17.入り婿といつもと違う日(昼)
眠ってもいないが、起きてもいない。そんな微睡みの只中にユクシャはいた。
随分と長い間横になっている気がする。気がするが、考え付く端から消えてしまうので瞼を押し上げるには至らない。
ユクシャは捕らえて離さない眠り。だが、実は快適な眠りとは言い難い。寧ろ、不快だ。
ガンガンと痛む頭痛に四肢は強張り、眉間には深い皺がくっきりと刻まれている。身体を蝕む熱に、呼気は熱く、じっとり汗が滲む。おまけに怠い。
それでもとろとろ眠り続けるユクシャの額に冷たい感触。ひやりとした柔らかいものが浮かんだ汗を拭っていく。
「――?」
ユクシャはゆるゆると目を開ける。
揺れて焦点の定まらない視界に移るのは布の天井と此方を覗き込んだ格好の複数の人影。
寝起きだけではない、ぼんやりとする頭では状況の理解が追い付かない。
「どうしたんですか?」
ユクシャの問う声が酷く掠れている。不思議に思って首を傾げようとしたら、眩暈に襲われた。
「…っ」
世界が回っているかのような激しいものでユクシャは声も無く、呻く。
一体、何だとどうしたというのか。
「ああ、気が付いたのね」
「無理に動かない方がいい。喉は渇いてないかい?」
寝台の枕元に腰掛けていたらしい人影――さらに顔が近付いてくれた事でやっと判別出来たロベルトとニフリートはユクシャを寝台から動かないように押し止めて、世話を焼き始めた。
水を飲ませてくれて、汗を拭いてくれたりと甲斐甲斐しい。何もしないまま、最終的にユクシャは濡れた布を額に乗せられてしまった。
「どう?落ち着いた?」
「はい…」
ユクシャは聞かれるままに頭を上下して頷く。眩暈が起きないように、微かだったが。
ほんの気持ちだけ不快さも一緒に拭いさられたようで、落ち着いたといえば落ち着いたのかもしれない。
熱っぽい身体に節々の痛み。心配げな顔のロベルトとニフリート。寝台から一歩離れた場所に控えるマルタとドニーも同じだ。
どう考えても具合が悪くて看病されている図。
今にも眦から零れ落ちそうに涙ぐんでいるニフリートに手を握られながら、ユクシャは眉間の皺を増やす。
今いち定かでない記憶を手繰り寄せようとするのだった――。
前触れないヒュッセライン家の三男夫婦の来訪より五日後――の今朝、ユクシャは起きれなかった。
うっかり寝過ごしたのだと慌てたが、今考えれば、あれは寝坊等ではなかったのだ。
まあ、朝はそこまで考えは至らずに、カナリーが起床前だったのがせめてもの幸いだったと、大慌てで飛び起きて、超特急で朝の身支度を整え――られなかった。
ユクシャはぐるぐると眩暈に見舞われたのだ。
それに、ふわふわとした足元が頼りない、まるで雲の上を歩いているような、そんな感覚まで。
普段と違う身体の調子に嘆息が出た。
ユクシャの体調不良は何も今に始まった事ではない。兄夫婦の来訪翌日には既に自覚していた。
だが、放って置いてもすぐに良くなるだろうと思っていた。高をくくっていたつもりはないが、寝込む程の体調不良は幼少期のみという生来の健康体であった事もあり、過信していたのかもしれない。
なので今朝も無視して動き出した。
家庭菜園でロベルトに寝坊したと素直に謝り――そういう日もある、とロベルトは優しく笑ってくれた――、悪いと思いつつも会話をそこそこに切り上げさせてもらい、次は隣の厩へ。
厩では手早くロイニの世話を終わらせる。時間がなかったからとはいえ、擦り寄ってくるロイニの相手を出来なかったのが、悔やまれる。
蜻蛉返りで屋敷内に戻り、朝食、カナリーの見送りをいつも通りに見えるように心掛けて、こなした。
こなした、が悪化の一時を辿っていた体調不良がここに来て、頂点に達していた。
真っ直ぐ歩けているのか怪しい、ふらふらと揺れる暑い身体を持て余しながら思う。流石に本格的に拙いかもしれない。
漸く自覚したユクシャは授業の時間まで横になる事にした。
何とか若夫婦の共用の寝室の隣にあるユクシャだけの寝室に到着すると、ユクシャは掛け布をひっぺ剥がし、寝台に潜り込んだ。
ほんの少しだけ横になるつもりだったが、あっという間に意識は泥のような眠りに絡め取られてしまった。
初めて使う寝台だから天井が見慣れなかった上に寝心地が普段と違ったのか。なんて、どうでもいい事を一番に考えてしまった。
ようやっと状況の把握に至ったユクシャは取り囲む面々に笑ってみせる。
「大袈裟ですよ。ちょっとばかり寝てただけで」
そう、ユクシャの感覚としてはそれくらいだった。
だが、笑ったといっても血の気の失せた青白い顔色に、口の端を上げただけの弱々しい作り笑い、囁き声よりも尚もか細い声。誰の目から見ても無理をしているのは明らか。
一斉に皆が反論しようとして、早かったのはニフリートであった。
「何が大袈裟なもんですかっ。具合が悪いのは丸分かりですのよ!」
拍子で眦から涙が零れ落ちたが、ニフリートは声を荒らげて、間違い無くユクシャを叱った。
時々お茶目な所がある上品な貴婦人。これがニフリートの印象だっただけにユクシャは意表をつかれて、目をぱちくりと瞬かせた。
「冗談もそのくらいになさって。診察して下さったお医者様にだって、疲労からくる風邪だから安静って言われたでしょう?」
ユクシャの驚きを見て取ったのだろう。ニフリートは咳払いをして、声音を和らげる。
それよりもユクシャはとんと御無沙汰で身に覚えの無い単語の方が気になった。
「風邪?医者って…?」
深く考えずに疑問を口にしていた。
応えは返らず、夫婦同士で、侍女同士でそれぞれ顔を顔を見合わせ、何処か戸惑っているかのようだった。
暫しの沈黙の後、ロベルトが切り出す。
「我が家の掛かり付け医に往診してもらったんだが、覚えてないのかな?――受け答えしていた筈、何だが…」
高熱で朦朧としていたのか、夢現だったのか。何れにしても診察受けた記憶が無い。
たとえ気になったとしても聞くべきではなかったのだ。これでは風邪で意識が朦朧としていたのだと、頭の中で結ぶ付けてしまっただろう。
「…」
肯定も否定も出来ないユクシャは目線をあらぬ方向に泳がせる。そら見ろ、そんな目を向けられるのを恐れて。
呆れた態度も言葉もなく、代わりに――こつんと、固くも優しい温もりを額に感じた。
目を戻せば、身を乗り出していたニフリートと額と額を合わせている。
あっとした次の瞬間には離れたが、ユクシャはニフリートの瞳が笑みの形に細められる様を間近で見る事となる。
「さあ、そろそろ治す事に専念しましょうか」
まるで幼い子供を宥めるような調子なのに不快さはない。ちょっとだけ、本当にちょっとだけだが甘えてみたい、なんて考えがユクシャの中で身を擡げてくるから不思議だ。
同時にヒュッセラインの家とはどこか宥め方にしても違っていて、当たり前なのに寂しさを覚えたのは内緒の話。
「はーい」
ユクシャは顎を小さく上下にして頷き、寝台に深く身体を沈める。
それを見届けたニフリートはさらに笑みを深め、寝台の椅子に腰掛けた。
「何にも心配しなくていいですから。ユクシャさんの傍に居ますからね」
とは、パチンと音をたてて両手を合わせたニフリート。
「うんうん。ずっと付いてて看病するよ」
続いて、ニフリートの言葉に何度も頷いて同意を示すロベルト。
ロンドルフ領主夫婦は二人して、胸を張ってはそう請け負うものだから――否、これは爆弾発言でしかない。
実際、驚きのあまりユクシャは目を剥いて上半身を勢い良く起こした。
「あら、そんな事をしては駄目ですわ」
ニフリートに言われるまでもなく、突発的な動きは激しい眩暈を引き起す。
タイミング良く背中の下に差し出されたクッションのお陰で寝台に倒れ込むのだけは免れた。
「でも、ちょうど良かったのかもしれないわ。はい、これ」
ぐったりとクッションに凭れるユクシャの前に差し出される小さめの水杯。
水杯の中身はこれまた濃い深緑の液体で臭いも独特、見ているだけで口の中に苦い味が広がる。
「お医者様が処方してくれたお薬ですのよ。飲んで早く良くなりましょうね」
こうも鮮やかに話題を変えられては看病云々に話を出来ずにユクシャは渋々薬湯を受け取った。
仕方がない。飲み終わったら、看病に付き添う事はないと伝えよう。
良薬口に苦し、で無理やり飲み下しても口の中に残る薬湯の苦味に疲弊していると寝室の扉が控え目に叩かれた。
「入りなさい」
寝室の主に代わりロベルトが応え、マルタが扉をそっと開ける。
「失礼致します」
やって来たのは家令だった。
何故だろうか、真っ白な髭の顔がこの世の終わりのような悲痛な表情をしている。
「おお、ユクシャ様。お目覚めになられましたか!」
身を起こしたユクシャを見て、良かった良かった、と繰り返す家令は今にも懐からハンカチを取り出して目元を拭いそう程安堵している。
一頻り感涙した後、家令は切り出した。
「申し訳ございません。ユクシャ様の体調の変化に直ぐに気付く事が出来ず、況してや倒れられて初めて気付くなんて、何たる不覚。有り得ない失態でございます」
気付かれまいと気を配っていたユクシャとしてはバレなくても一向に構わない。寧ろ、誰にも知られたくなかったくらいなのだが。
「あの、気にしないで下さい」
「そんな訳には参りません」
間髪を入れず返ってきたのは予測していたのと寸分たがわぬ家令の返事。
使用人失格そんな調子である。そういえば、もうほっとした安堵を滲ませる表情のロベルトとニフリートと違い、侍女の表情はまだ固く強張ったままだ。
どうしたものか、ユクシャは思考力の鈍い頭で考える。
「…じゃあ、どちらも悪かったという事で」
体調不良を黙っていたユクシャも悪かった。だから、どちらが悪い悪くないとかではなく、双方悪かった。喧嘩両成敗とは違うが、まあ、似たものとして捉えてもらいたい。
「それでこの話は終わりにしましょう、ね…?」
言い切るはずだった語尾が疑問符になってしまった。
ユクシャ以外の人間がぽかんと口を開けているのに気付いたから。
半端で考えを放棄したとはいえど一応、筋は通っているはず、なのだが。
「確かにそれは、いいね。そうしてしまおう。く、あははは」
ユクシャの不安を払拭するようにロベルトは大口を開けて笑い出した。ニフリートも口元に手を当てている。笑みを隠しているように見えなくもない。
肝心の家令はどうか――。
ほっとするのはまだ早くユクシャは目だけを動かして様子を窺う。
家令は目を瞬かせていた。言葉を噛み砕いて理解するのに時間を掛けた後で。
「畏まりました。そのように致します。老身の話にお付き合いさせてしまい、申し訳ありません」
手本にしたいくらいの綺麗な角度で一礼して、ほっほっほっと福を招きそうに笑ってくれた。
深い皺を幾つも刻んだ目元を和ませた穏やかな表情は家令のいつものものと同じに見える。侍女ももう強張った顔はしていない。
どうやら、この件はユクシャの言った通りにしておいてくれるらしい。
終わったと思った途端、ユクシャは耐え難い眠気に襲われた。
薬湯が効いてきたのか、ほっとしたからなのか。何れにしても、クッションに身を預けているとはいえ、身体を起こした状態で眠ってしまいそうなほど瞼が重い。
家令がまだ何かを喋っているようだが、自分に対してでない事を良い事にユクシャはぼんやりとしたまま欠伸を噛み殺す。
「旦那様、実はお嬢様への連絡を失念しておりました。今からでもよろしいでしょうか?」
耳から耳を抜けていく筈だったそれは冷水を浴びたかの如く意識が一気に覚醒させた。
この事を連絡する、とそう言ったのか。
理解するが早いかユクシャは叫び声に近い大声を上げていた。
「駄目ですっ!!」
誰も彼もがユクシャに注目し、ぎょっとした目をしていたが、構ってなんていられない。
ユクシャは今度ははっきりとした口調でさらに言い募る。
「お願いします。連絡なんてしないで下さい!」
今にも起きてしまいそうなユクシャを宥めるようにニフリートは布の上から彼の額に手を置いた。
「まずはユクシャさん。とりあえず落ち着いて」
さらに伸びてきたロベルトの手にも手を軽く握られる。
二人して覗き込むように顔が近くなり、問い掛けが降ってくる。
「でも、教えて。どうして、カナリーに伝えてはいけないのかしら?」
今の体温よりひんやりとした他人の手の感触がユクシャにほんの少し冷静さを取り戻させた。
折角、戻った和やかな雰囲気が台無しになっている。
主張を曲げる気はないが、ロベルトにもニフリートにも、二人の背中越しに見える家令と侍女にもこんな困惑の表情をさせたくはない。
「…だって」
悪いと思う分だけ声が小さくなるユクシャはもごもごと口の中でまた、だってを繰り返す。
だって――連絡を受けたカナリーは帰ってきてしまう。
放り出すような事はしないだろうが、前と同じできっと仕事の途中で一段落つけて帰ってくるだろう。五日前の兄夫婦来訪の際もそうであった。
仕事を止めた付けなのだろう、以来、目に見えてカナリーの帰りが遅くなった。
カナリーは言葉にも態度にも出さなかったが、大変だったと容易に想像がつく。
昨日やっとその付けから解放されたらしいカナリーにまたそんな迷惑は掛けたくない。
熱があって思うように身体が動かなくとも、高が風邪なのだ。連絡なんてしないで欲しい。寧ろ、必要なんてない。
普段なら順序を立てて説明出来るのに、悔しくも今のユクシャでは上手く説明をいう事が出来ない。
歯痒さから掛布を掴む手に力が入る。
「どうしても駄目なんです。カナリーさんに連絡は駄目です」
どうしたものか、と重い空気が沈黙とともに流れる。
「…分かった」
先に折れたのはロベルト達の方だった。病人に無理をさせる訳にはいかないと考えたのかもしれない。
「では、カナリーに連絡はしないでおこう」
良くない。非常に良くない。心の声が透けたロベルトの決定だった。
それでもお願いの確約が約束され、ユクシャは嬉しかった。
「ありがとうございます」
ユクシャがにっこりと笑った直後、同じように家令も笑って退室を申し出た。
「私めはこれで失礼致します」
仕事が立て込んいるのではなく、ユクシャの体調を気遣った上で事だった。
「ユクシャ様。しっかりと養生なさってください。一日も早い回復をお祈りしております」
深々と胸に手を当てたお辞儀をして家令は寝室を出て行った。
その際、開いた扉の向こうの夫婦の共用の寝室に主だった使用人達が集まっているのが見えた。
何故だろうか。気にはなってもユクシャ以外は扉には背を向けていたので気付いてもいなかったようだ。
小さく首を傾げるユクシャをニフリートが横になるように促す。
「そろそろ休みましょう。さっきから眠そうだったもの」
眠気を堪えていたのはばっちりバレていたらしい。
ユクシャは苦笑しつつも眩暈を起こさないように素直にゆっくりと寝台に横になった。
未だ身を起こしているより寝台を身体が楽だった。
「安心してお休み」
「ええ、何にも心配はいらないわよ。ああ、そうだわ。子守歌を歌ったあげましょう」
ニフリートが付け加えた冗談には乗っからずに丁重に断っておこう。
「あ、大丈夫です。寝れますので」
冗談だろうが、このまま眠らなければ、本気で子守歌が始まると思われる。
ユクシャは大人しく目を閉じた。
「お休みなさい」
ニフリートの優しい声が聞こえ、額に濡らした布が乗せ直られたのが分かった。
振りの筈だったのにあっという間に吹き飛んでいた眠気にユクシャは絡め取られてしまった。
そういえば、先程言っていた看病の話は本当だろうか。
聞きたくとも眠りに負けたユクシャは聞けるはずもなかった。
午前中、だけでなく午後になってもユクシャは浅い眠りと短い覚醒を交互に繰り返した。
眠りの合間、寝ぼけ眼で薬湯をちびちびと舐めるように飲んだり、ミルク粥を食べたり、後は果物を剥いてもらったりもした。
ユクシャを甘やかすだけ甘やかしたニフリートで、やはり看病する宣言は嘘ではなかった事を身を持って証明されてしまった。
「大人しく寝てますので独りでも平気です」
ずっと付き添ってもらうのは悪いからとやんわりと何時か断ってみるものの、聞き入れられる事は無く。
瞼を上げる度に二人の姿――時折席をはずしているのかロベルトかニフリートのどちらかだったりもしたが――が寝台の傍らにはあった。
書籍や書類に目を通しながらも、刺繍をしながらもユクシャの様子に気を配ってくれていた。
看病を断り切れなかったのはそこだろう。あれやこれや世話を焼かれたのはこそばゆくも病で弱った心には染み入った。
そうこうした内、たっぷり眠って微睡むが消え去った午後のお茶の時間になってしまった。
「暇しているなら本を読んであげよう」
「あら、それよりも歌がいいと思うわ」
手持ち無沙汰だったユクシャは子守歌だけならず朗読までもを結局披露されてしまった。
それはそれは見事なものだったとだけ追記しておく。特に子守歌は女中頭を呼び出して二重奏であった。




