第4話 元には、戻しません
トーマスの手紙が届いたのは、翌日の昼前だった。
リディアは温室から戻ったところで、帽子をマリナへ預けていた。
居間には父がいた。
卓の上に、封筒が一通置かれている。
宛名は、見慣れた字だった。
馬車で訪ねる屋敷の住所や、荷物の送り先を記していた字。
自分の名前も、何度も書いていたのだろう。
けれど、手紙を受け取るのは初めてだった。
「調査官が確認したものだ」
父が言った。
「読むかどうかは、お前が決めていい」
リディアは椅子へ座った。
「ここに、いていただけますか」
「ああ」
父が向かいに座る。
リディアは、すでに開かれている封筒から便箋を取り出した。
二枚だった。
◇◇◇
最初には、謝罪が書かれていた。
その後に続いていたのは、リディアの知らなかった十数年間だった。
トーマスが公爵家へ来たのは、偶然ではなかった。
リディアとエドワードとの婚約が正式に決まった後、隣国から送り込まれた。
当時提出された紹介状も、経歴も、本物ではなかった。
命じられていたのは、公爵家と王家の動きを報告すること。
リディアがどのような教育を受けているか。
王宮へいつ出入りするか。
誰と会うか。
公爵家と王家が、どの程度親密なのか。
最初の頃は、それだけだったという。
年月が経つにつれ、求められる情報は増えた。
父が王都を離れる日。
公爵家へ届く書簡。
王宮でのリディアの予定。
王太子の行事。
そして数年前から、命令の内容が変わった。
王太子とリディアとの婚約を解消させるために、利用できる情報を集めるよう求められた。
理由も記されていた。
隣国は、自国の王女をエドワードへ嫁がせることを望んでいた。
リディアは、その一文を二度読んだ。
知らないところで、自分の婚約には別の候補が用意されていたらしい。
本人だけが知らなかった。
随分と大がかりな縁談だった。
便箋を持つ指に、少し力が入った。
トーマスは、毒を使う計画そのものについては知らなかったと書いていた。
リディアの王宮の私室が使われない日を尋ねられた。
誰が鍵を管理しているかも尋ねられた。
婚約を破棄させるためだとは分かっていた。
それでも、誰かを毒で傷つけ、リディアをその犯人に仕立てるとは知らなかったという。
その後に、一行あった。
『お嬢様のお命を害するつもりは、一度もございませんでした。』
リディアはそこで手を止めた。
害するつもりはなかった。
けれど、婚約を壊すつもりはあった。
知らなかったことはある。
知っていたこともある。
その境目だけが、都合よく消えるわけではなかった。
二枚目には、夜会の後のことが書かれていた。
リディアが毒殺未遂の犯人として責められたことを知り、仲介人へ問いただした。
そこで初めて、毒の瓶を置き、偽の証言を揃えた計画を知ったという。
自分が提供した情報が、そのために使われていたことも。
逃げた理由については、簡潔だった。
怖くなった。
それだけだった。
最後には、長年リディアに仕えてきた日々について書かれていた。
任務として公爵家へ入ったことは事実。
情報を渡していたことも事実。
しかし、リディアの世話をした時間まで命令されたものではなかった、と。
菓子を用意したこと。
怪我を手当てしたこと。
体調を心配したこと。
そのすべてまで偽りだったとは言いたくない。
そう書かれていた。
リディアは便箋を卓へ置いた。
父は何も尋ねなかった。
しばらくして、リディアが口を開いた。
「私の婚約を壊すつもりは、あったのですね」
「ああ」
「私を殺すつもりは、なかった」
「本人はそう述べている」
リディアは便箋の折り目を見た。
いつもきちんと畳む人だった。
手巾も、外套も、馬車へ載せる膝掛けも。
この手紙も、端がそろっている。
「それは、随分と細かく分けるのですね」
父は少しだけ眉を上げた。
リディア自身も、何がおかしかったのか分からないまま、小さく息を吐いた。
怒っているのだと思う。
悲しいのかもしれない。
けれど、十数年分を一度にどちらかへ分けるのは難しかった。
「返事は、必要ですか」
「必要ない」
「……今は、書けません」
「それでいい」
リディアは便箋を封筒へ戻した。
親切だったことを、全部嘘だったとは思えない。
それでも、もう自分の予定表を渡すことはできない。
その二つは、同時にあってもよいのだろう。
「しばらく、お父様が持っていてください」
「ああ」
父が手紙を受け取った。
卓の上が、少し広くなった。
◇◇◇
それから数日、屋敷には司法官や使者が訪れた。
王宮で使っていた私室のこと。
予定が取りやめになった日のこと。
誰に何を伝えたかということ。
リディアは、覚えていることを答えた。
覚えていないことは、そう答えた。
以前なら、何かを思い出さなければならないと思ったかもしれない。
けれど司法官は、同じ質問への答えが記録と一致すると、その箇所へ小さな印をつけた。
リディアが言葉を足さなくても、調査は進んでいた。
瓶を置いた侍従の供述は、鍵の持ち出し記録と一致した。
瓶を買った商人も見つかった。
リディアがセシルを嫌っていたと証言した子爵は、仲介役からそう証言するよう指示されていたことを認めた。
王宮の厨房と給仕の記録からも、リディアが薬物を扱った形跡は出なかった。
やがて、別の侍従がセシルの飲み物へ薬物を加えたことを認めた。
給仕を交代した記録と、薬品の購入先で見つかった帳面が、その供述を裏づけた。
セシルは回復に向かっていると聞いた。
リディアは、その知らせにほっとした。
自分の無実を確かめるために、誰かが苦しんだままでいてほしいわけではなかった。
さらに調査は、毒殺未遂だけでは終わらなかった。
隣国から王太子の周囲へ流れていた金。
使節館を経由した書簡。
商館を通した送金。
そして、公爵家から流れていた情報。
別々に見えていたものが、一つずつつながった。
目的は、リディアを王太子の婚約者から外すこと。
その後、隣国の王女との婚姻交渉を進めること。
王太子の周囲へ何年もかけて人を置いたのも、そのためだった。
その事実が判明すると、隣国王女との婚姻に関する話はすべて停止された。
父の話では、王宮ではそれどころではないらしい。
リディアも、そうだろうと思った。
婚約者を一人追い出すために、王太子の周りへあれだけ人を送り込まれていたのである。
結婚相手を考える前に、まず廊下に立っている人が誰なのか確かめたほうがよさそうだった。
◇◇◇
正式な書状が届いた日の午後、父はリディアと母を居間へ呼んだ。
卓には、王家の紋章が押された封書があった。
今回は、書類の束ではなかった。
「お前の関与はないと、正式に認められた」
父が言った。
リディアは、その言葉を聞いた。
一度聞いてから、もう一度、頭の中で聞き直した。
「……終わったのですか」
「お前に掛けられた疑いについては、終わった」
父は書状を開いた。
「外国への情報流出や、指示を出した者の調査は続いている。すべてが片づいたわけではないが、お前を疑う根拠はないと確認された」
母が、リディアの手に触れた。
「よかったわね」
「はい」
それだけ答えると、喉の奥が詰まった。
嬉しいのだと思う。
けれど、すぐに笑えるほど軽くはならなかった。
あの夜に聞いてもらえなかったことが、今になって聞いてもらえた。
その間にあった日々は、なくならない。
父は急かさず、書状を卓へ置いた。
「訂正は、公にも出される」
リディアは顔を上げた。
「夜会にいらした方々にも?」
「ああ。出席者には書面を送り、王宮の告示にも記す。お前を責めた言葉だけが残るようにはしない」
リディアは、ようやく大きく息を吐いた。
自分だけが知っている無実ではなかった。
自分を見ていた人たちにも、伝わる。
「ありがとうございます」
「礼を言うことではない」
父はそう答えた。
母が手を握る。
リディアは、今度は握り返すことができた。
◇◇◇
その日の茶には、洋梨のタルトが出た。
この数日、厨房は別の菓子を用意していた。
誰かが気を遣ってくれたのだろう。
今日はリディアから頼んだ。
薄く切られた梨が、きれいに並んでいる。
フォークを入れると、底の生地が小さく割れた。
以前から好きな菓子だった。
トーマスが運んできたこともある。
だからといって、食べてはいけなくなるわけではない。
ひと口食べる。
いつもの味だった。
「おいしいですか」
マリナが尋ねた。
「ええ」
リディアは頷いた。
「料理長に、ありがとうと伝えて」
「かしこまりました」
誰が作ってくれていたのかを、今まであまり考えていなかった。
運ぶ人だけを覚えていた。
厨房には、以前と同じように働いている人がいる。
明日も食事を作ってくれる人がいる。
リディアは、もうひと口食べた。
◇◇◇
王宮では、そう簡単に元どおりにはならなかった。
父によると、王太子の周囲にいた者の多くが、職務を外されたという。
犯罪への関与が確認された者だけではない。
機密の取り扱いを見直すため、一時的に配置を変えられた者もいる。
新しく来た侍従が、書類を運ぶ。
新しく来た書記官が、予定を確かめる。
面会者の記録は、国王の任命した監察官が確認する。
以前は大勢いた側近も、随分と顔ぶれが変わったらしい。
「殿下は、お困りでしょうね」
リディアが言うと、父は少し黙った。
「困っているだろう」
「お仕事は、間に合うのでしょうか」
「間に合わせるために、人を入れている」
リディアは頷いた。
それでも、つい考えた。
エドワードは、予定が変わると不機嫌になることがあった。
どの書類を先に読むべきか分からないと、側近を呼んだ。
自分も、何度か整理を手伝った。
誰が今、それをしているのだろう。
考えてから、リディアはカップを持ち上げた。
王宮には、そのための人がいる。
自分が確認しなくてもよいのだ。
茶は、まだ温かかった。
◇◇◇
名誉回復の書状とは別に、王家から手紙が届いた。
謝罪と、今後について話し合いたいという申し入れだった。
父は返答を書く前に、リディアを呼んだ。
「王家は、お前と殿下との婚約を、改めて結び直したい意向らしい」
リディアは父を見た。
「一度、破棄されたものをですか」
「ああ」
リディアは、少し考えた。
夜会では、破棄すると言われた。
翌日から、王太子妃教育の予定はなくなった。
王宮へ行く馬車も用意されなくなった。
指輪も返した。
それでも、もう一度結び直せるらしい。
「私の疑いが晴れたから、ですか」
「それもある。公爵家との関係をこれ以上損ないたくないという事情もあるだろう」
父の言葉は、率直だった。
「殿下本人からも、謝罪のための面会を願い出ている」
リディアは窓を見た。
庭の道に、日の光が落ちている。
今日の午後は、旅行記の続きを読む予定だった。
誰かに尋ねられるためではない。
次の講義に備えるためでもない。
読みたかったから、読む。
「お父様」
「何だ」
「私が戻らなければ、お困りになる方はいらっしゃいますか」
父はすぐには答えなかった。
「いるだろう」
「そうですか」
「だが、そのためにお前が戻らなければならないとは、思っていない」
リディアは父へ目を戻した。
「私が断っても?」
「ああ」
父は書類を伏せた。
「当家に関わることは、私も考える。お前がすべて引き受ける必要はない」
リディアは頷いた。
困る人がいる。
それでも、自分が引き受けなくてよいことがある。
まだ少し、慣れない話だった。
「婚約は、結び直しません」
声は、思ったよりも静かに出た。
父は黙って聞いていた。
「疑いが晴れたことは、嬉しいです。ですが、殿下の婚約者に戻りたいとは思いません」
「分かった」
「謝罪は……今すぐには、伺えません」
「それも伝える」
リディアは、少し迷ってから尋ねた。
「理由を、もっと申し上げたほうがよいでしょうか」
「言いたいことがあるなら聞く」
父は答えた。
「断るために、お前がもう一度つらい話を並べる必要はない」
リディアは、膝の上の手をほどいた。
「では、今は、これだけで」
「ああ」
父は新しい紙を一枚出した。
リディアの返事は、短かった。
王家へ送る手紙は、きっと長くなるのだろう。
その部分は、父に任せることにした。
◇◇◇
翌朝、薬師が屋敷へ来た。
胃薬を続ける必要があるか、相談するためだった。
このところ痛みがないこと。
食事が取れていること。
夜も眠れていること。
順に話すと、薬師は頷いた。
「今のご様子なら、毎日お飲みになる必要はないでしょう。再び症状が出ましたら、ご連絡ください」
「分かりました」
定期的に届けてもらっていた薬も、いったん止めることになった。
薬師が帰った後、マリナが引き出しを整理した。
小さな瓶が、一本残った。
「こちらは、どういたしましょう」
「念のため、置いておいて」
「かしこまりました」
捨てなくてもよい。
飲まなくて済むなら、それでよい。
引き出しが閉まる音を聞いて、リディアは明日の予定表を開いた。
午前も、午後も空いていた。
「明日は、図書室へ行くわ」
マリナが頷く。
「午後は?」
「まだ決めていないの」
言ってから、リディアは少し笑った。
決めていないままでも、困らなかった。
◇◇◇
数日後、庭の東屋で茶を飲んでいると、正門のほうから馬車の音がした。
王家の紋章が見えた。
また使者が来たらしい。
リディアは、持ち上げかけたフォークを止めた。
皿には、焼きたてのパイが載っている。
今日は、果実を煮たものが中に入っていた。
料理長が初めて試した配合だという。
「お嬢様」
家令が庭まで来た。
「王宮より使者がお見えです。閣下がお迎えになっております」
「私も、参りますか」
「本日は、閣下とのお話だそうです」
「分かりました」
家令は一礼して戻っていった。
リディアは椅子へ座り直した。
王宮では、まだ人事の見直しが続いている。
隣国との外交問題も、事件の裁きも、これからだった。
王女との婚姻話は消えた。
自分とエドワードとの婚約も、もう戻らない。
どれも軽い話ではない。
けれど、今日この東屋で、自分が待機していなければ進まない話ではなかった。
リディアはパイへフォークを入れた。
生地が軽く割れ、甘い香りが上がる。
ひと口食べると、まだ温かかった。
「おいしいわ」
マリナが微笑んだ。
「料理長へお伝えいたします」
「ええ。次も、これをお願いしたい」
次のお茶の菓子を、自分で選ぶ。
そんな小さな予定が、これからも続く。
屋敷の中では、父が使者と話しているのだろう。
リディアは、冷めないうちにもうひと口食べた。




