第107話 商談とは
「馬車が苦手と聞いていたが、大丈夫そうだね」
「あっはい、ありがとうございます?」
パトリシオ様と俺、小ぶりな馬車の中で二人きり。商談に着いていくはずだったなのだが、なぜか馬車は西門を通り抜けて、城壁沿いに緩い坂をのぼっていく。しかもほとんど手ぶら、お供は御者さんだけ。普通こういうのはもっと、ブリーフケースに書類を詰めてぇの、シゴデキ助手を従えてぇの、そういう準備が必要なのでは。
「ふふっ。うちの馬車が珍しいかな?」
「いえあのっ、王都にこんな自然豊かな場所があったのが意外と言いますか」
「まあそうだね。王都の北は建国の森に建国の丘。僕も最初に王都に来た時には驚いたよ。賑わっている王都の中とは違って、鬱蒼とした森林だからね」
王都に来る前は森に囲まれたルバルカバやポルセルに住んでいたし、来る途中も山や草原、林などを走破してきた。この世界が自然豊かなのが珍しいわけじゃない。ただ、さっきまで割と都会にいたので感覚がバグる。
違う、そうじゃない。なんで馬車は山に向かってのぼってるんだってことなんだが。
「馬車が苦手だと聞いていたから、今日は近場にしたよ。どうやら大丈夫そうだね」
「あのっ、近場と言いますと?」
「坊っちゃま、到着いたしました」
御者席の小窓から声がかかり、まもなく馬車は止まった。辺りには同じような小ぶりの馬車が停まり、世話人たちが慣れた様子で馬を厩舎に入れている。
そして馬とは別に、俺たちが案内されたのは。
「いやぁ、癒されるな。ここは僕の一番のお気に入りでね」
「はぁ」
四半刻(三十分)後、なぜか俺は渓流のせせらぎの中に立っていた。手にしているのは長い釣り竿。フライフィッシングだ。もちろん、釣り人同士は一定の距離を保たなければならない。なのでパトリシオ様とは会話もままならず、また彼もそれ以上言葉を交わすつもりはないようだ。俺はただ、黙って釣り糸を垂れるのみ。なにこの時間。商談ってどこ。
俺は今まで、釣りとは縁のない生活をしていた。そんな俺の、これまで唯一の釣り経験。それは、ラーメン研究所にサリタさんがやってきた時だった。海の魚でスープが取れるなら、川魚ではどうかということになり、海育ちのパコ・サリタ兄妹が周囲を巻き込んで、ウッキウキで釣りに出かけたものだ。結果は惨敗で、魚も釣れなければスープもうまくいかなかった。苦い思い出だ。
と、先日の夕飯時に「釣りは好きか」と聞かれて、そんな話をした気がする。パトリシオ様はなんだか満足そうに頷き、からのナウ。あれが渓流釣りの前振りだったなんて、誰が予想しようか。
それにしても暇だ。魚が釣れないのはいい、それは前回の釣りで一度心を折られたから。しかしこの、冷たい水の中でずーっと立ちっぱなしってのがな。ここにいる釣り人たち、みんなこの苦行がどうして楽しいのか。そして立ち仕事なのもそうだが、この冷たい足元がどうにかならないものだろうか。
今俺は、渓流釣りの専用ブーツを履いている。俺たちの馬車を預けた厩舎、その隣の建物が釣り小屋だった。ただし、小屋と言ってもレストラン、宿泊施設などを備えており、上流階級向けの小ぶりなリゾートホテルって感じ。釣り具などの貸し出しもバッチリ。俺のはオールレンタルだ。
そのブーツなんだが、これが結構なオーラを纏っている。水色だから、水属性だろうか。ゴムのような見た目だが、うっすら鱗の模様があるので、魔物素材かもしれない。このブーツが水を通さず、また川の中の寄生虫や超小型の魔物を寄せ付けない優れものらしい。
だがしかし、ベッタリと張り付くような感触と湿気はいただけない。しかもひんやりとした冷気を含んでいて、釣り人の体温を容赦なく奪う。はっきり言って不快だ。つくづく思う。ここにいる釣り人たち、みんなこの苦行がどうして楽しいのか。
そこまで考えて、ふと思い当たった。湿気がダメなら、乾かせばいいのでは。幸い俺には、鋭敏という裏技がある。このブーツに風のオーラを纏わせれば、ワンチャン――
「キーン」
ぶわり。ブーツが内側から膨らんで、シュウシュウと空気が排出され始めた。やれやれ、最初からこうしていればよかった。ベタベタとした感触からは解放され、足裏がサラリと乾いていくのを感じる。しかし。
「さっ……寒っ……」
空気を入れることで、ブーツの冷気が本気を出してきやがった。アレだ、冬の雨の日に風が吹くと、余計に寒くなる現象。ヤバい、渓流釣りで凍死とか洒落にならん。河岸に全速待避しなければ。しかし。
「ぬおっ!」
バシャーン。俺はバランスを崩し、思い切り川の中にコケた。ブーツにキーンを掛けていたのが仇となった。風の力で浮力を得たブーツ、川の流れ、そしてゴツゴツした不安定な岩。この世界の全てが俺の敵に回った。
「ロドリゴ! 大丈夫かい?!」
走馬灯のようにゆっくりと視界が回転する中、パトリシオ様の声が虚しく響いた。商談、とは。




