↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄されました。ところで殿下、側近が減っていませんか?  作者: そらのことのは


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/4

第2話 予定は減ったはずですが

 公爵邸の玄関には、父が立っていた。


 夜会用の上着は脱いでいたが、襟元はまだ整っている。背後には家令と侍女長が控え、玄関の奥では母がこちらを見ていた。


 リディアが馬車から降りると、父は一歩近づいた。


 顔を見て、それから左手を見る。


「怪我はないか」


「ございません。ただいま戻りました、お父様」


「ああ。……よく帰った」


 その声を聞いて、リディアは少しだけ息を吐いた。


 帰ってくるまで、自分が家でも説明を求められることに身構えていたと気づいた。


 母が肩へショールを掛けてくれた。


「まず座りましょう。話は、それから」


 通されたのは家族用の小さな居間だった。


 暖炉には火が入り、卓には温かな茶と軽食が用意されている。薄いパン、スープ、それから苺の載った焼き菓子。


 リディアは、菓子を見た。


「料理長が、あなたの分を取っておいたの」


 母が言った。


「今夜は王宮で召し上がるでしょうと申し上げたのだけれど」


「……いただけませんでした」


「それなら、ちょうどよかったわ」


 母は皿を近くへ寄せた。


 父の手には、王家の封蝋が付いた書状があった。


「先触れは来た。婚約を破棄したことと、お前が我が家の監督下で帰邸することだけだ。事件について、何があった」


 リディアは、広間での出来事を順に話した。


 セシル・ベルネットが毒を盛られたこと。王宮の私室から瓶が見つかったとされたこと。四人が証言したこと。


 そして、エドワードが婚約の破棄を告げたこと。


 父は一度も遮らなかった。


 家令が、証言者の名前を書き留めている。覚えている範囲で伝えると、聞き間違いのないように、一つずつ確かめてくれた。


「私は、その瓶を知りません」


 リディアは膝の上で指をそろえた。


「セシル様のお茶にも触れておりません」


「分かった」


 返事は早かった。


 リディアは顔を上げた。


「……それだけで、よろしいのですか」


「調べるべきことは調べる。だが、お前がしていないと言うなら、私はそれを前提に動く」


 父は書状を卓へ置いた。


 丁寧な動作だった。


 その直後、椅子の肘掛けを握った指が白くなった。


「正式な審理を待つと言いながら、皆の前で犯人同然に扱う。公爵家への事前の照会もなく、幼い頃からの婚約を、その場で……」


「あなた」


 母が静かに呼んだ。


 父は口を閉じた。


 リディアは何か言おうとしたが、喉が詰まった。


 王宮では、無実だと何度も言えた。


 ここでは信じると言われただけで、続きが出てこない。


 母が手巾を卓に置いた。


 差し出されるよりも、そのほうがありがたかった。


 リディアは目元を押さえた。


 父は暖炉へ顔を向け、火ばさみで薪を一本動かした。十分に燃えている薪だった。


 少し待ってくれているのだろう。


「証拠と証言の記録を求める。私室の出入りについても、記録を残すよう申し入れる」


 父が再び話し始めたときには、声が落ち着いていた。


「お前にも、覚えていることを後で書いてもらいたい。分からないことは、分からないと書けばいい」


「はい」


「ただし、今夜ではない」


 父の視線が皿へ向いた。


「今夜は食べて、眠りなさい」


 リディアはスープと菓子を見比べた。


「こちらからでも、よろしいでしょうか」


 菓子を指すと、母が小さく笑った。


「今夜くらいは構いません」


 苺は、思っていたより甘かった。


 菓子の薄い生地は少し崩れやすく、切り分けるとクリームが横へはみ出した。


 おいしい。


 こんな日にそう思えることが、不思議だった。


 ◇◇◇


 翌朝、リディアはいつもの時刻に目を覚ました。


 窓の外は、まだ薄明るい。


 起きて朝食を取り、講義の前に系譜を見直さなければならない。


 三人の、同じ名前の王。


 そこで昨夜のことを思い出した。


 リディアは掛布を見つめた。


 もう一度眠ってもよいのだろうか。


 十五年ほど続けてきた朝の手順には、講義がなくなった場合の項目がなかった。


 控えめなノックの後、侍女のマリナが入ってきた。


「おはようございます、お嬢様」


「おはよう。今日の講義は……」


「ございません。教育に関する予定は、すべて停止するとの連絡が届いております」


「女官の方との打ち合わせも?」


「はい」


「明日の語学は」


「そちらも」


 リディアは身体を起こした。


 マリナの手帳から、細い紙が何枚も抜かれている。王宮から渡された日程表だった。


 昨夜まで、なくしてはいけないものだった。


 今朝は、まとめて封筒へ収められている。


「午後は?」


「仕立屋が参ります。夏の部屋着の仮縫いです」


「ああ」


 リディアは少し安心した。


 部屋着は、婚約を破棄されても作るらしい。


 衣装棚には、講義用の濃い青の服と、庭を歩くときの若草色の服が並んでいた。


 今日は、若草色を選んだ。


 時計を確かめずに髪を整えてもらうのは、妙な気分だった。急がなくてよいはずなのに、鏡の端に映る針が気になる。


「朝食に遅れませんかしら」


「お支度ができましたら、お運びするそうです」


 食事まで、こちらを待ってくれるらしい。


 それは少々、落ち着かなかった。


 食堂には母だけがいた。


 父は朝早くから王宮へ出向いたという。


「あなたの予定は、こちらでも整理しておくわ」


 母は小さな手帳を開いた。


 慈善会。王妃の行事。隣国の使節を迎える式典。


 王太子妃候補として出席する予定に、細い線が引かれていく。


 リディアはその指先を見ていた。


 準備に何日もかけたものが、一本の線で消える。


 覚えた挨拶も、調べた出席者の経歴も、今は使い道がなくなった。


「勉強したことまで、なくなるわけではないわ」


 母が手を止めた。


 リディアは顔を上げた。


「顔に出ていましたか」


「少しだけ」


 母は手帳を閉じた。


「使う機会が変わるだけよ。今、次の使い道を決めなくてもいいの」


「では、今日は何をすれば」


「何もしなくても構いません」


 リディアは困った。


 何もしないという予定は、どう守ればよいのだろう。


 ◇◇◇


 その日の午後、父が戻った。


 王国の司法官が事件を改めて調べ、瓶の鑑定記録、証言の聴取記録、私室の管理記録を確認することになったという。


 公爵家からは抗議の書状と、証拠を保全するよう求める書面を提出した。


「王宮の私室へは、当面入れない」


 父が言った。


「片づけも止めてもらった。中の物を動かす前に、記録を取らせる」


「私の系譜集も、でしょうか」


「置いてあるなら、そうだな」


 リディアは頷いた。


 隣国の三人の王は、しばらく王宮に残るらしい。


 少し気の毒だったが、取りに行きたいほどではなかった。


 リディアが問題の茶会について書いたのは、便箋三枚分だった。


 誰と話したか。どこを通ったか。セシルの裾が燭台に近づいていたこと。


 時刻の分からないところには、分からないと書いた。


 父は受け取ると、家令に控えを作らせた。


「これでよろしいのですか」


「ああ。後で思い出したことがあれば、付け加えればいい」


 もっと何かをしなければならない気がした。


 けれど、父は書類を持って出ていき、マリナは刺繍の籠を用意した。


 リディアの午後には、まだ空きがあった。


 ◇◇◇


 再調査が始まって二日後、最初の報告が届いた。


 茶会の配膳を手伝った使用人が、勤務に現れなかったという。


 実家へ戻るという書き置きが残されていたが、実家には帰っていなかった。


 翌日には、リディアの化粧台で瓶を見たと証言した侍従が、病気を理由に辞職を願い出た。


 その日の夜、彼は王都を出る乗合馬車の待合所で見つかった。


 荷物には、長い旅に使う外套と、新しい靴が入っていたという。


「病気で辞めるのに、旅へ?」


 リディアが尋ねると、父は頷いた。


「その点も含めて、司法官が事情を聞いている」


「では、嘘をついたのですか」


「まだ、それだけでは決められない」


 父は報告書を裏返した。


「疑われるのが怖くて逃げる者もいる。逃げた理由と、証言が事実かどうかは、それぞれ確かめる必要がある」


 リディアは、その言葉を覚えておこうと思った。


 逃げたから嘘つきだと決めれば、瓶があったから犯人だと決められた自分と、同じことになる。


 ただし、気になるものは気になる。


 翌日には、王宮へ薬品を納める商人も、店を閉めようとしていたと分かった。


 帳簿の提出を求める使者が到着したとき、荷車にはすでに金庫が載っていたらしい。


 ずいぶん大きな旅支度だった。


 リディアの机には、報告書が増えていった。


 最初は一枚だった。


 次に三枚。


 その次には、家令が紐で綴じたものを持ってきた。


 父は、公爵家に共有された報告のうち、リディアが知っておくべき箇所に細い紙を挟んでくれている。すべて読む必要はないと言われたが、自分に関することなので、読まずにもいられなかった。


 机の右側には、予定を取り消した手帳。


 左側には、文字の詰まった報告書。


 リディアは両方を見比べた。


「予定は減ったはずなのですけれど」


 マリナが茶を置いた。


「はい」


「机は、以前より狭くなったわ」


「別の机をご用意いたしましょうか」


「増やせばよいというものでも、ない気がするの」


 マリナはもっともらしく頷いた。


 その後ろで、侍女が菓子の皿を持ったまま待っている。


 机に置き場所がなかった。


 リディアは報告書を重ね直した。


 まず菓子の場所を確保することに、異論はなかった。


 ◇◇◇


 屋敷の警戒も、以前より厳しくなった。


 届け物は家令が確認し、厨房へ入る品物には仕入先が記録される。リディア宛ての花も、すぐには部屋へ運ばれなくなった。


 茶を淹れるのは、いつも同じ侍女だった。


 給仕の途中で人が替わらないようにしているという。


「私は、毒を盛ったほうとして疑われたのよね」


 リディアが言うと、マリナは真顔で頷いた。


「はい」


「なぜ私のお茶が、これほど守られているのかしら」


「お嬢様の私室へ、覚えのない品が持ち込まれた可能性がございますので」


 そう言われると、もっともだった。


 もっともではあるが、茶の載った盆を三人が見守っていると、少し飲みにくい。


 菓子を二つ取ったことまで、全員に知られてしまう。


 自由になったはずなのに、見ている人は増えたようだった。


 それでも、庭を歩く時間はできた。


 温室で苺の白い花を見つけ、昨夜食べた焼き菓子に使われていた苺も、この温室で育てられたものだと教わった。


 図書室では、講義に指定されていない本を選んだ。


 旅行記だった。


 著者が最初の宿で財布をなくし、三頁にわたって宿主へ文句を言っている。


 最後には、自分の外套から見つかった。


 リディアはそこで笑ってしまった。


 試験には出そうもない話だった。


 ◇◇◇


 六日目の午後、父が新しい報告書を持ってきた。


 いつもより薄い。


 しかし、父は立ったまま渡さず、向かいの椅子へ座った。


「侍従の件だ」


 リディアは本を閉じた。


「荷物から、隣国の通貨が見つかった」


「旅行のための、お金では?」


「それだけなら、そう考えられる」


 父は書面の一か所を示した。


「だが、数か月にわたる送金の記録も出た。送金元は、隣国の商館を介している」


 金額は、侍従の給金と比べると随分大きかった。


 さらに、王宮の勤務予定を書いた紙が、金を受け取った日付と一緒に保管されていたという。


「司法官が、事件とは別に、この金の出所も調べている」


「毒の件より前からですか」


「ああ」


 リディアは、広間で盆を持っていた侍従を思い出した。


 あの場では、誰もが王太子のために働いているように見えた。


 その中に、別の誰かから金を受け取っていた者がいる。


 知らない瓶が自分のものになっていたときとは、また違う寒さがあった。


 父はもう一枚、紙を出した。


「商人の帳簿にも、同じ商館からの入金があった」


「二人、ということですか」


「今のところは」


 リディアは報告書を机へ置いた。


 予定を取り消した手帳が、その下に隠れた。


 自分の婚約がなくなった事件なのに、知らない人と知らない金が、次々に現れる。


 何が起きていたのだろう。


 父が席を立とうとしたとき、扉が叩かれた。


 家令だった。


 新しい封書を差し出し、父の耳元へ短く告げる。


 父の表情が変わった。


「……子爵にもか」


 リディアは顔を上げた。


 あの夜、自分がセシルを快く思っていなかったと証言した子爵。


 先に壁の絵を眺めていた、王太子の側近である。


 父は封書を開き、しばらく黙って読んだ。


「届け出のない私的な文書を、隣国の使節館とやり取りしていた記録が見つかったそうだ」


「先ほどの商館と、同じ国ですか」


「ああ。ただし、別の経路だ」


 リディアは瞬きをした。


 一人の人間が、自分を陥れた。


 そういう単純な話ではないらしい。


 父は書面を閉じた。


「この件は、婚約だけの問題では済まないかもしれない」


 窓の外では、庭師が花壇に水をやっていた。


 明日の午前中も、リディアの予定は空いている。


 空いているのに、王宮では随分と忙しく人が動いているようだった。


 リディアは、新しい報告書のために菓子の皿を少し横へ寄せた。


「お父様」


「何だ」


「殿下のおそばには、あと何人いらっしゃるのでしょう」


 父は、すぐには答えなかった。


 リディアも、それ以上は聞かなかった。


 数え始めたら、今日の午後が埋まってしまいそうだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。