19.入り婿といつもと違う日(夜・2)
夕食は寝室にある机を移動させ、即席の食卓に見立て、ユクシャは寝台の端――寝台を離れる事を許可されなかった――に腰掛けたまま、ロンドルフ家の面々と食事を囲んだ。
夕食は粥と幾つもの小鉢に少量ながら品数豊富のおかずが付いていて、ぺろりと平らげた。
現在、ユクシャは涙目だった。食後に流し込んだ薬湯の不味い苦味をお茶で口直しをしていた所でふっと思い出す。
「今夜はこちらの寝室に寝る、という事でいいですよね?」
ユクシャからしたらそれは当然だった。確認であったが、確定でもあったのに。
「なんで?」
カナリーが目を細めて問い掛けてくるものだから狼狽える。
「だって風邪ですから」
風邪をひいてる移らないように配慮するのは常識、はず。
ヒュッセラインの家とその周辺だけの話だったのか、とユクシャは真面目に悩み出した。
「風邪って言っても疲労からだから、寝台は一緒でも良いかと思ったのだけど」
カナリーは悪びれる様子なく言い切った。そもそも彼女が悪びれる必要もないのだろう。
「熱がぶり返して、魘されるかもしれませんし、動き回るかもしれませんから」
何だか同席するロンドルフ親子が心配しそうな言い方。ユクシャは考えもしないのだけど。
「だから、今日は別々に眠る方がいいと思います」
やんわりとしてるが、ユクシャはきっぱりと断った。
そろそろ、流石に気付いた。風邪の今なら、大概は我を通せるのだ、と。
今だけかもしれない。今だけでも利用しない手はない。だから、引き下がらなかった。
「仕方がないわね。なら、今夜は別々でいい」
カナリーは眉をぴくりと跳ね上げて、そう言った。
口で言うほど残念がっていないとユクシャには見て取れたが、母からしたらそうではないらしく。
「カナリーったら、そんな不服そうにするものではなくてよ。具合が良くなかったら、普段通りになるのだから」
慰めるニフリートからねえ、と同意を求めるように質されてもユクシャは反応に困った。
これを機に寝室を分けたい、なんて気持ちが無きにしも非ず。決して言いはしない。
「そうだけど。なんか、こう…」
今回はユクシャにも分かり易く口を尖らせてごにょごにょ呟くカナリーの、斜め横でティーカップを受け皿に戻したロベルトが目元を垂れ下げる。
「もう一緒に夜を過ごしてるとは嬉しい限りだね」
「本当に。そこまで仲良しさんになってるなんて知らなかったわ。まだまだだと思っていたのに」
「素振りもなかったからな。でも、仲良しなのはいい事だよ」
「何言ってるの。ユクシャとは夫婦なんだから当然よ」
ロベルトとニフリートの会話にカナリーが口を挟んだ――のは置いておいて。
聞き捨てならなかった内容から察するに。個別の寝室は政略結婚でほぼ初対面の若夫婦に気を使って用意されたものであり。
つまり、結婚式当日から共用の寝台に並んで横になる必要はなかった――と。
衝撃の事実である。やっぱり、と可笑しいと思ってもいたので納得もするが、思考の大部分を占めるのは衝撃に近い驚愕。
「前を失礼いたします」
だから、若夫婦の部屋だからと給仕を行うマルタにお茶のお代わりを煎れられても反応出来なかった。常であれば、恐縮しきりにお礼の一つや二つを口にしている所である。
くらり、と目眩に襲われたユクシャはそれどころではない。
目眩は目眩でも風邪の症状ではない。断言出来よう。
「ねえ、ユクシャ――って、どうかした?」
何かを言おうとしたカナリーの声音が不審なものへと切り替わった。
動きを止めたように俯くユクシャに気付いてしまったらしい。が、ここは誤魔化そう。
「はい、何でしょう?」
先を促されても違和感は拭いきれない。そう言わんばかりに目付きが鋭くなるカナリーにユクシャはふにゃり、と笑ってみせる。
「…大したことじゃないの。ただ、具合が良くなるまで勉強とか疲れることは禁止、ってだけ。いいわね、ユクシャ?」
結局は続きを口にしたカナリーが妙に強調したのは言われなくても分かっている内容だった。
それはそうだろう、と肯定しようとしたユクシャであったが、言葉を発する前に何よりも早く反応を返したのは身体の別の場所。
くぅーきゅるきゅるる~。
なんとまあ、間の抜けた腹の虫の音。控えめなそれの発生源はユクシャの腹から。
夕食を食べ終えたというのに、何で空腹を訴えるなのだ。まだ食べ足りないのか、確かに物足りなさは感じてはいるが。だからって、これは。
饒舌なのは胸の内だけで実際のユクシャは恥ずかしさのあまりパクパクと口を開いたり、閉じたりするだけ。
さらに恥ずかしさを助長させているのはカナリーの視線だろう。
にこにこ微笑んだままこれといった反応を示さない、聞こえない振りをしてくれているロンドルフ公爵夫婦や、夕食の片付けに勤しんでいて気にする所ではないと装う侍女等に比べて、彼女は。
表情こそ読めないながらも訝しげに首を傾げ、ユクシャを凝視してくる。
「…」
「…」
暫し、ユクシャとカナリーは無言で見つめ合う――、一方的に見つめられてユクシャにはどうにも居心地が悪い。背中を丸めて、身を小さくなっていってしまう。
「――カナリー」
窘める響きでカナリーが呼ばれ、ユクシャには柔らかな髪をかき混ぜるように撫でられる。
今日が即席の小さめの食卓だから出来るのだろう。カナリーとは反対側の斜向かいに座るニフリートだ。
「いいのですよ、ユクシャさん。食欲があるのは元気になってきた証拠ですもの」
ユクシャの回復を我が事のように嬉しがるニフリートがますます目を細めて笑みを深くしている。
「さあ、何が食べたいのかしら?何でも言ってご覧なさいな」
そんなもなのか、と先程とは逆に首を傾げるかなわないわ視界の端に捉えながら、ユクシャは怖ず怖ずと希望をニフリートに伝える。
「では、お菓子か果物あたりを頂きたいのですが…」
「あら、夕食のお代わりでなくて、よろしいの」
ニフリートではなく、ロベルトが侍女に注文し、程なくしてユクシャの希望の品を含んだ皿が運ばれてくる。
侍女二人の手では足りずに他の使用人も入れ替わり立ち替わりやってきて、並ぶわ並ぶわ。
小皿とはいえ、即席の食卓が埋め尽くされてユクシャは呆然とロンドルフ公爵夫婦とを見比べてしまった。
「さあ、食べなさい」
「食べ盛りですもの。遠慮しないで食べてちょうだい」
ロンドルフの指示なのか、料理長の采配なのか。どちらにしても、少しの言葉を付け加えなかったのが、悔やまれる。
「…いただきます」
良い笑顔でマルタとドニーがそれぞれが差し出すフォークとスプーンをユクシャは腹を決めて受け取る。
完食は絶対に無理だと思われるが食べられるだけ食べてみよう。皆から視線を向けられる中、目の前の小皿から手元に寄せたのだった。
ユクシャの胃がはち切れんばかりになった夕食後。
長居は無用とロンドルフ公爵夫婦はさっさっと若夫婦の部屋を後にして、ユクシャも早々に寝台の中に押し込められた。
寒くないように掛け布を顎下まで掛けて、仰向けになっている。動かないから眠っているのかと思いきや、ただ目を瞑っているだけ。
はっきり言ってしまおう。
――全く眠くない。
昼間たっぷり睡眠を取ったのだから当然である。
完全に目が冴えていて、欠伸の一つも込み上げてこない。読書の続き等をして眠気が訪れるのを待ちたい所だが、瞼越しにでも分かる突き刺さる視線がそれを許さない。とはいえ、ずっと微動だにしないのも辛い。
ユクシャは葛藤の後、そろそろと目を開けた。
すると、看病の名目で傍らに座っていたカナリーの灰緑の瞳と途端、目が合う。
「何?どうかした?」
見据えていたからこそカナリーは即座に反応した。
相手の体調の変化を見逃すまいと一挙一動に注意を払っているのだろう。だが、ユクシャからしたら看病ではなく、最早監視の域に達している。
それ以前に具合は大分良くなっているので看病なんて要らない。こればっかりは何度となく言葉を重ねても誰も聞き入れてもらえない。
カナリーなんて、ユクシャが眠りに付くまで看病するのだと寝支度を整える間すら惜しい、と張り切って寝台に張り付いている。
今日は我が儘をいっぱい言ったのでこれ以上我が儘を重ねるのを遠慮してしまうユクシャもいけないのかもしれない。
こんな点を差し引いてもロンドルフ公爵家の人々は使用人達も含めた誰も彼もがいちいち――。
「高が風邪で大袈裟ですよ」
不満は無意識にユクシャの口から言葉となって零れ落ちていた。
「大袈裟なんかじゃないわよ。全く、起きたと思ったら何を言い出すんだか」
呆れた、とカナリーの咎める声と一緒に濡らした布が降ってきた。
見よう見まねなのか水分が多い布を目にかからないよう額に移動させながら、ユクシャは目線で意味を聞いてみる。
「風邪は万病の元っていうから油断は大敵なの。それにお父様の件があるから皆、連想してしまっているのよ」
「ロベルトさんの、件?」
「そう、お父様。大病を患っていたの、知らない?」
「ああ、聞き齧ってはいます」
ロベルトがかつて病であり、今は完治していて何の支障もない、のは知識としては知っている。
ユクシャの認識はこの程度でしかなかったが、当事者であったロンドルフ公爵家の人々にはそうではなかったのだ。
まさかユクシャも、と倒れた時はさぞや気を揉んだのだろう。
知らなかったとはいえ、大袈裟なんて言っていけなかった。
「すいません。もう言いません」
「分かればいいの。さ、早く休んで」
治るから、と眠りを強要されてもさっきの今では未だに眠気等はない。
困った様はそのままユクシャの態度に出ていて。
「なんだ、眠れないの?仕方がないわね。眠れるように子守唄歌ったあげようか?」
「えっ!?」
「それとも本?」
「そっちの方が――」
「そうね、本の読み聞かせは初めてだけど成るようなるわ、きっと」
親子である事を示すように昼間のニフリートと同じ言葉だ。
微笑ましいと感じる一方で今度こそ体験してなるものかと、ユクシャは急いで目を閉じた。
「寝ちゃうの、ユクシャったら」
笑み混じりでもどこか残念そうなカナリーの声を聞きながら、羊の数でも数えて何が何でも眠ってしまおうとするユクシャだった。
◇◆◇◆◇◆
小鳥が鳴く爽やかな朝に相応しい、すっきりとした目覚めだった。
昨日の風邪が嘘のような、それどころかここ久しくなかった清々しさ。
ぱちり、と目を開けたユクシャは掛け布から両手を出して、大きく伸びをした。
動いてみても身体が不調を訴えたりはしない。少なくとも熱はなさそうだ。気持ちゆっくり起き上がってみても、目眩は起きなかった。
今朝も医者の往診を受けると聞いていたが、ユクシャは自己判断で動き出す事にする。
先ずはカーテンと言わず、窓を開け放とうか。いつもより遅い起床であるもの、朝の新鮮な空気に入れ換えるのだ。その後は着替えだろう。夫婦の共用の寝室を隔てているから多少の物音は平気だろう。
「よしっ」
小さく掛け声で気合いを入れたユクシャは掛け布を撥ね退けようとして。
――うええぇぇぇっっ!?
その掛け布の上に有り得ないものを発見して、驚きのあまり動作は止まって、不自然な体勢に。
但し、実際に叫び声を上げる訳にはいかなかったので心の中での叫びだった。
こんな芸当ばかり上手くなっている気がする――じゃなくて、なんで、こんな場所にいるのだ。
いやいや。誰も見ていないにも関わらず、頭を振るユクシャの指が指し示す先で、カナリーが眠っていた。
椅子に座り、寝台の真ん中あたりで突っ伏して肩を上下させて静かに寝息を立てている。
室内が薄暗くともこの白金の髪を見間違えたりしない。
「な、な、な、なんで!?」
何故だか、なんて考えるまでもなく理解してしまったけど、言わずにはいられなかった。
看病の名目で傍に居て、昨夜そのままカナリー自身も眠ってしまったようだ。
ユクシャが眠るまでの看病なんてお願いしなければよかった。
後悔の念が渦巻く脳内の片隅でカナリーが此処、ユクシャの寝室に居るのを第三者が知っているであろう事にも気付いた。
そうでなければ、カナリーの肩を毛布は掛かっていない。
わざわざ本人が毛布を持ち出した可能性は考えないでおく。夕食後からユクシャが目を瞑るまで別件の仕事とかで室内には居なかったが、カナリーの毛布は侍女のどちらかの手に寄るものだろう。毛布を掛けるよりもカナリーを起こして、ユクシャの寝室から移動させて欲しかった。
しかもカナリーが何処に居るのかは侍女だけでなく、ロンドルフ公爵夫婦にも話がいってそうな気がする。勘なので確証はない。
この件については一言物申したいが、先行すべきは目の前のカナリー。
「カナリー様、起きてください。こんな場所で寝てちゃ駄目です」
触るのは躊躇われて突いたら、厭々とむずがってカナリーは反対側に顔を向けてしまった。
健やかな寝息から気持ち良く眠っているのは推測出来るから、起きたくないのは分かる。
しかし、こんな体勢では辛いはずだ。身体のあちらこちらが痛いだろう。
もしかして、思わず様付けで呼んでしまったのも関係しているのか。
「ほら、カナリーさん。目を覚まして、起きてください」
次にユクシャはおっかなびっくりではあるものの、カナリーの肩を揺さぶって語気を強めてみた。
今度こそ、カナリーをどうにか目覚めさせるに成功したようだ。
「…んー」
反応があったのでユクシャが離れれば、カナリーはややあって凝り固まった身体をぎこちなく起こした。
「ユクシャ?」
肩の毛布を落とさないように手で掴んで、もう片方の手で目を擦るカナリーの問う言葉は幾分舌足らず。
「はい、そうですよ。駄目じゃないです、こんな所で寝ては」
「ぅん」
「カナリーさんが風邪を引いちゃいます」
「んー、…ええ」
未だ寝ぼけている。会話が成り立っていない。
侍女か誰かを呼んでこようかと考えるユクシャが実行に移す前にカナリーは再び問うた。
「具合は――?」
「え?」
「熱、下がってる?身体は怠くない?」
カナリーはぼんやりしているように見えて、状況は把握してきているらしい。
それにしても、身体の具合を聞かれるとはユクシャには思わなかった。やっぱり大袈裟だと吐息で笑ってしまった。
「もうどこもおかしくないです。元気過ぎるくらいです」
安心させる意味合いも込めたユクシャは微笑んで力強く頷けば、カナリーは笑った。
ふわり、と花が綻ぶような笑顔で。正に花の容に相応しい。
「なら、良かった…」
目論み通りのはずなのに、笑みを直視したユクシャはぴきり、と石になったかのように固まった。
固まるユクシャにカナリーが段々近付いてきて――甘い香りがする髪が鼻先を掠め、そのまま再び寝台に突っ伏した。
安堵感からか、寝足りないのか、二度寝に突入であるもの。
「え、あ、ちょっと。カナリーさん?」
「寝るから、…お休み」
「もう朝ですって。寝ないで、起きてくださいよー」
カナリーを起こすに必死になっていて気付きはしなかったが、この時のユクシャは熟れたトマトのように顔を真っ赤に染めていた。顔とはいわず、耳まで赤らんでいたのだった。




