第3話 少々、多すぎませんか
翌朝、父は朝食の途中で呼び出された。
家令が差し出した書状を読み、パンを皿へ戻す。
「すまない。先に出る」
「王宮へ?」
母が尋ねた。
「ああ。昼までには戻りたいが、分からない」
父はリディアへ目を向けた。
「お前は、予定どおりでいい」
「はい」
今日の予定は、散歩と仮縫いだった。
王宮では人が次々に調べられているが、こちらでは袖の長さを決める。
同じ王都の中でも、随分とすることが違った。
父が出ていくと、母は蜂蜜の壺を近くへ寄せた。
「冷めないうちに召し上がれ」
リディアはパンを取った。
ひと口食べてから、やはり気になって尋ねた。
「昨日のお話は、増えたのでしょうか」
「昨日のお話?」
「殿下のおそばで、隣国からお金をいただいている方です」
母の手が止まった。
「……そのようね」
増えたらしい。
リディアは、蜂蜜のついたパンを見つめた。
昨日、数え始めなくてよかった。
◇◇◇
父が戻ったのは、午後の仮縫いが終わる頃だった。
居間へ入ってきた父は、長椅子の上に広げられた布を見て、足を止めた。
「まだ途中だったか」
「終わりました。袖を少し短くしていただきます」
「そうか」
父は、何かを確かめるように頷いた。
王宮の話を聞く前に袖の報告をすることになるとは、リディアも思わなかった。
仕立屋が帰った後、父は卓へ書類を置いた。
今回は、紐が二本掛かっていた。
「また見つかったのですか」
「殿下の書記官だ。国外へ送られた書簡の控えが出た」
「昨日の子爵と、同じ隣国へ?」
「ああ。ただし、別の経路だ。これで三つ目になる」
リディアは黙った。
母も黙った。
家令だけが、茶を置く場所を探していた。
書類が卓の中央を占めている。
父は束を少し横へ寄せた。
「この者が送っていたのは、外交交渉の草案だ。まだ相手国に示していない条件まで含まれていた」
「その書記官も、私について証言を?」
「していない。今回の捜索で、別のものが見つかった」
リディアは頷いた。
自分の事件を調べていたら、自分の知らない事件が出てきたのだ。
「では、瓶のことと関係があるかは、まだ分からないのですね」
「ああ。隣国と不正なやり取りをしていた者を、すべて今回の事件の犯人にするわけにはいかない」
父は一枚の紙を抜いた。
「ただ、関係者の交友や金の流れを調べるうちに、別の不正が見つかっている。殿下の周辺は、広く点検することになった」
紙には名前と役職が並んでいた。
リディアが顔を知っている者もいる。
王太子の側近。侍従。書記官。
王宮へ出入りしていた商人の名もあった。
名前の横には、小さな文字で「聴取中」「記録照合中」と記されている。
「この方々が、皆?」
「疑いが確かめられた者と、確認のために話を聞いている者が混ざっている。そこは読み違えないでほしい」
「はい」
リディアは、もう一度上から読んだ。
それでも、多かった。
「お父様」
「何だ」
「少々、多すぎませんか」
「私もそう思う」
父の返事には、ため息が混じっていた。
「皆様、お互いのことはご存じだったのでしょうか」
「今のところ、全員が一緒に動いていた形跡はない。むしろ妙なことも分かっている」
「妙なこと?」
「例の子爵は、商館を経由して金を受け取っていた侍従の動きを、同じ隣国の使節館へ報告していた」
リディアは顔を上げた。
「同じ国の方について、ですか」
「ああ。どうやら窓口が別だったらしい」
誰かが怪しいことをしているのに気づいた。
けれど、仕えている殿下ではなく、その怪しい人物と同じ国の別の相手へ知らせていた。
王太子のそばには、そういう人が二人も三人もいたらしい。
リディアは、夜会の広間を思い出した。
エドワードが横を見ると、子爵が頷いた。
それを見て、エドワードは再び自分を責めた。
あの頷きは、誰のためだったのだろう。
◇◇◇
翌日、司法官が公爵邸を訪れた。
父と家令が同席し、母もリディアの隣へ座った。
尋ねられたのは、王宮の私室についてだった。
最後に使った日。
連れていた侍女。
化粧台に収めていたもの。
「手袋と、髪飾りです。予備の手巾もありました」
「薬品を持ち込まれたことは?」
「ございません」
司法官は頷いた。
記録係の筆が止まるのを待ってから、次の書類を開く。
「本日は、調査の進展についてもお伝えします」
リディアは膝の上で指をそろえた。
「瓶の発見を報告した侍従が、貴女の私室へ瓶を持ち込んだと供述しました」
指先に、少し力が入った。
知らない瓶だった。
自分のものではない。
そう言ったことが、ようやく誰かの記録と一致した。
「……置いたと、認めたのですか」
「はい。ただし、供述だけで判断するわけではありません。私室の鍵を持ち出した記録と、商人から瓶を購入した記録が見つかっています。現在、日時を照合しています」
「なぜ置いたのでしょう」
「子爵から指示を受けたと述べています。子爵にも確認中です」
リディアは父を見た。
父は口を結んでいた。
今は司法官の説明を遮らないようにしているのだと分かった。
「セシル様が倒れたことも、その方々が?」
「そこは、まだ確認できていません」
司法官は答えた。
「瓶を持ち込んだ行為と、ベルネット嬢が有害な薬物を摂取した経緯は、分けて調べています。瓶が置かれていたからといって、それが実際に使われた品だとは限りません」
リディアは、ゆっくり息を吐いた。
あの夜は、瓶が出てきた途端に、すべてが決まった。
今は、瓶がどこから来たかを調べても、すべては決まらない。
随分と時間が掛かる。
けれど、今度はその遅さがありがたかった。
「正式な判断までは、もう少しお待ちいただくことになります」
「はい」
「覚えておられることが増えましたら、お知らせください。無理に思い出そうとなさる必要はありません」
リディアは頷いた。
思い出さなければ無実になれない、と言われなかったことにも、少し安心した。
◇◇◇
司法官が帰った後、父はそのまま書斎へ向かった。
家令も一緒だった。
リディアは居間に残り、マリナが淹れた茶を飲んだ。
今日は、小さな洋梨のタルトだった。
薄く切った梨が、重なるように並んでいる。
見慣れた菓子だった。
「トーマスは、まだ戻らないの?」
リディアが尋ねると、マリナの手が止まった。
「……本日は、まだ」
「領地へ向かったのよね」
長年リディアに仕えている従者だった。
王宮との往復や、外出の準備をよく任されていた。
今回も、王宮で使っていたリディアの私物を公爵邸へ引き揚げるため、領地側の倉庫や馬車の手配について確認するよう家令から命じられ、数日前に領地の屋敷へ向かったと聞いている。
「その予定でございました」
予定。
少し気になる言い方だった。
リディアがもう一度尋ねようとしたとき、扉が開いた。
父と母が入ってきた。
その後ろに、家令が立っている。
父はリディアの向かいへ座った。
「トーマスについて、話がある」
リディアはカップを置いた。
マリナが音を立てずに盆を持ち上げる。
「領地の屋敷には、着いていない」
「途中で、何かあったのですか」
「馬車を降りて、別の道へ向かったことが分かった」
リディアは父を見た。
「……なぜ」
「それも含めて、調べている」
父は家令から書類を受け取った。
「王宮の侍従へ金を渡していた仲介人が保管していた受領書に、当家の従者と思われる人物の署名があった。筆跡を照合したところ、トーマスのものと一致した」
「同じ名前の方ではなく?」
自分でも、弱い問いだと思った。
それでも尋ねずにはいられなかった。
「名前だけで判断したわけではない。筆跡も一致している。それに、屋敷に残された私物から、同じ仲介人とのやり取りも見つかった」
父は一度、言葉を切った。
「お前の王宮での予定や、当家へ届いた書状の内容が、外へ渡されていた」
リディアは手を膝へ戻した。
トーマスは、予定をよく知っていた。
馬車を用意する時刻も、戻る時刻も。
どの日に講義が長引くかも知っていた。
知っていて当然だと思っていた。
父は、さらに一枚の書類を取り出した。
「それから、採用記録も調べ直した」
リディアは顔を上げた。
「トーマスが当家へ入ったのは、お前と殿下との婚約が正式に決まって、一月ほど後だ」
リディアは何も言わなかった。
三歳の頃。
自分にはほとんど記憶のない時期だった。
父が続けた。
「当時提出された紹介状にも不自然な点が見つかった。紹介元とされていた商会には、トーマスを雇っていた記録がない」
「では……最初から?」
「それは、まだ断定できない」
父の返事は慎重だった。
「いつから、何を目的としていたのか。今回の事件にどこまで関わったのか。それぞれ確認する必要がある」
「今回の瓶も、トーマスが?」
「それも、まだ分からない」
父の声は明確だった。
「仲介人が同じでも、何を頼まれ、何をしたかは、それぞれ確認しなければならない。ただ、当家の情報を渡していたことについては、裏づけが出ている」
母がリディアの隣へ座った。
「今、全部を受け止めなくてもいいのよ」
リディアは頷こうとした。
うまくできなかった。
◇◇◇
トーマスは、物静かな人だった。
必要なことだけを話し、廊下で待つときは、いつも少し離れて立っていた。
リディアが幼い頃、庭の石段で転んだことがある。
手のひらに擦り傷ができて、泣いた。
トーマスは慌てずに水を持ってきて、傷についた土を落としてくれた。
痛いから嫌だと言うと、痛いままにしておくほうが後で困ります、と言った。
その言い方が、子供扱いしていないようで好きだった。
初めて王宮の大きな行事に出た日は、緊張して昼食が食べられなかった。
帰りの馬車に、小さな包みが置いてあった。
厨房で焼いた、冷めても食べられる菓子だった。
洋梨のタルトも、よく運んでくれた。
講義が遅くなった日は、食事の前に食べても叱られない大きさのものを。
リディアは卓の皿を見た。
今日のタルトには、まだ手をつけていない。
「全部、仕事だったのでしょうか」
父はすぐには答えなかった。
母の手が、そっとリディアの手に触れた。
「何が?」
「私に親切にしてくださったことです」
言葉にすると、ひどく幼い問いに聞こえた。
国の情報が盗まれたかもしれない。
自分の婚約を壊す事件にも、関わっているかもしれない。
それなのに気になるのは、小さな菓子だった。
「仕事ではあっただろう」
父は静かに言った。
「お前に仕えるのが、あの者の務めだった」
「はい」
「だが、それだけで、したことの一つ一つが嘘だったと私には言えない」
リディアは顔を上げた。
「親切だったから、情報を渡したことが許されるわけではない。情報を渡していたから、助けられた記憶まで消えるわけでもない」
父は、少し困ったように眉を寄せた。
「今、どちらか一つに決めなくていい」
リディアは俯いた。
泣くほどではない気がした。
泣いてもよい気もした。
どちらなのか、よく分からなかった。
「……私の胃薬も、よく受け取ってきてくれました」
王太子妃教育の予定が詰まると、食事の前に胃が痛むことがあった。
薬師へ頼んだ薬を、トーマスが届けてくれた。
苦いとこぼすと、湯を多めに用意した。
それも、頼まれた仕事だった。
けれど、湯の温度まで、いつも気をつけてくれていた。
「今、胃は痛むか」
父が尋ねた。
リディアは少し考えた。
「……痛くありません」
「そうか」
婚約を破棄されてから、まだ一度も薬を飲んでいなかった。
そんなことまで、今になって気づいた。
◇◇◇
夕方、父は再び王宮へ出かけた。
公爵家の情報が流れていたことについて、正式に届け出なければならないという。
出かける前に、父はリディアへ言った。
「お前が気づかなかったことを、責める必要はない」
「ですが、長くそばにいたのに」
「長くいたから、信じたのだろう。それは、お前だけではない」
父も、トーマスを信じていた。
母も、家令も。
そのことを忘れて、自分だけが愚かだったように考えていた。
「身元を確かめ、仕事を任せたのは我が家だ。見直すべきことはこちらで見直す。お前に、毎日従者を疑わせるために雇ったのではない」
リディアは小さく頷いた。
「はい」
父が出ていくと、廊下にはいつもと違う従者が立った。
若い男だった。
リディアと目が合うと、緊張した様子で頭を下げる。
「何かございましたら、お申しつけください」
「ありがとう」
それだけで、彼は少し安心した顔になった。
リディアも、少しだけ安心した。
この人のことまで、今から疑わなくてよいのだと思った。
◇◇◇
夜、マリナが明日の予定を確かめに来た。
「午前中は、庭へお出になりますか」
リディアは窓へ目を向けた。
外はもう暗く、庭の道は見えない。
その石段で転んだことは、覚えている。
手当てしてくれた人も、覚えている。
覚えていることを、今夜のうちに別の名前へ変える必要はない。
「ええ。温室へ行きたいわ」
「かしこまりました」
「それから、旅行記の続きも」
昨日読んだところでは、著者がまた道に迷っていた。
宿主に近道を教えてもらったのに、景色のよい道を選んでしまったらしい。
王宮の報告書と違って、先を読むのが怖くない本だった。
マリナが部屋を出ようとしたとき、扉が叩かれた。
家令だった。
「お嬢様。閣下より、お伝えするようにと」
リディアは背筋を伸ばした。
「トーマスが、王都の西にある宿で確保されたそうです」
見つかった。
その言葉に、まず安心してしまった。
無事だったのだと思った直後、見つからなければ困る人になったのだと思い出した。
「……怪我は?」
「抵抗はなく、怪我もないとのことです」
「そう」
リディアは膝の上で手を重ねた。
家令はまだ、扉のそばに立っている。
「ほかにも、何か?」
「お嬢様宛ての手紙を所持していたそうです。内容を確認した後、閣下へ渡される予定でございます」
リディアは顔を上げた。
いなくなった人から、手紙が届く。
逃げるつもりだったのに、書いていたらしい。
何を書いたのだろう。
謝罪か、言い訳か。
それとも、最後まで必要なことだけを記した、短い報告なのか。
「分かりました」
家令が下がり、扉が閉じた。
リディアは机の上を見た。
報告書は重ねてある。
旅行記も置いてある。
明日の予定表には、まだ二つしか書かれていない。
リディアは、その隣を少しだけ空けておいた。




