第2話 予定は減ったはずですが
公爵邸の玄関には、父が立っていた。
夜会用の上着は脱いでいたが、襟元はまだ整っている。背後には家令と侍女長が控え、玄関の奥では母がこちらを見ていた。
リディアが馬車から降りると、父は一歩近づいた。
顔を見て、それから左手を見る。
「怪我はないか」
「ございません。ただいま戻りました、お父様」
「ああ。……よく帰った」
その声を聞いて、リディアは少しだけ息を吐いた。
帰ってくるまで、自分が家でも説明を求められることに身構えていたと気づいた。
母が肩へショールを掛けてくれた。
「まず座りましょう。話は、それから」
通されたのは家族用の小さな居間だった。
暖炉には火が入り、卓には温かな茶と軽食が用意されている。薄いパン、スープ、それから苺の載った焼き菓子。
リディアは、菓子を見た。
「料理長が、あなたの分を取っておいたの」
母が言った。
「今夜は王宮で召し上がるでしょうと申し上げたのだけれど」
「……いただけませんでした」
「それなら、ちょうどよかったわ」
母は皿を近くへ寄せた。
父の手には、王家の封蝋が付いた書状があった。
「先触れは来た。婚約を破棄したことと、お前が我が家の監督下で帰邸することだけだ。事件について、何があった」
リディアは、広間での出来事を順に話した。
セシル・ベルネットが毒を盛られたこと。王宮の私室から瓶が見つかったとされたこと。四人が証言したこと。
そして、エドワードが婚約の破棄を告げたこと。
父は一度も遮らなかった。
家令が、証言者の名前を書き留めている。覚えている範囲で伝えると、聞き間違いのないように、一つずつ確かめてくれた。
「私は、その瓶を知りません」
リディアは膝の上で指をそろえた。
「セシル様のお茶にも触れておりません」
「分かった」
返事は早かった。
リディアは顔を上げた。
「……それだけで、よろしいのですか」
「調べるべきことは調べる。だが、お前がしていないと言うなら、私はそれを前提に動く」
父は書状を卓へ置いた。
丁寧な動作だった。
その直後、椅子の肘掛けを握った指が白くなった。
「正式な審理を待つと言いながら、皆の前で犯人同然に扱う。公爵家への事前の照会もなく、幼い頃からの婚約を、その場で……」
「あなた」
母が静かに呼んだ。
父は口を閉じた。
リディアは何か言おうとしたが、喉が詰まった。
王宮では、無実だと何度も言えた。
ここでは信じると言われただけで、続きが出てこない。
母が手巾を卓に置いた。
差し出されるよりも、そのほうがありがたかった。
リディアは目元を押さえた。
父は暖炉へ顔を向け、火ばさみで薪を一本動かした。十分に燃えている薪だった。
少し待ってくれているのだろう。
「証拠と証言の記録を求める。私室の出入りについても、記録を残すよう申し入れる」
父が再び話し始めたときには、声が落ち着いていた。
「お前にも、覚えていることを後で書いてもらいたい。分からないことは、分からないと書けばいい」
「はい」
「ただし、今夜ではない」
父の視線が皿へ向いた。
「今夜は食べて、眠りなさい」
リディアはスープと菓子を見比べた。
「こちらからでも、よろしいでしょうか」
菓子を指すと、母が小さく笑った。
「今夜くらいは構いません」
苺は、思っていたより甘かった。
菓子の薄い生地は少し崩れやすく、切り分けるとクリームが横へはみ出した。
おいしい。
こんな日にそう思えることが、不思議だった。
◇◇◇
翌朝、リディアはいつもの時刻に目を覚ました。
窓の外は、まだ薄明るい。
起きて朝食を取り、講義の前に系譜を見直さなければならない。
三人の、同じ名前の王。
そこで昨夜のことを思い出した。
リディアは掛布を見つめた。
もう一度眠ってもよいのだろうか。
十五年ほど続けてきた朝の手順には、講義がなくなった場合の項目がなかった。
控えめなノックの後、侍女のマリナが入ってきた。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう。今日の講義は……」
「ございません。教育に関する予定は、すべて停止するとの連絡が届いております」
「女官の方との打ち合わせも?」
「はい」
「明日の語学は」
「そちらも」
リディアは身体を起こした。
マリナの手帳から、細い紙が何枚も抜かれている。王宮から渡された日程表だった。
昨夜まで、なくしてはいけないものだった。
今朝は、まとめて封筒へ収められている。
「午後は?」
「仕立屋が参ります。夏の部屋着の仮縫いです」
「ああ」
リディアは少し安心した。
部屋着は、婚約を破棄されても作るらしい。
衣装棚には、講義用の濃い青の服と、庭を歩くときの若草色の服が並んでいた。
今日は、若草色を選んだ。
時計を確かめずに髪を整えてもらうのは、妙な気分だった。急がなくてよいはずなのに、鏡の端に映る針が気になる。
「朝食に遅れませんかしら」
「お支度ができましたら、お運びするそうです」
食事まで、こちらを待ってくれるらしい。
それは少々、落ち着かなかった。
食堂には母だけがいた。
父は朝早くから王宮へ出向いたという。
「あなたの予定は、こちらでも整理しておくわ」
母は小さな手帳を開いた。
慈善会。王妃の行事。隣国の使節を迎える式典。
王太子妃候補として出席する予定に、細い線が引かれていく。
リディアはその指先を見ていた。
準備に何日もかけたものが、一本の線で消える。
覚えた挨拶も、調べた出席者の経歴も、今は使い道がなくなった。
「勉強したことまで、なくなるわけではないわ」
母が手を止めた。
リディアは顔を上げた。
「顔に出ていましたか」
「少しだけ」
母は手帳を閉じた。
「使う機会が変わるだけよ。今、次の使い道を決めなくてもいいの」
「では、今日は何をすれば」
「何もしなくても構いません」
リディアは困った。
何もしないという予定は、どう守ればよいのだろう。
◇◇◇
その日の午後、父が戻った。
王国の司法官が事件を改めて調べ、瓶の鑑定記録、証言の聴取記録、私室の管理記録を確認することになったという。
公爵家からは抗議の書状と、証拠を保全するよう求める書面を提出した。
「王宮の私室へは、当面入れない」
父が言った。
「片づけも止めてもらった。中の物を動かす前に、記録を取らせる」
「私の系譜集も、でしょうか」
「置いてあるなら、そうだな」
リディアは頷いた。
隣国の三人の王は、しばらく王宮に残るらしい。
少し気の毒だったが、取りに行きたいほどではなかった。
リディアが問題の茶会について書いたのは、便箋三枚分だった。
誰と話したか。どこを通ったか。セシルの裾が燭台に近づいていたこと。
時刻の分からないところには、分からないと書いた。
父は受け取ると、家令に控えを作らせた。
「これでよろしいのですか」
「ああ。後で思い出したことがあれば、付け加えればいい」
もっと何かをしなければならない気がした。
けれど、父は書類を持って出ていき、マリナは刺繍の籠を用意した。
リディアの午後には、まだ空きがあった。
◇◇◇
再調査が始まって二日後、最初の報告が届いた。
茶会の配膳を手伝った使用人が、勤務に現れなかったという。
実家へ戻るという書き置きが残されていたが、実家には帰っていなかった。
翌日には、リディアの化粧台で瓶を見たと証言した侍従が、病気を理由に辞職を願い出た。
その日の夜、彼は王都を出る乗合馬車の待合所で見つかった。
荷物には、長い旅に使う外套と、新しい靴が入っていたという。
「病気で辞めるのに、旅へ?」
リディアが尋ねると、父は頷いた。
「その点も含めて、司法官が事情を聞いている」
「では、嘘をついたのですか」
「まだ、それだけでは決められない」
父は報告書を裏返した。
「疑われるのが怖くて逃げる者もいる。逃げた理由と、証言が事実かどうかは、それぞれ確かめる必要がある」
リディアは、その言葉を覚えておこうと思った。
逃げたから嘘つきだと決めれば、瓶があったから犯人だと決められた自分と、同じことになる。
ただし、気になるものは気になる。
翌日には、王宮へ薬品を納める商人も、店を閉めようとしていたと分かった。
帳簿の提出を求める使者が到着したとき、荷車にはすでに金庫が載っていたらしい。
ずいぶん大きな旅支度だった。
リディアの机には、報告書が増えていった。
最初は一枚だった。
次に三枚。
その次には、家令が紐で綴じたものを持ってきた。
父は、公爵家に共有された報告のうち、リディアが知っておくべき箇所に細い紙を挟んでくれている。すべて読む必要はないと言われたが、自分に関することなので、読まずにもいられなかった。
机の右側には、予定を取り消した手帳。
左側には、文字の詰まった報告書。
リディアは両方を見比べた。
「予定は減ったはずなのですけれど」
マリナが茶を置いた。
「はい」
「机は、以前より狭くなったわ」
「別の机をご用意いたしましょうか」
「増やせばよいというものでも、ない気がするの」
マリナはもっともらしく頷いた。
その後ろで、侍女が菓子の皿を持ったまま待っている。
机に置き場所がなかった。
リディアは報告書を重ね直した。
まず菓子の場所を確保することに、異論はなかった。
◇◇◇
屋敷の警戒も、以前より厳しくなった。
届け物は家令が確認し、厨房へ入る品物には仕入先が記録される。リディア宛ての花も、すぐには部屋へ運ばれなくなった。
茶を淹れるのは、いつも同じ侍女だった。
給仕の途中で人が替わらないようにしているという。
「私は、毒を盛ったほうとして疑われたのよね」
リディアが言うと、マリナは真顔で頷いた。
「はい」
「なぜ私のお茶が、これほど守られているのかしら」
「お嬢様の私室へ、覚えのない品が持ち込まれた可能性がございますので」
そう言われると、もっともだった。
もっともではあるが、茶の載った盆を三人が見守っていると、少し飲みにくい。
菓子を二つ取ったことまで、全員に知られてしまう。
自由になったはずなのに、見ている人は増えたようだった。
それでも、庭を歩く時間はできた。
温室で苺の白い花を見つけ、昨夜食べた焼き菓子に使われていた苺も、この温室で育てられたものだと教わった。
図書室では、講義に指定されていない本を選んだ。
旅行記だった。
著者が最初の宿で財布をなくし、三頁にわたって宿主へ文句を言っている。
最後には、自分の外套から見つかった。
リディアはそこで笑ってしまった。
試験には出そうもない話だった。
◇◇◇
六日目の午後、父が新しい報告書を持ってきた。
いつもより薄い。
しかし、父は立ったまま渡さず、向かいの椅子へ座った。
「侍従の件だ」
リディアは本を閉じた。
「荷物から、隣国の通貨が見つかった」
「旅行のための、お金では?」
「それだけなら、そう考えられる」
父は書面の一か所を示した。
「だが、数か月にわたる送金の記録も出た。送金元は、隣国の商館を介している」
金額は、侍従の給金と比べると随分大きかった。
さらに、王宮の勤務予定を書いた紙が、金を受け取った日付と一緒に保管されていたという。
「司法官が、事件とは別に、この金の出所も調べている」
「毒の件より前からですか」
「ああ」
リディアは、広間で盆を持っていた侍従を思い出した。
あの場では、誰もが王太子のために働いているように見えた。
その中に、別の誰かから金を受け取っていた者がいる。
知らない瓶が自分のものになっていたときとは、また違う寒さがあった。
父はもう一枚、紙を出した。
「商人の帳簿にも、同じ商館からの入金があった」
「二人、ということですか」
「今のところは」
リディアは報告書を机へ置いた。
予定を取り消した手帳が、その下に隠れた。
自分の婚約がなくなった事件なのに、知らない人と知らない金が、次々に現れる。
何が起きていたのだろう。
父が席を立とうとしたとき、扉が叩かれた。
家令だった。
新しい封書を差し出し、父の耳元へ短く告げる。
父の表情が変わった。
「……子爵にもか」
リディアは顔を上げた。
あの夜、自分がセシルを快く思っていなかったと証言した子爵。
先に壁の絵を眺めていた、王太子の側近である。
父は封書を開き、しばらく黙って読んだ。
「届け出のない私的な文書を、隣国の使節館とやり取りしていた記録が見つかったそうだ」
「先ほどの商館と、同じ国ですか」
「ああ。ただし、別の経路だ」
リディアは瞬きをした。
一人の人間が、自分を陥れた。
そういう単純な話ではないらしい。
父は書面を閉じた。
「この件は、婚約だけの問題では済まないかもしれない」
窓の外では、庭師が花壇に水をやっていた。
明日の午前中も、リディアの予定は空いている。
空いているのに、王宮では随分と忙しく人が動いているようだった。
リディアは、新しい報告書のために菓子の皿を少し横へ寄せた。
「お父様」
「何だ」
「殿下のおそばには、あと何人いらっしゃるのでしょう」
父は、すぐには答えなかった。
リディアも、それ以上は聞かなかった。
数え始めたら、今日の午後が埋まってしまいそうだった。




