第二話 笑う顔
「——ゴホッ、ゴホッ!」
「猪崎さん、大丈夫ですか?」
咽るように咳き込んだ猪崎さんは、涙目になりながら頷いて返事をした。
ペンションの中は外から見た時よりも、悲惨だった。
「足元、気をつけてくださいね」
彼女に声をかけながら、俺が先を歩く。
床が見えるようにライトをわずかに傾けて、底に穴が空いている部分を避けて通る。
一歩床の上に足を乗せれば、可愛げない悲鳴が廊下を通り抜けて行く。
——ぎ、い……ギイィ
その音に混ざって風が通り過ぎた。
夏の夜にだとしても——冷たい。
「安住さん……なんだか——」
寒いと、言った瞬間、小さい悲鳴が背後から聞こえた。
「猪崎さん——怪我はっ!?」
慌てて振り返ると、片膝をついて倒れている彼女の姿があった。
完全に床に倒れる前に、片手を壁について顔を打ち付けることはなかったようだ。
何に引っかかったのか確認するために、懐中電灯を足元へ滑らせる。
「————」
声は聞こえないけど、こっちを見て笑っていた。
あの死体の女の顔。
猪崎の足首に噛み付いていた。
俺がそれに気づいた瞬間、口元を離しゆっくりと俺を見た。
声はしない。
ただ、笑っていた。
三日月のような口元から、だらっと唾液が垂れる。
「いたた……安住さん、固まってどうしたんです」
そう声をかけられて、一瞬だけ視線を外れる。
次に見た時は——何もない。
「……いや、なんでもない。それより、足、大丈夫ですか?」
ここで彼女を怖がらせる必要はないだろうと、今のことは黙っていることにした。
「ええ、大丈夫みたいです」
ゆっくりと立ち上がると、足首が問題ないか爪先を床に当ててトントン軽く叩く。
「てか、これ……転んでたら……」
猪崎さんが、床にライトを当てた。
俺はその方向へ目を向けると、尖った金属の棒が床から飛び出していた。
「……釘か」
人の手入れが無くなった建物なのだ。
古くなって、飛び出てきた可能性がある。
でも、さっきの顔。そして、この釘。
ニタァっと笑った彼女の顔は、悪意に満ちていた。
「危ないから、足元に気をつけてくださいね」
「はい……ところで、彼女が暴行を受けたのって、上の階、なんですね?」
「そうです……二階の角の部屋、管理人室です」
とは言え、数年も前の話なんだから、そんな証拠なんてあるはずがない。
だが、もしかしたら何か俺が見落としているものがあるかもしれない。
その可能性に俺は賭けている。
もう一度前を向くと、俺は再び歩みを進める。
◇
階段の前に到着すると、ふぅっと口から息を吐き出した。
残ったヤニの匂いが口を通り、タバコが恋しくなっていることに気づく。
「一服、していいですか?」
ジャケットの内側からタバコの箱を見せると、嫌な顔一つせず猪崎さんは頷く。
「はぁ〜」
苦くてツンとした匂いが鼻を突き抜けて、変な緊張感からわずかに解放されて、体の強張りが解けた。
「タバコって、美味しいんですか?」
暇を持て余している彼女は、俺の指に挟まったタバコを凝視している。
「不味いけど、うまいんですよ」
と、矛盾した回答をすると、「想像できませんね」なんて言って向かい側の壁に視線を移動した。
チリチリと言う音が鼓膜を揺らす。
鼻につく匂いを堪能して、肺をたっぷり汚染すると、それを携帯灰皿の中に突っ込んだ。
「お待たせしました。行きましょう」
壁に背中を預けるように休んでいた、猪崎さんがこっちに近寄ってくる。
俺は彼女を先導するように、階段を登りはじめた。
特に何もない。
ギイ、ギイと鳴く床の音と、風が吹き込んで剥がれかけた木の板が軽く叩く音がするだけ。
特に——何もない。
さっきまで起きていた心霊現象のような、ものも。
階段を登りきると、ちょうど建物の中心辺りに出る。
過去の記憶を遡って、管理人室はどこにあったか思い出す。
「多分……左側、だったと思うんですが」
そう曖昧に言うと、怪しむように猪崎さんが俺を見る。
「数年前の記憶だから、間違えてたらすいません……」
後、一年で人間の闇を追う仕事も終わる。
そしたら妻とのんびり余生を過ごすつもりなのだ。
「間違ったら、反対に行けばいいんで大丈夫ですよ」
猪崎さんが振り向いて反対側にライトを向けた。
「そう言えば、外から見た光……どこにもありませんね」
彼女が後でそう呟いて、外から見たそれのことを思い出した。
「確かに……それどころか」
俺達意外の話し声も、足音も聞こえない。
こんなに静かなら、何か聞こえてもいいとは思うが。
足を止めて、耳を澄ませる。
やっぱり、人の気配は——
——ひ、ひヒッ
「安住さん……今のは」
猪崎さんにも聞こえたらしい。
肩ごしに彼女を見て、俺は頷いた。
「人の声? やっぱり誰かいるのか?」
その声に釣られるように、前を振り向く。
「——今度は……人影か」
人の形をした白い影が滑るように、一番奥の部屋に入って行く。
なんとなく誘われているように思えた。
「勘弁してくれよ……」
勝手にそんな言葉が、出てしまう。
俺の担当は人間なんだ。それの最も暗い部分。
その先へと言ってしまった奴らは、坊主にでも相手してもらいたいものだ。
「……とりあえず、さっさと調べて帰りましょう」
修羅場は何度も越えてきた。
凄惨な殺人現場や、原形の無い死体なんてのも何度も見てる。
だけど、さすがにこれは堪える。
少しだけ歩く速度を上げて、一気に奥の部屋へ到着する。
「管理人室……着きましたね」
後ろを歩いていた猪崎さんが横に並ぶと、顔を上げてそう言った。
扉の上には管理人室と書かれたプレートが貼ってあり、この奥で彼女が殺されたのだ。
「中に——入りましょう」
ドアノブに手を伸ばす。
少し錆びついて、ざらついていた。
ヒンヤリとした感触が指先から伝わってくる。
さっきの白い影を思い出すと、わずかに心臓が跳ねた。
それを、強引に押し込めて、立て付けの悪くなった扉を力を込めて開く。
魔女の悲鳴のような軋み音は、ペンション全体に響いているようだ。
反響して、音が一段大きく聞こえる。
「管理人室の中は、綺麗なもんだ」
中に一歩踏み出して、顔をぐるっと回して見回す。
荒れ果てた廊下に比べれば綺麗なものだ。
「猪崎さん、ここで間違い——」
背中が熱い。
焼けた鉄を押し当てられたような。
口の中にぬるっとした液体がこみ上げて、それを吐き出した。
生臭くて甘ったるい匂いが、鼻を突き抜けた。
膝から力が抜けて、その場に倒れ込む。
「なん……で、だ」
最後の力を振り絞って、冷たく見下ろす猪崎さんを見た。
目は霞んでほとんど見えない。
だけど、彼女の口元が笑っているように見えた。
「これで……大金が——」
——ふヒッ、ヒヒヒッ
端正な彼女に似つかわしくない、笑い声。
俺の視界が闇に包まれた。
————
目を開ければ、死体があった。
「安住さん! 大丈夫ですか?」
「……ああ、なんとか」
頭に走ったノイズと、鋭い痛みが過ぎ去ってどうにか立ち上がることができた。
中庭に突然現れた、女性の死体。
数年前に死んだ被害者の肉体は、この世にないのになんで、ここに。
俺は廃墟となったペンションへと、顔を向けた。




