俺は部屋に戻り、紗夜が空けてくれた場所に横になった。
「……」
隣で眠る彼女を見ていると、俺は思わずこめかみを揉み、複雑な気持ちのままスタンドライトを消した。
「はぁ……」
今日はため息ばかりついている気がする……
まあ、いい。
これからどうするかは、明日また考えよう。
俺の相棒は、少し厄介な女の子だな。




