18.入り婿といつもと違う日(夜・1)
お帰りなさいより前に彼女に開口一番齎された“それ”は鈍器で殴られたような激しい衝撃を与えた。
冗談、と笑い飛ばしたかったが、からからに渇いた喉が絡まって上手く発声出来ない。
ざあと顔から血の気が引き、目の前が暗くなる。脚ががくがくと震え、気を抜くと座り込んでしまいそうだ。
周りがまだ何かを喋っているようだが、全ては雑多な音と化して何一つ耳に入ってこない。
しかし、だからといって。言い知れぬ恐ろしさに捕らわれたこのまま呆けてはいられない。
何かを。何をしなければならないのか。漸く頭が動き出して考えが巡り出した。
動き出さなくては事態は変わらない――否、例え、彼女が行動した所で事態に変化が無かろうとも、何もしないでいるなんて出来っこない。
彼女は床に着きそうな長い裾を持ち上げ、猛然と走り出す。
玄関から廊下を駆け抜け、階段を一段飛ばしで登る。
大股で走るなんて彼女のような淑女にはあるまじき行為。もう何年も十年以上していない。だが、そんなものに構っている暇はない。
兎に角、走る。息が上がろうとも、胸が苦しかろうとも、足を前へ前へと動かして走った。
普段は気にも留めない家の中がこんなにも恨めしい。広くていつまで経っても着きやしない。何て事ないのに、こんなにももどかしく感じるなんて。
最後の階段を登り切り、廊下の向こうに終わり――ゴールという名の目的地――がやっと見えた。
速度を上げ、足が縺れるのも構わずに体当たりで扉を開ける。
大きな音が響くがこちらも構わずに、奥の扉も同じように開け放つ。
目だけを動かして、こちらの部屋にも誰も居ないのを確認する。なら、さらに奥だ。
――神様、どうか。
天に何事もない事を願いつつ、最後の扉に手を掛けて――。
◇◆◇◆◇◆
ユクシャは寝台の上で身を起こし、一冊の書物に目を落としていた。
病気なのだから勉強は以て外と許されなかったので内容は子供向けの児童書。
子供時代にユクシャも胸躍らせた冒険記。カナリーが読んでいたにしては古いのでロベルトの物かもしれない。
ただ純粋に読書を楽しむ一時に懐かしさも手伝い、次々と頁を捲っていく。
ロベルトもニフリートも寝台の傍らでゆったりと銘々何かしら行っている。
そんな夕暮れののんびりとしたは静かな時間――時々紙の擦れる音と衣擦れがするだけ――は、あっという間にぶち壊された。
思いっ切り力一杯、扉を蹴破る大きな音で、だ。
「っ!?」
予想だにしていなかったユクシャは寝台の上で手元の書物ごと身体がびくっと飛び跳ねた。
急激な動作だったにも関わらず、眩暈は起きなかった。これも薬湯と手厚い看病のお陰だろう。
眩暈の代わりに目を白黒させていたら、また扉を思いっ切り蹴破る大きな音。
「!!?」
響いたそれは先程よりも乱暴だった気がする、というよりも近付いてきているようだ。
頭の片隅では冷静に判断出来たが、驚いた身体は反射的に飛び跳ねてしまった。
扉の閉まる音はなく、バタバタと足音が聞こえて、とうとうユクシャの寝室の扉が力任せに開け放たれる。
「無事でっ!?」
バターンと勢いよく開いた扉は勢いを殺し切れずに跳ね返って閉まろうとした間から身体を捩じ込むようにして部屋に入って来たのはカナリーだった。
膝の上に本を開いたままユクシャは瞬きも忘れ、カナリーを見詰てしまった。
「カナリーさん…?」
まさか、信じられない。目を疑い、脳が認識するのを拒む。
だって、それはそうなるだろう。直後までの派手な物音はカナリーが出していた事になる。
“あの”カナリーが、だ。信じられるだろうか、否。信じられる筈もない。
「カナリー、さん…」
今一度呟いてしまったが、夢でも幻でもないのだから消えない。そろそろ現在に目をやらなければ。
カナリーは切羽詰まっている雰囲気を纏っていた。
肩を大きく上下させ、片手で裾を摘み上げていて、正に走ってきた、という格好で。
部屋の中を確認したカナリーは何故か呆然と立ち尽くした。
「カナリー、お帰りなさい」
「今日は随分と賑やかさんだね」
普段と奇なるカナリーにも何のそのロベルトとニフリートはにこやかに出迎える。
「…」
何の反応も返さないカナリーだったが、やがて眦を決して大股で一気に距離を縮めて来た。
ロベルトに対してなのにあまりの迫力にユクシャは仰け反りそうになってしまったものだ。
「お父様っ!ユクシャが倒れたと聞きました。なんで教えてくれなかったの!?」
ひどい剣幕だった。詰め寄るカナリーにユクシャはあわあわと慌てる。
「話すから落ち着きなさい」
「落ち着いてるわ!私、私は、今聞いたの。どんなに驚いたか…!」
さらに顔を近付けて声を荒らげるカナリーは今にも胸倉を掴みかかりそうだ。する事はないとは思うが、止めたい一心でユクシャはカナリーとロベルトの間に口を挟む。
「あ、あのっ!僕がロベルトさんにお願いしたんです。連絡しないで、って」
深く考えずに言った言葉にどうなるか分からなかったが、――効果はあった。
「ユクシャが?」
カナリーは虚をつかれた顔をユクシャに向けてくる。灰緑の双眸に今まで見た事のない感情が宿して揺れる。
怒り、疑問でもない。考えてみて答えが出る前に引っ込んでしまい、笑顔が取って代わって表れる。
「どうして?体調不良を連絡しないでなんてお願いするのかしら?」
病床のユクシャを気遣ってか、カナリーはにっこりと笑っていて問い掛ける。が、目が笑っていないので恐ろしさしかない。
「それは…」
ユクシャは口籠もる。朝、ロベルトとニフリート相手に説明が出来なかったのが思い出され、またしても上手く言葉が出ない。
猫撫で声みたいな優しい口調ながらも容赦なく問い詰められる。
「さあ、ユクシャ教えてくれる?」
「だから、あの、その」
このままでは埒があかなくなりそうだと思われたその時、ニフリートから助け船が。
「カナリー、止めなさい」
「でも、お母様!私だって!」
「もう、心配したのなら心配したのだと素直に言わなくては駄目よ」
「そんな、し、しん、なんて…っ」
流石にカナリーも母には適わないらしく唇を噛んで黙り込んだ。
熱による汗とは違う汗をかいていたユクシャはほっと胸を撫で下ろした。
「カナリーが帰ってきたなら我々はこの辺で」
「ええ、お暇しましょうかしらね」
言葉通りに身の回りのものを片付け出したロベルトとニフリートにユクシャは安心するのは早かったと思い知った。
今カナリーと二人っきりにされるのは困る。ニフリートが間に立っているから問い詰められないのであって、残されたユクシャはどうなるか。考えたくもない。
血の気が引くユクシャを余所に話はとんとんと進んでいく。
「では、カナリー。後の看病は任せるよ」
「はい」
ロベルトはカナリーの肩に手を置いて、一任してしまった。
「じゃあ、ユクシャはまたお邪魔するわね。夕食はまた一緒に摂りましょう」
ここまで来たのならこのまま居て欲しい。寧ろ、看病はいらない。独りでも大人しくしているから。
聞こえないから当然だが、ユクシャの胸の内の訴えは無視されてロベルトとニフリートは出て行ってしまった。
「ニフリートの子守唄、相変わらず見事だったね」
「あら、ご希望ならいつでも披露しますわよ?前みたいな状況は御免ですけど…」
「もう元気だが。今夜からお願いしようかな」
「ふふ。では、今夜」
無情にも冗談めいた会話は次第に遠ざかる。
そして、カナリーと二人――正確には侍女はそのまま寝室に控えているので二人っきりではない。
しかしながら、彼女等はカナリーの行動の抑止力にはなってくれないと思うので、ユクシャは孤立無援。
連絡入れなかった件に関して後悔はないものの、びくびくしてしまうのは仕方がないだろう。
さあ、くるぞ。もうくるぞ。そろそろ今にもくる筈。
カナリーを直視出来なくて俯き加減で身構えているのにカナリーからの待ち構える言葉は一向になくて。
おかしい。固まったまま疑問を覚えるユクシャの寝室の傍らに置かれた椅子――先程までロベルトが座っていた椅子だ――にカナリーは無言で腰掛ける。常にない、やや乱暴さを感じる動作の後で深い息を吐き出した。
ユクシャにはそれが聞こえよがしの溜め息に聞こえた。我知らずに背筋を伸びる。
「――ユクシャ」
いよいよ、だ。
「はいっ」
上擦った返事を返しつつ、ユクシャの足が正座になっていた。掛け布に隠れされていてカナリーからは見えはしないだろうが。
これ以上にないくらい背筋を正して目線だけは下に落としたまま、続きを待つ姿は説教される子供のよう。
「身体の調子は?」
思わぬ言葉に顔を上げれば、そこには真摯な眼差しがあった。
「え?」
「具合はどうなの?起きててもいいの?」
「ああ…。大分、良くなりました」
懐疑的だったが信じたらしい。時折、浮かんでいた不安が消え、淡い安堵の微笑が口元に刻んだカナリーからその後何の言葉もない。
突き刺さるような問い詰めがくると思っていただけに拍子抜けする展開。
今度こそ首を傾げたユクシャはそれを口にしてしまった。
「そんなに心配したんですか?」
はっとして口を押さえるが、口走った言葉は残念ながら戻ってこない。
そのままにしておけばいいものを今朝と同じように深く考えずに言った言葉は墓穴を掘った感が否めない。
思った通り、カナリーから表情が抜け落ちる。口元を引き結んでいて、どこか不機嫌そうでもあった。
「…貴方の姿を見るまで生きた心地がしなかったわよ」
わざとらしい大きな溜め息をしたカナリーは白状して黙り込んだ。同時に直前までの自身の行動を省みて頬を朱に染まる。
恥じらいつつも次に口にしたのは別の事。
「――で、なんで連絡をくれなかったと言うの?」
誤魔化すためでなく、ユクシャの具合を確認したとなれば、今一番に気になるのはこれなのだろう。
普段の近寄り難さがないのを後押しにユクシャは言ってみる。
「それは、カナリーさんに仕事の途中で帰ってきて欲しくなかったからです」
「は?」
カナリーの眉が跳ね上がる。
それだけで萎縮してしまう所だったが、今日に限ってはすらすらと言葉が口から出てくる。風邪による諸症状――主に発熱で怖いもの知らずになっているのかもしれない。
今のユクシャにはどうでもいい憶測で今朝とは違うな、と考えるだけ。
「連絡したら、帰ってきてしまったでしょう?」
「多分、ね」
「そうして欲しくなかったんです。高が風邪ですから」
言い切った達成感があるのにカナリーはそれが何だ、と露骨に顔を顰める。
言い分の意味は理解出来ても納得は出来ない、といった感じで。
「何それ、分かんない。心配するのが当たり前でしょうに」
「当たり前だろうとそこまでする必要はありませんよ。放っておいても風邪なんて治るんですから。ほら、帰って来てもらうのは悪いでしょ?」
必要やら悪いやらをやけに強調するユクシャは引かない意志をして見上げる。端的に言えば、意地を張っている。
こうなった人間を説得するのは骨が折れるのだ。カナリーも分かってるだけにそっぽを向いて悪態をつく。
「何だか、色々考えて損したし、それに上目遣いって狡い…」
言いたい事は山ほどあるが、悪態ですべてを呑み込んでいるのかもしれない。
分からないのは上目遣いの方。寝台に座っていると自然と上目になってしまうのだが。小首を傾げるユクシャに気が済んだのか、カナリーが向き直る。
「分からないけど分かった事にするわ。だから、帰っては来ないから連絡だけはちょうだい」
不穏当が漂う前置きながら、出されたのは一つの妥協案。
「連絡を受けても、仕事だって放り出したりしない。きちんと終わらせてから帰ってくる。それなら、どうかしら?」
重ねて内容を説明される。
健康体のユクシャであるものの今後に同じような事態がないとは言い切れない。話し合っておくのはいいのかもしれない。
「連絡、必要ですか?」
「ええ、勿論。貴方が望むなら帰って来ないから。――でも、心配くらいはさせて。後で知るとか、もうそんな思いはしたくない」
積極的に肯定は出来ないが、ユクシャの希望も織り込んであるので積極的に否定をする内容ではなかった。
結局、ユクシャは頷いた。何時になく饒舌で真剣なカナリーに気圧された形で。
「はあ…。じゃ、それでお願いします」
「なら、決まり」
一段落つくとカナリーは大きな溜め息を吐き出した。呆れたようなそれは今度もまた、わざとらしい。
「貴方がそんなに頑固だなんて知らなかったわ」
疲れた口調で言われてもユクシャも困る。取り敢えず、笑って反論しておいた。
「そうですか?僕は知ってましたよ。カナリーさんが家族思いの方だって」
言ったら言ったでカナリーからは、またそっぽを向かれたけど。
これにて終わりと思いきや、もう一悶着あったのは夕食の後だった。




